明治維新という名称と、徳富蘇峰
大正元年。明治の帝が崩御あそばされ、ひとつの巨大な時代が、まるで分厚い書物のように、静かに閉じられた。この新しい御代の空気に乗じてか、巷では過ぎ去った明治の四十五年間を総括し、その功罪を論じる声が日増しに高まっている。そして誰もが、判で押したように、あの時代の始まりをこう呼ぶ。
「明治維新」と。
この、今や我々の血肉と化した感のある「明治維新」という四文字。私はふと、この言葉そのものについて、考え込んでいた。我々はいつから、あの出来事をそう呼ぶようになったのだろうか。そして、この「維新」という、どこか古めかしく、それでいて輝かしい響きを持つ言葉は、あの血と炎と混沌に満ちた時代の始まりを、本当に、正しく言い表しているのであろうか。
言葉は、単なる記号ではない。それは、歴史に「意味」を与える、強力な呪術である。そして、この「明治維新」という言葉を国民の間に定着させ、ひとつの壮大な「物語」として語り聞かせた最大の功労者こそ、かの徳富蘇峰その人ではなかったか。私はこの国の最も劇的な時代の転換点を思う時、蘇峰という、巨大な言論人の影を意識せずにはいられないのだ。
明治初旬の、私が幼い頃。父や、その周りの大人たちが、あの出来事を「明治維新」と呼んだ記憶はない。
彼らは、それを「御一新」と呼んだ。それはまるで天変地異か、あるいは抗うことのできぬ大きな運命の転換のような響きを持つ言葉であった。徳川の世が終わり、何もかもがガラリと新しくなってしまった。そこには、誰かの意図というよりは、むしろ時代の大きなうねりそのものに対する、ある種の諦念と畏怖の念が込められていたように思う。
あるいは、薩長の側から来た役人たちは、それを「王政復古」と呼んだ。これは明らかに政治的な意図を持った言葉であった。徳川幕府は本来、天皇から政を預かっていたに過ぎぬ。その政権を、本来あるべき姿、すなわち天皇親政の古の姿に「復す」のだ、と。これは、彼らのクーデターを正当化し、自らを「官軍」とし、我ら幕府方を「賊軍」へと貶めるための、巧みなプロパガンダであった。
旧幕臣であった父は、これらの言葉を苦々しげに口の端に乗せることはあっても、決して心から認めてはいなかった。父にとって、あれは「維新」でも「復古」でもなく、薩長の田舎侍によるただの「天下盗り」であり、理不尽な「内乱」でしかなかった。そこには美しい理念などひとかけらも存在しない。あるのは、勝者の傲慢と、敗者の無念だけであった。
そうした様々な呼び名が未整理のまま混沌と混じり合っていたのが、明治の初めの空気であった。あの出来事の歴史的な意味は、まだ定まってはいなかったのだ。
その混沌に、ひとつの明確な光を当て、国民的な「物語」として再構築したのが、徳富蘇峰であった。
私がまだ書生であった頃、蘇峰が主宰した『国民之友』や『国民新聞』は、まさに時代の寵児であった。彼はそれまでの漢文調の堅苦しい文章ではなく、平易で、情熱的な、まるで語りかけるような文体で、新しい時代の青年たちに訴えかけた。「平民主義」。生まれや家柄ではなく、個人の才覚と努力によって、誰もがこの国を担う主役になれるのだ、と。その思想は、我々のような旧士族の子弟にとっても、新しい時代の生き方を示すひとつの指針であった。
その蘇峰が、「維新」という言葉を用いている。
「維新」とは、もともと『詩経』にある一句に由来するという。
「周は旧邦なりと雖も、其の命維れ新たなり」。
旧いものを、ただ破壊するのではない。旧い伝統に立ち返り、そこから新しく生まれ変わる。それが、「維新」の持つ本来の意味である。
蘇峰は、あの血生臭い内乱に、この「維新」という名を与えた。
それは、なぜであったか。私はそこに、蘇峰の歴史家としての壮大な野心を見る。彼はあの出来事を、単なる権力闘争や、ましてや、西洋の模倣である「革命(Revolution)」として語ることを良しとしなかった。
彼はそれを、天皇を中心とした、日本の国体そのものの自発的な、そして歴史的必然としての自己改革の物語として描き出そうとしたのだ。黒船によって国難に目覚めた日本の国民が、藩という旧い殻を打ち破り、天皇の下にひとつにまとまり、新しい国家として生まれ変わった。その首尾一貫した壮大な物語。それこそが、蘇峰が描いた「明治維新」であった。
この物語は、あまりにも、魅力的であった。
それは、父が感じていたような敗者の無念や、混沌とした現実を巧みに覆い隠し、すべての日本人を、この「国民史」の輝かしい登場人物へと変えてくれた。我々は皆、この偉大な「維新」を成し遂げた国民の一員なのだ、と。この物語が、明治という新しい国家の、国民的アイデンティティを形成する上で、いかに大きな役割を果たしたか。計り知れないものがある。
官吏である私は、そのことを痛いほど理解している。
国民をひとつにまとめ、富国強兵を推し進めるためには、このような共有された「建国の物語」が必要不可欠であったのだ。蘇峰が与えてくれた「明治維新」という言葉とその物語は、まさに明治国家の精神的な背骨そのものであった。
だが、である。
旧幕臣の子である私の魂は、そのあまりにも美しく、整理されすぎた物語に、今なお完全には与することができない。
蘇峰の描く「国民史」の中で、賊軍として死んでいった会津の少年たちの涙や、上野の山で散った彰義隊の兵士たちの無念は、一体どこへ行ってしまったのか。それらはすべて、「維新」という大いなる目的のための些末な犠牲として切り捨てられてしまうのか。
父がその生涯をかけて守ろうとした徳川の「忠義」は、蘇峰の歴史観の中では、「封建の遺物」として、断罪される。私はそのことに割り切れない思いを抱く。
蘇峰の言う「平民」のエネルギーが新しい時代を切り開いたことは事実であろう。だが父たちが持っていた、頑迷で、非合理で、しかし純粋な、あの精神の気高さもまた、この国が育んできた尊いものではなかったか。
そして、蘇峰自身のその後の歩みもまた、私の心を複雑にさせる。
かつて、あれほどまでに平民主義を声高に叫んだ彼は、日清・日露の戦争を経て、次第に国家主義や皇室中心主義へと、その思想を大きく転換させていった。彼は自らが作り上げた「明治維新」の物語を、今度は帝国日本の海外への膨張を正当化するための壮大な序章として語り始めたのである。
それは、蘇峰個人の「変節」であったのか。いや、むしろそれは、明治という時代そのものの変化ゆえか。日本が、当初掲げていた「五箇条の御誓文」における「万機公論」の理想から、富国強兵、そして帝国主義という、むき出しの現実へと突き進んでいったその軌跡を、蘇峰という時代の寵児が、ただ忠実に体現していただけなのかもしれない。
大正元年の今、時代は、再び、大きく変わろうとしている。
デモクラシーの風が吹き、人々は明治の時代に作られた国家の権威そのものに疑問を投げかけ始めている。息子たちの世代は、蘇峰が描いたあの輝かしい「明治維新」の物語を、もはや鵜呑みにはしないだろう。彼らはその物語の光だけでなく、影の部分をも暴き出そうとしている。
徳富蘇峰。彼は言葉の力で歴史を創造した、稀代の人物である。
彼は「明治維新」という、ひとつの強力なレンズを我々に与えた。我々はそのレンズを通して、自らの過去を理解し、自らの現在を確認する。
だが、大正という新しい時代を生きる我々の務めは、もはやそのレンズを無批判に受け入れることではないのかもしれない。
我々は一度、そのレンズを外し、自らの裸眼で、あの混沌とした始まりの時代をもう一度見つめ直す必要があるのではないか。そこには、蘇峰の物語には描かれなかった、無数の名もなき人々の喜びと悲しみが埋もれているはずだ。父のような敗者の沈黙が横たわっているはずだ。
「明治維新」という言葉は、ひとつの偉大な「解釈」である。だがそれは、歴史の絶対的な「真実」ではない。そのことに、我々が気づく時、初めて我々は、明治という時代を真に乗り越えることができるのかもしれない。そして、それは名付けられることを待っている、我々自身の新しい「維新」の始まりとなるのかもしれない。
この国の、終わることのない自己変革の物語。その次なる一頁を、誰が、どのような言葉で書き記していくのだろうか。私は静かに考えていた。
-了-
ゆきむらです。御機嫌如何。
ゆきむらが書いているもののひとつ、『明治時代と同い年』。歴史小説というか、当時の人間になり切って書く歴史コラムというか、そんな感じのものなのですが。
ストックが尽きた。週イチで更新するのがもう、難しくなりました。
いろいろ資料を読んだり、あれこれテキストを練り込んだり、史実との整合性を改めて調べたり。とても一週間では追いつかない……。
そんなわけでして。今回にてひとまず完結とさせていただきます。
ただ、『明治時代と同い年』は書いていて楽しかったし、自分でも面白くできていると思うので。マイペースで書いていくつもりではいる。
これまで読んでいただいた方々、ありがとうございました。
よろしければまた、お会いしましょう。
ゆきむらでした。




