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明治時代と同い年  作者: 槇村 a.k.a. ゆきむらちひろ


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明治元年(1868年)、慶応から明治へ

 大正元年も、はや師走。官庁街を吹き抜ける風は日増しに冷たさを増し、私の詰襟の首筋を刺す。役所の窓から見える冬空は低く、まるでひとつの時代を覆い隠すように広がっている。

 夏に明治の帝が崩御あそばされてから、季節は巡り、世は「大正」という新しい元号に慣れようとしている。新聞は来たるべき新年への期待を書き立て、街にはどこか浮ついた空気が漂い始めている。

 しかし、私の心は未だ、あの夏の日から時が止まったままだ。


 四十五年前、私は「明治」という名と共にこの世に生を受けた。私の人生は、明治そのものであった。その終わりは、私自身の存在の一部が失われたにも等しい。この年の瀬、私は柄にもなく、己の「始まり」の年について、深く思いを馳せている。明治元年、西暦で言えば千八百六十八年。私が生まれた、あの激動の年のことである。


 もちろん、生まれたばかりの私に、その年の記憶などあろうはずもない。私の知る「明治元年」とは、父が酒の席で断片的に語った思い出と、長じてから私が読み漁った書物や公文書の記述によって、後から頭の中で再構築された、いわば知識としての風景だ。それでも、その年は私の原点であり、この国の原点でもある。その始まりを知らずして、明治の終わりを、そしてこれから始まる大正の世を語ることなどできようか。


 私が生まれた慶応四年、後に明治元年と改元されるその年は、血と炎と、そして希望と混乱の匂いに満ちていた。


 父は、徳川の恩顧を受けた幕臣であった。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れたという報が江戸に届いた時の、屋敷内の凍りついたような空気。父の話によれば、それは世界の終わりにも似た絶望感だったという。二百六十年以上も続いた徳川の治世が、薩摩や長州といった「田舎侍」たちによって、こうも容易く覆されようとは、誰もが信じられなかった。


「上野の山は、火の海だった」


 父はよくそう言った。彰義隊が新政府軍に一日で蹴散らされた上野戦争。父は直接戦には加わらなかったが、その日の江戸市中に立ち込めた煙の匂いと、遠くに響く砲声のことは、終生忘れられないと語っていた。それは、ひとつの秩序が、武力によって完全に破壊される音だったのだ。


 その頃、母は私を身ごもっていた。砲声に怯え、いつ江戸の町が戦火に巻き込まれるかと、不安な日々を過ごしたという。そんな混乱の極みにあった江戸で、西郷隆盛と勝海舟の会談によって江戸城の無血開城が決まったことは、まさに奇跡であったと父は言う。もし、江戸市中が火の海となっていれば、私も母も生きていなかったかもしれぬ。私は、歴史の偶然の狭間で、かろうじて命を与えられたのだ。


 そして九月八日、元号は「慶応」から「明治」へと改められた。『易経』にある「聖人南面して天下を聴き、明にむかいて治む」という言葉から取られたという、輝かしい響きを持つ元号。だが、当時の江戸の、いや東京と名を変えたばかりのこの街の庶民にとって、それはどれほどの意味を持っただろうか。徳川の世が終わり、新しい「お上」ができた。しかし、明日の米の心配をせねばならぬことに変わりはない。父のような旧幕臣たちにとっては、それは屈辱と没落の始まりを告げる名でしかなかった。


 私の幼い頃の記憶にあるのは、新しい時代への希望よりも、むしろ古い時代の残滓であった。近所にはまだ刀を差したままの誇り高い浪人者が住んでおり、子供心に恐ろしく思ったものだ。父は職を失い、家は困窮を極めた。母は、武家の妻としての誇りを捨て、内職に精を出していた。家の中には、過ぎ去った栄光への未練と、先の見えぬ不安が、澱のように沈んでいた。


 そんな中で、世の中は凄まじい速さで変わっていった。

 五箇条の御誓文。「広く会議を興し、万機公論に決すべし」。漢学の素養があった父は、新聞の片隅に書かれたその一文を読み、「これは、とんでもないことが始まったのかもしれん」と呟いたという。天皇が神々の前で誓いを立て、広く民の意見を求めるという。武士がすべてを決めていた世の中から、まったく違う何かが始まろうとしていた。


 版籍奉還、そして廃藩置県。二百数十あった「藩」という国が解体され、日本は初めてひとつの「国家」として統一された。薩摩の人間も、長州の人間も、そして徳川の臣であった我々も、皆等しく「日本国民」であると。それは、頭では理解できても感情が追いつかないほどの大変革であった。父は「薩長政府の天下取りの口実に過ぎん」と吐き捨てるように言ったが、その声には、もはや抗うことのできぬ巨大な時代の流れへの諦めが滲んでいた。


 文明開化の波は、あっという間に東京を飲み込んでいった。

 ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする――そんな歌が流行った。ちょんまげが消え、洋装の男女が闊歩する。牛肉を食べることを「牛鍋」と称し、ハイカラなことの象徴とした。私の家は貧しく、牛鍋など夢のまた夢であったが、街角から漂ってくる甘辛い匂いに、新しい時代の到来を実感したものである。


 私が小学校に通い始めた頃には、すでに「修身」の教科書が、我々の精神の拠り所となっていた。そこには、徳川も薩長もなく、ただ「天皇陛下」と「大日本帝国」への忠誠だけが説かれていた。江戸城は宮城きゅうじょうとなり、帝は京都からこの東京へお移りになられた。我々東京の子供たちは、日本の中心にいるのだという、漠然とした、しかし強い誇りを植え付けられていった。それは、父たちの世代が抱いていた徳川への忠誠心とはまったく異質の、より大きく、より抽象的な「国家」への帰属意識であった。


 明治元年という年は、まさに破壊と創造の年であった。

 古い幕藩体制という建物を徹底的に破壊し、その瓦礫の上に、西洋に倣った「国家」という新しい建物の設計図を描いた年。その設計図を描いたのは、薩長を中心とする若い志士たちであり、その労働力となったのは、我々すべての日本国民であった。


 彼らが目指したものは何だったのか。それは、アヘン戦争で清がそうであったように、西洋列強の植民地となることを避ける、という一点に尽きたであろう。


 富国強兵。国を豊かにし、強い軍隊を持つこと。それが至上命題であった。そのためには、身分制度をなくし、国民すべてから才能ある者を集め、国力を結集する必要があった。五箇条の御誓文も、廃藩置県も、すべてはそのための手段であったのだ。


 官吏となった私は、その「国家」という巨大な機械の歯車のひとつとして、人生を捧げてきた。地租改正の現場で農民の苦難を知り、憲法発布の熱狂に身を震わせ、二度の大きな戦争で国家の栄光と犠牲を目の当たりにした。そのすべての源流は、あの明治元年にあったのだ。


 あの年、もし西郷と勝の会談が決裂していたら。

 あの年、もし欧米列強が本格的な内政干渉に乗り出していたら。


 歴史に「もし」はない。だが、そう考えずにはいられないほど、明治元年の日本は、薄氷を踏むような危うい道を歩んでいた。多くの血が流れ、多くの人々が故郷や誇りを失った。その犠牲の上に、我々の「明治」は築かれたのである。


 父は、明治の世に最後まで馴染めぬまま、世を去った。父にとって明治とは、奪われた時代であったのかもしれない。しかし、明治元年に生まれた私にとって、明治とは、与えられた時代であった。学ぶ機会が与えられ、努力次第で官吏にさえなれる道が与えられた。それは、徳川の世であれば、決してあり得なかったことだ。私は、父が失ったものを、形を変えて取り戻そうとしていたのかもしれない。武士の「忠義」を、国家への「奉公」という新しい衣に着せ替えて。


 今、大正の世が始まり、巷では「デモクラシー」が声高に叫ばれている。民衆が主役となる時代なのだという。それは、明治元年の御誓文にある「万機公論に決すべし」という理想が、四十五年の時を経て、ようやく本当の意味で実現しようとしている姿なのかもしれない。


 だが、私には一抹の不安がある。

 我々が明治の四十五年間で築き上げてきたものは、果たして民衆に委ねて良いほど強固なものだろうか。秩序、規律、滅私奉公の精神。それらがあって初めて、日本は列強と渡り合うことができたのではないか。個人の自由や権利ばかりが声高に叫ばれれば、この国をひとつにまとめてきたたがが、緩んでしまうのではないか。


 明治元年、我々は混乱の中からひとつの方向を指し示した。それは「西洋に追いつけ」という、分かりやすい目標であった。国民は、その目標の下に団結することができた。しかし、ある程度追いついた今、我々は何を目指せば良いのか。その答えを、新しい時代はまだ示してはいない。


 私の息子は、私が生きた時代を、いずれ古く息苦しい時代だったと評するのだろう。それはそれで、仕方のないことだ。時代は常に、新しい世代によって乗り越えられていくものだからだ。


 ただ、忘れてはならない。我々が今立っているこの場所は、何もない荒野に突然現れたわけではない。明治元年という、破壊と混乱の年に、血と涙で礎石を据えた者たちがいたからこそ、存在するのである。古いものを憎み、新しいものだけを追い求めるだけでは、やがて足元が崩れ去るだろう。


 年の瀬の静かな官舎で、私はひとり、熱い茶をすする。この一杯の茶を静かに飲める平和もまた、あの始まりの年の苦闘の賜物なのだ。


 慶応四年から明治元年へ。それは、単なる元号の変更ではなかった。徳川という「家」の支配から、天皇を戴く「国家」の時代へ。武士の世から、国民の世へ。それは、この国の形と魂が、根底から作り変えられた、偉大なる、そして恐るべき転換点であった。


 私は、その年に生まれた。その宿命を、今更ながらに重く、そして誇らしく思う。大正の世がどのような時代になろうとも、私の根っこには「明治」が深く張られている。それだけは、決して変わることのない真実なのだ。



 -了-

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