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明治時代と同い年  作者: 槇村 a.k.a. ゆきむらちひろ


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明治四十四年(1911年)、小村寿太郎の死去後

 大正元年の歳末が近づき、ふと思い返したことがある。去年の晩秋、明治四十四年(1911年)十一月の新聞の片隅に短い記事として掲載された、ある人物の訃報。


 その名は、小村寿太郎。


 享年、五十七。あまりにも早すぎる死であった。

 日露の戦役後に持病を悪化させ、療養のために移り住んだという神奈川県葉山の別荘で、彼は静かに、その波乱に満ちた生涯の幕を閉じたという。


 その報に接した時、私の胸を突いたのは、深い喪失感。そして、ひとつの時代の真の終わりを告げられたような、言いようのない寂寥感であった。巷では、彼の死はさほど大きな話題とはならなかった。日清・日露の英雄である、山県や大山、東郷といった軍人たちのように、華々しく語られることもない。


 だが私のような、明治という国家の内側からその営みを見てきた人間にとって、小村寿太郎という存在は、それらの軍人たちとはまったく違う、しかし比較しようもないほどに巨大なものであった。彼は、銃ではなく、言葉と知性と、そして不屈の精神を武器に、外交というもうひとつの戦場で、この国のために生涯を捧げた、偉大な闘士であった。


 そして、彼の死は、明治という時代が、その最も困難な課題をついに乗り越えたことを、静かに、しかし決定的に象徴していたのである。


 小村寿太郎。その名を世間の人々が、良くも悪くも強烈に意識したのは、やはり、明治三十八年(1905年)のポーツマス講和条約の時であろう。


 日露戦争の全権としてアメリカに渡った彼は、国民が夢想したような莫大な賠償金を取ることができず、帰国した際には「国賊」「弱腰外交」と激しい罵声を浴びた。一部の暴徒は、彼の屋敷を襲撃さえした。あの時の、国民の激しい怒りと幻滅。その記憶は今なお生々しい。


 しかし、あれから七年が経ち、冷静な視点を取り戻した今。我々は知っている。あの時の彼の決断がいかに困難で、そしていかに正しかったかを。


 あの当時、我が国の国力はすでに限界に達していた。もし彼が国民の熱狂に迎合し、交渉を決裂させていれば、日本はその後の戦争で確実に敗北していたであろう。彼は一身に国民の非難を浴びることを覚悟の上で、国を破滅の淵から救い出したのだ。あの小柄な身体のどこに、それほどの重圧に耐える鋼のような強靭さが宿っていたのだろうか。


 「国を売った」と罵ったその同じ口で、人々は彼が勝ち取った南満州の権益をさも当然のように享受している。歴史とは、時に残酷なほどに皮肉なものである。


 だが、彼の真の功績は、ポーツマスでの、あの苦渋の決断だけにとどまるものではない。いやむしろ彼の外交官としての生涯は、それ以前も、それ以後も、一貫してひとつの巨大な目標に向けられていた。それは幕末以来、この国を縛り付け、半人前の国家としての地位に甘んじさせてきた、「不平等条約の改正」という、明治国家の最大の悲願であった。


 彼の外交官としてのキャリアは、まさに、そのための闘いの連続であった。

 日清戦争後の、三国干渉の屈辱。彼は外務次官として、その苦い経験を骨の髄まで味わった。その時から、彼の視線は常に、ロシアという巨大な脅威と、その背後に蠢く西洋列強のむき出しのパワーポリティクスに注がれていた。


 そして、彼が外務大臣としてその手腕を遺憾なく発揮したのが、明治三十五年(1902年)の日英同盟締結である。

 当時、世界最強を誇った大英帝国と、極東の有色人種の新興国家である日本が、対等な軍事同盟を結ぶ。それは世界の誰もが予想だにしなかった、外交上の一大快挙であった。


 この同盟がなければ、我々は日露戦争を戦うことさえできなかっただろう。もし、ロシアと戦っている背後から、フランスやドイツが、ロシアに加勢してきたら、日本はひとたまりもなかった。日英同盟は、その第三国の干渉を牽制し、日本とロシアを一対一の状況で戦わせるための、極めて高度な戦略的布石であったのだ。


 小村は、イギリスの極東におけるロシアへの警戒心と、日本の対ロシア戦への固い決意を巧みに結びつけ、この歴史的な同盟をまとめ上げた。それは彼の国際情勢に対する深い洞察力と、粘り強い交渉力の賜物であった。


 そして、彼の生涯の集大成とも言うべき事業が、日露戦争後の、ポーツマスの、あの苦しい交渉の、さらにその先に待っていた。


「関税自主権の完全回復」。


 治外法権の撤廃は、すでに日清戦争後、陸奥宗光の手によって達成されていた。しかし、関税自主権という、国家の経済主権に関わる、最後の、そして、最も厚い壁が、我々の前に立ちはだかっていた。


 小村は、ポーツマスから帰国した後も休む間もなく、この、最後の戦いに、その身を投じた。病に蝕まれ、その身体は日に日に痩せ衰えていったという。だが彼の精神は、少しも、衰えを見せなかった。


 彼は、日露戦争の勝利という、我が国が手にした最大の外交的カードを最大限に活用し、アメリカやイギリスを始めとする列強との困難な交渉に臨んだ。


 そしてついに、明治四十四年。彼がその生涯を閉じる、わずか数ヶ月前。我が国はアメリカとの間に新しい通商航海条約を締結した、半世紀以上にわたって我々を縛り付けてきた屈辱の軛である、関税自主権を、完全に取り戻したのだ。


 この報を聞いた時、病床にあった小村は深く、安堵の息を漏らしたという。


「これで、思い残すことはない」


 彼の生涯は、まさに、この国の真の独立を勝ち取るための闘いの生涯であった。そして、その死の直前に、自らの手で、その闘いに終止符を打ったのである。


 彼の死後、その評価はどうであろうか。

 ポーツマスでの一件以来、彼に貼り付けられた「弱腰外交」というレッテルは、今なお一部の人々の間で根強く残っている。

 彼は決して民衆に愛されるタイプの政治家ではなかった。常に冷静で、現実的で、そして国家の長期的な利益のためには、目先の国民感情を切り捨てることも厭わない。その非情ともいえるほどのリアリズムは、しばしば民衆の熱狂的なナショナリズムと衝突した。


 しかし、歴史のより大きな視点から見れば、彼の功績は計り知れないほどに大きい。彼は明治という時代が日本に課した最も困難なふたつの課題をその双肩に背負い、そして見事に解決してみせたのだ。


 ひとつは、「ロシアの脅威から、いかにしてこの国を守るか」という、安全保障上の課題。

 もうひとつは、「不平等条約を、いかにして改正するか」という、国家主権に関わる課題。


 彼は、日英同盟と、日露戦争の勝利(と、その現実的な講和)によって、前者を解決し。そして関税自主権の回復によって、後者を完全に解決した。

 小村が敷いたレールの上を、今の日本は走っている。彼の死と共に、明治の日本は、その最も困難であった「国造り」の時代を終えたのだ。


 大正という新しい時代に生きる我々は、いわば彼がその命を削って建ててくれた頑丈な家に住んでいるようなものである。その家の礎がいかにして築かれたかを知らずに、ただ、その安楽さだけを享受している。


 私は、小村寿太郎という人物を思う時、ある種の孤独な巨人の姿を思い浮かべる。民衆の喝采に背を向け、ひたすら国家の未来だけを見据え、荒波の中をひとり、船を漕ぎ続けた男。その航海の苦難と孤独を、真に理解する者は少なかった。


 彼の死は、あまりにも静かであった。だがその静けさこそが、彼がその生涯をかけてこの国にもたらしてくれたものの大きさの証であるように、私には思える。真の偉業とは、往々にして、その渦中においては正しく評価されないものなのかもしれない。


 大正元年の冬。

 私は、あの小柄な、しかし誰よりも強靭な精神を持った偉大な外交官の魂が、安らかであることを心から祈る。

 そして、彼が残してくれた、この完全に独立した主権を保ちつつ、日本という国が世界のあらゆる国々と対等に渡り合えて行けることを、願ってやまない。



 -了-

読んでいただきありがとうございます。

次回の更新は11月28日になります。


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