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明治時代と同い年  作者: 槇村 a.k.a. ゆきむらちひろ


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明治四十四年(1911年)、関税自主権の回復

 大正元年の歳末が近づき、官庁街にもせわしない空気が満ちている。新しい御代の、初めての新年を前にして、誰もがどこか浮き足立っているようだ。そんな喧騒の中で、私はふと、去年の夏を思いを馳せる。明治四十四年(1911年)に、この国が成し遂げた、ある静かな、しかし極めて重大な悲願達成。


「関税自主権の完全回復」。


 日清・日露の華々しい戦勝の陰に隠れ、また今年起きた明治帝の崩御という国を揺るがす大事件の前に、その報は、ややもすれば霞んでしまいがちである。この言葉が持つ本当の重みを、巷の若者たちはどれほど理解しているだろうか。


 私のような、明治という時代と共に歩み、国家の舵取りの末端に関わってきた人間にとって、これは単なる外交上の一勝利などではない。我が国は、幕末の安政五年(1858年)に、かの不平等条約を課せられた。それ以来、実に半世紀以上もこの国の経済を縛り付け、国家の主権を蝕んできた屈辱の軛。それからついに、完全に解き放たれたことを意味する。それは、銃火を交えることのない、もうひとつの、長く、そして苦しい「戦争」の、最終的な勝利宣言であったのだ。


 そもそも、この「関税自主権がない」という状態が、いかに異常で、そして我が国にとって致命的な足枷であったか。それを理解するためには、時計の針を、私が生まれる十年も前、あの幕末の混乱期にまで戻さねばなるまい。


 黒船の圧力の前になすすべもなかった徳川幕府は、アメリカをはじめとする西洋列強との間に、次々と修好通商条約を結んだ。その中に盛り込まれていたのが、「協定税率」という、巧妙な罠であった。すなわち、我が国が輸入品にかける関税の税率を、自らの意志で決めることができず、相手国との「協定」によって、極めて低い水準で一方的に固定されてしまう、という取り決めである。


 当時の幕府の役人たちは、国際法や近代経済に、あまりにも無知であった。彼らは、これが国家の主権を根幹から揺るがすものであることに、おそらく気づいてさえいなかっただろう。


 この結果、何が起きたか。

 安い外国製品が、関税という防波堤なしに、洪水のように、国内市場へ流れ込んできた。特にイギリス製の、機械で大量生産された安価な綿織物は、瞬く間に我々の国の、手工業による伝統的な綿織物産業を壊滅状態に追い込んだ。農家の女たちが夜なべ仕事で丹精込めて織り上げた布は、もはやまったく競争にならなかったのである。


 さらに、国家の財政にとっても、これは致命的な打撃であった。関税とは本来、国家の歳入を支える重要な柱のひとつであるはずだ。しかし、その税率を極めて低く抑えられてしまったために、国庫に入るべき金がまったく入ってこない。明治政府は、発足当初から深刻な財政難に苦しむことになった。その穴を埋めるために政府が頼ったのが、国民、特に、農民からの重い税、すなわち「地租」であった。


 つまり、関税自主権の欠如は、一方では国内の産業を圧迫し、もう一方ではそのしわ寄せとして国民に過酷な負担を強いるという、二重の苦しみをもたらしたのだ。それは目には見えないが、確実にこの国の経済の血を吸い続ける、巨大な蛭のようなものであった。


 明治維新が成り、新しい政府が発足した時。この不平等条約の改正は国家の最重要課題、まさに悲願として掲げられた。岩倉使節団が欧米へ渡った、その最大の目的のひとつも、この条約改正の予備交渉にあった。しかし、彼らが目の当たりにしたのは、国際社会の冷徹な現実であった。


「条約は、国家間の神聖な約束事である」

「貴国が真に我々と同じ文明国であると証明できぬ限り、改正には応じられない」


 西洋列強は口ではそう言いながら、本音では、この不平等条約がもたらす自国の経済的利益を手放すつもりなど毛頭なかったのだ。


 ここから我が国の、長く、そして屈辱に満ちた、条約改正への闘いが始まった。

 それはまさに、「脱亜入欧」の道のりそのものであった。我々は、彼らに「文明国」と認めさせるため、必死で国のかたちを西洋風に作り変えていった。


 鹿鳴館での、あの滑稽とも言われた夜会も。大日本帝国憲法という、アジアで最初の近代憲法を制定したことも。西洋式の裁判制度や、警察制度を導入したことも。そのすべてが、究極的には、この条約改正というひとつの目標に収斂していたと言っても過言ではない。我々はまず、治外法権(領事裁判権)を撤廃させ、その上で関税自主権の回復を目指す、という二段構えの戦略をとった。


 官吏である私は、そのための国内法整備の作業の末端を担った。西洋の法律書を翻訳し、日本の実情に合わせて、一つひとつの条文を練り上げていく。その地道な作業の向こうに、我々は、いつの日かこの国が真の独立国家として、世界と対等に渡り合える日が来ることを夢見ていた。


 だが、道のりは、あまりにも遠かった。

 明治二十年代。大隈重信外相が、外国人判事を任用するという、大幅な譲歩案をもって改正交渉に臨んだ。だが国内の強硬派から「国辱的だ」と猛反発を受け、爆弾を投げつけられ、片足を失うという悲劇まで起きた。


 潮目がようやく変わり始めたのは、日清戦争の勝利によってであった。

 この勝利で、我が国の国際的地位は飛躍的に向上した。列強も、もはや日本を、アジアの小国として無視することはできなくなった。


 明治二十七年(1894年)。陸奥宗光外相はこの好機を逃さず、まずイギリスとの間に日英通商航海条約を締結することに成功した。これにより我々は、ついに治外法権の撤廃を勝ち取ったのである。


 この報に、日本中が沸いた。それは銃火を交えることなく、外交という、もうひとつの戦場で勝ち取った、偉大な勝利であった。しかし、関税自主権については、依然として税率の一部引き上げが認められただけである。完全な回復には、程遠かった。イギリスは自国の産業を守るため、最後までこの一点だけは譲らなかったのだ。


 そして、決定的な転機となったのが、日露戦争の勝利であった。

 世界最強と謳われた、白色人種の帝国ロシアを、我々有色人種の国家が打ち破った。この歴史的な快挙は、もはや世界のどの国も、日本を対等な国家として扱わざるを得ない、という状況を作り出した。


 外務大臣・小村寿太郎は、この千載一遇の好機を逃しはしなかった。ポーツマスでのあの苦しい講和交渉を終えた彼は、その足で、休む間もなく次の戦い、すなわち関税自主権の完全回復に向けた最終交渉へと、乗り出していったのである。


 交渉は、明治四十年頃から本格化した。相手は、アメリカ、イギリスを始めとする十数カ国。一筋縄ではいかなかった。各国の産業界は、日本の関税が引き上げられることで、自国の製品が日本市場で競争力を失うことを恐れていた。彼らは様々な理屈をつけ、抵抗を試みた。


 だが、もはや時代は幕末の頃とは違っていた。

 我々には、日露戦争に勝利したという、揺るぎない実績があった。そして、小村外相の下、外務省の官僚たちは、各国の経済状況を徹底的に分析し、理論武装を固め、粘り強く交渉を続けた。


「自主権の回復は、独立国家として、当然の権利である」

「我が国の産業を保護し、育成することは、国家の正当な政策である」


 その主張は、もはや誰にも否定できるものではなかった。


 そして、ついに、その時は来た。

 明治四十四年。アメリカとの間で、新しい通商航海条約が結ばれ、関税自主権の完全回復が明記された。これを皮切りに、イギリス、ドイツ、フランスといった他の列強も、次々と同様の条約改正に応じた。


 去年の七月、改正条約が一斉に発効された。

 その日のことを、私は今も鮮明に覚えている。役所内は静かな、しかし深い感動と安堵の空気に包まれていた。派手な祝賀行事があったわけではない。だが、我々、この改正に長年心を砕いてきた者たちは、互いに目と目でその労をねぎらい合った。


 安政五年以来、五十三年。

 実に、半世紀以上の歳月を経て、我々はついに、国家として当たり前の権利をその手に取り戻したのだ。それは、この国が経済的にも真の「独立」を果たした、歴史的な瞬間であった。


 関税自主権の回復は、直ちに我が国の経済に大きな恩恵をもたらした。

 政府は早速、新しい国定税率を定め、輸入品への関税を大幅に引き上げた。これにより、まず国家の税収が著しく増加した。そして、これまで安価な輸入品に苦しめられてきた、国内の綿織物業や製糖業といった産業は、ようやく外国製品と対等な条件で競争できるようになった。それは日本の産業が、自らの足で立ち、成長していくための、大きな追い風となった。


 大正元年の今。振り返ってみれば、明治という時代はまさに、この不平等条約の改正に始まり、そして終わった時代であった、と言えるのかもしれない。

 治外法権の撤廃が、日清戦争という「武」の勝利によって達成されたとするならば。関税自主権の回復は、日露戦争というさらなる「武」の勝利を背景としながらも、外交という「文」の力で粘り強く勝ち取った、もうひとつの、偉大な勝利であった。


 この、武力と外交という、車の両輪があって初めて、我々は真の独立を成し遂げることができたのだ。

 そのことを、今の若い世代は忘れてはならない。我々が今、享受しているこの繁栄は、決して当たり前のものではない。それは、小村寿太郎を始めとする無数の先人たちが、半世紀にもわたって屈辱に耐え、知恵を絞り、時には命を賭して、戦い取ってくれた尊い果実なのである。


 大正という、新しい時代。我々はもはや、不平等条約の改正という、分かりやすい国家目標を持たない。これからはこの、完全に独立した主権国家として、世界の中でいかにしてその責任を果たし、そして自らの進むべき道を見出していくかという、より困難な課題に直面することになる。


 関税自主権という、重く、そして尊いバトンを、我々は確かに受け取った。

 このバトンをどう使い、この国をどのような未来へと導いていくのか。その責任は、今や我々、大正の時代を生きる者たちの双肩にかかっているのだ。


 冬の陽光が差し込む執務室で、私は改めて、その責任の重さを噛み締めていた。



 -了-

読んでいただきありがとうございます。

次回の更新は11月21日になります。


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