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明治時代と同い年  作者: 槇村 a.k.a. ゆきむらちひろ


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明治四〇年(1907年)以降の、日露協約とその影響

 大正元年の冬。日露戦争の勝利から、早や七年の歳月が流れた。かの大戦の傷跡も癒え、人々は束の間の平和を謳歌している。若い世代にとっては、「鬼畜露西亜」などという言葉は、もはや歴史の教科書の中の言葉でしかないのかもしれない。それどころか、新聞の国際欄を賑わせているのは、かつて死闘を演じたロシア帝国との、度重なる「協約」締結のニュースである。


 明治四十年(1907年)の第一次協約に始まり、四十三年の第二次、そしてつい今年の夏に結ばれた第三次日露協約。この一連の協約が、我が国の外交政策上、いかに重要な意味を持つか。官吏である私は、職務の上でしっかり理解しているつもりだ。しかし、ひとりの国民として、そして、あの挙国一致の熱狂と苦難を記憶する者として、昨日までの敵と、今日、にこやかに握手を交わすという、この国際政治の非情な現実に、ある種の割り切れなさと、一抹の不安を禁じ得ない。


 日露協約。それは、日露戦争という名の巨大な火山が噴火した後に、その地殻変動の結果として生まれた、新しい大陸の秩序であった。そして、その秩序は、かつて我々が理想として掲げたものとは、似て非なる姿をしていたのである。


 我々がなぜ、あれほどの犠牲を払って戦った相手であるロシアと手を結ばねばならなかったのか。その理由を理解するためには、日露戦争が終わった直後の、極東アジアの情勢に目を向けねばなるまい。


 明治三十八年(1905年)に結ばれたポーツマス講和条約によって、我々は辛うじてロシアの南下を食い止め、南満州における権益と、韓国における優越権を確保した。しかしそれは、決して安泰なものではなかった。戦争に勝利したとはいえ、我が国の国力は疲弊の極みに達していた。一方、ロシアは革命の動乱こそあれ、その巨大な国力は依然として我々を遥かに凌駕していた。彼らがいつ復讐の戦いを挑んでくるとも限らない。その脅威は常に、我々の背後に重くのしかかっていたのだ。


 さらに、我々の前に、新たな競争相手が立ちはだかっていた。

 アメリカ合衆国である。

 日露戦争の講和を仲介したアメリカは、戦後、日本の大陸における権益拡大を露骨に警戒し始めた。彼らは「門戸開放」や「機会均等」という、耳障りの良いスローガンを掲げ、我々が満州で築き上げた鉄道や鉱山の利権に横から割り込もうと画策する。鉄道王ハリマンによる南満州鉄道の共同経営案などは、その典型であった。


 そして、我々の同盟国であったはずのイギリスもまた、ロシアの脅威が後退したことで、日本の台頭をむしろ警戒するようになっていた。日英同盟は、あくまで「対ロシア」という共通の目的があったからこそ、成り立っていたのである。


 つまり、日露戦争後の日本は、国際社会において奇妙な「孤立」状態に陥っていたのだ。ロシアという旧敵、アメリカという新興の競争相手、そして、心変わりし始めた同盟国イギリス。この三つの大国に囲まれ、我々が死に物狂いで手に入れた満州の権益は、常に風前の灯火であった。


 この四面楚歌の状況を、どう打開するか。

 その答えが、「敵との連携」であった。外相・小村寿太郎や、時の実力者であった伊藤博文、桂太郎らが導き出した結論。それはあまりにも現実的で、そして冷徹なものであった。すなわち、満州における日本の権益を最も脅かす可能性のある国は、アメリカではなく、依然として、地理的に隣接するロシアである。ならば、そのロシアと、満州における互いの勢力範囲(利益線)を明確に線引きし、相互に承認し合うことで他の列強、特にアメリカの介入を、共同で排除する。それが双方にとって最も現実的な利益となる、と。そう判断したのだ。


 「敵の敵は味方」という、古い言葉がある。この場合の「共通の敵」とは、満州市場への進出を狙うアメリカであった。昨日まで殺し合った相手と、今日は共通の利益のために手を結ぶ。そこに国民感情の入り込む余地はなかった。それが、国際政治という、非情な遊戯の掟であった。


 こうして、明治四十年に、第一次日露協約が結ばれた。

 その内容は、公には、両国の領土の保全、清国の独立、門戸開放などを謳った、当たり障りのないものであった。しかし、その裏で交わされた秘密協定こそが本質であった。北満州はロシアの、南満州は日本の勢力範囲とし、互いに相手の勢力範囲を侵害しない、と。そして、日本は外モンゴルにおけるロシアの特殊権益を、ロシアは日本が韓国を保護国とすることを、それぞれ暗黙のうちに承認したのである。


 この協約は、直ちにその効果を発揮した。日露両国が足並みを揃えて満州の権益を主張し始めると、アメリカは容易に手出しができなくなった。我々は最大の懸案であった満州の権益を、ひとまず安定させることができたのである。


 続く明治四十三年の第二次協約では、両国の連携はさらに一歩進んだ。勢力範囲の相互承認に加えて、「両国は、その勢力範囲を維持するため、協力する」という、事実上の準軍事同盟ともいえる内容が盛り込まれた。これはアメリカが提唱した満州鉄道中立化案という、我々の権益を根底から揺るがす提案に対抗するためのものであった。


 そして、今年の夏に結ばれた第三次協約。

 これは、清国で辛亥革命が起き、中華民国が成立するという、大陸の動乱に対応するためのものであった。我々はこの機会を捉え、秘密協定によって内モンゴルを東西に分割し、東部を日本の、西部をロシアの勢力範囲とすることを取り決めた。我々はロシアとの連携を深めることで、中国大陸における自らの取り分を、着実に拡大していったのである。


 官吏である私は、これらの協約が、我が国の国益にいかに大きく貢献したかを、否定することはできない。それは小国である日本が、大国に囲まれた厳しい国際環境の中で生き残り、そして発展していくための、実に巧みで、現実的な外交戦略であった。


 しかし、である。

 ひとりの国民として、私の心には、拭いきれない疑問と、不安が残る。


 我々が日露戦争で戦った、その大義名分は何であったか。それは「満韓の独立と保全」ではなかったか。ロシアの侵略から、清国と韓国を守り、東洋の平和を維持する。我々はそう信じて戦ったのではなかったか。出征していく兵士たちは、その大義のために、命を捧げたのではなかったか。


 だが、戦後の現実はどうであろうか。

 我々は韓国を保護国とし、ついには併合した。そして満州においては、かつての敵であるロシアと手を組み、その地を、さながら自分たちの領土であるかのように分割支配している。清国の、いや、新しく生まれた中華民国の主権など、そこには一片も尊重されてはいない。


 我々がやっていることは、かつてロシアがやろうとしていたことと、一体何が違うというのか。我々はロシアという侵略者を追い払った後で、自分たちが新しい侵略者になっているのではないか。


 「東洋の平和」という、美しい理想。それはいつの間にか、「帝国日本の権益拡大」という、むき出しの現実にすり替わってしまった。日露協約とは、その現実を、最も象徴するものであった。それは、ふたつの帝国主義国家が、獲物である中国をいかに分け合うかを密談する、盗賊の盟約にも似ていた。


 私はこの現実に、ある種の自己欺瞞を感じずにはいられない。

 あの戦争で死んでいった十万の英霊たちに、我々は胸を張って、今のこの国の姿を報告できるのだろうか。「あなた方が命を捧げたおかげで、我々はロシアと仲良く、満州を分け合うことができました」と。


 そして、この協約がもたらす、未来への不安。

 我々は、ロシアと手を組むことで、アメリカとの対立を決定的なものにしてしまった。そして何よりも、我々は、隣人である中国の深い恨みを買っている。今はまだ生まれたばかりで無力な中華民国も、いずれは国力を回復し、我々が奪った利権を取り戻そうと、牙を剥いてくるに違いない。


 その時、我々はどうするのか。ロシアとの同盟は永遠に続くのか? そんな保証など、どこにもない。国際関係とは、国益によって、昨日までの敵が今日の友となり、今日の友が明日の敵となる、冷徹な世界なのだ。我々はこの危うい権益を守るために、未来永劫、大陸で緊張を強いられ続けることになるのではないか。


 日露協約。それは明治の日本が、日露戦争という、国家の存亡を賭けた大勝負に勝った後で、ついに「理想」を捨て、「現実」に徹することを決意した、一つの転換点であった。

 その冷徹な現実主義が、この国の安全と繁栄を、一時的にもたらした。そのことはまぎれもない事実である。


 だがその代償として、我々は、かつて掲げた大義名分という、国家の「魂」の一部を売り渡してしまったのかもしれない。

 大正の世を生きる我々は、この魂の不在という見えざる病を抱えながら、進んでいかねばならない。その先に、どのような未来が待っているのか。今の私には、ただ、漠然とした不安しか、感じることができないのである。



 -了-

読んでいただきありがとうございます。

次回の更新は、10月31日になります。


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