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明治時代と同い年  作者: 槇村 a.k.a. ゆきむらちひろ


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明治三十七年(1904年)、日露戦争

 元号が大正へと変わってしばらく。年の暮れも間近ということもあり、新しい御代の空気に世間はどこか浮かれている。日比谷の公園ではハイカラな洋装の男女が腕を組み、カフェーでは学生たちがデモクラシーの是非を声高に論じている。この平和と繁栄が、まるで永遠に続くかのように。


 その光景を眺めるたび、私の胸にはある記憶が蘇ってくる。わずか七、八年前、あの、国中が息を殺し、固唾を飲んで戦況を見守った日々の記憶。


 日露戦争。


 この国の存亡を懸けて、世界最強と謳われた大国ロシアと戦い、そして奇跡的な勝利を収めた、あの栄光と、そして痛みに満ちた二年間。 それは明治という時代の、そして我々の世代の、まさに青春そのものであった。


 当時の私は、三十六、七歳。働き盛りの官吏であった私は、銃後のひとりとして、この歴史的な大戦に関わった。その戦争での勝利が、この国に何をもたらし、我々がその代償として何を支払ったのか。私はそれらを生々しく、目の当たりにした。

 大正の平和を享受する若い世代は、そのことを、果たしてどれほど理解しているのだろうか。私は、あの坂の上の光と、その麓に横たわる深い影に、改めて思いを馳せずにはいられない。


 そもそも、なぜ我々は、あの戦いに身を投じねばならなかったのか。

 すべての始まりは、日清戦争後の、あの三国干渉の屈辱にあった。「臥薪嘗胆」。我々はロシアを中心とする列強の恫喝の前に、一度は手にした遼東半島を、涙を飲んで手放した。あの日以来、「打倒ロシア」は、この国の悲願とも言うべき国民的な合言葉となったのである。


 ロシアの脅威は、日に日に現実のものとなっていた。彼らは我々が手放した遼東半島をいとも容易く租借し、そこに巨大な要塞と軍港を築き始めた。旅順と大連である。シベリア鉄道が満州を貫き、ロシアの兵士と物資が洪水のように流れ込んでくる。彼らの次なる狙いが朝鮮半島であることは、火を見るよりも明らかであった。


 朝鮮半島がロシアの手に落ちれば、日本の独立は風前の灯火となる。常に喉元へ匕首を突きつけられているのと同じだ。我々には、もはや選択の余地はなかった。この脅威を実力で排除する以外に、生き残る道はなかったのだ。


 明治三十七年二月。ついに開戦の火蓋が切られた。

 世界中の誰もが、日本の敗北を信じて疑わなかった。人口、国土、資源、そして常備兵力。そのどれをとっても、ロシアは日本の十倍以上もの国力を持つ、まさに巨象であった。我々はその巨象に挑む、一匹の蟻に過ぎなかった。


 開戦の日の、あの静まり返った、しかし鋼のような緊張感に満ちた東京の空気を、私は忘れることができない。誰もが、この戦の持つ意味を、そしてその困難さを、痛いほど理解していた。出征していく兵士たちを見送る「万歳」の声。それにはただの勇ましさだけではない、どうか生きて帰ってきてくれ、という、家族や隣人たちの切なる祈りが込められていた。


 私の役所の同僚の中にも、赤紙一枚で、慣れぬ軍服に身を包み、大陸へと渡っていった者が何人もいた。彼らの机が空のまま残されているのを見るたび、我々銃後に残された者は、一層職務に励まねばならぬと心を固くしたものである。増税に次ぐ増税。国債の募集。婦人会による慰問袋作り。日本は文字通り、国力のすべてをこの一点に注ぎ込んでいた。「一億一心」。「挙国一致」。その言葉に、偽りはなかった。


 戦況は、一進一退であった。

 仁川沖海戦、鴨緑江の渡河作戦と、緒戦こそ、我が軍の奇襲によって有利に進んだ。だが本当の地獄は、そこから始まった。


 旅順要塞。

 ロシアが、極東における最大の拠点として、近代科学の粋を集めて築き上げた難攻不落の要塞。この要塞を、そしてそこに籠るロシア太平洋艦隊を叩かねば、我々は制海権の確保も、満州での決戦もおぼつかない。乃木希典大将率いる第三軍が、この攻略にあたった。


 連日、新聞で伝えられるのは、凄惨な白兵戦の様子であった。二百三高地。そのわずかな丘を奪い合うために、何千、何万という我が国の兵士たちの命が、まるで消耗品のように失われていく。機関銃の掃射の前に肉弾となって突撃し、そして散っていく若者たち。私の故郷の村の若者たちも何人もが、この旅順の土となった。その戦死公報が役所に届くたび、私は、その一枚の紙の重さに、胸が押し潰されるような思いがした。


 乃木大将が、二人の息子をこの戦で失ったという報に、日本中が涙した。だが誰も、大将を責めはしなかった。皆が同じ痛みを分かち合っていたからだ。この苦しみの先に、必ずや勝利があると、信じていたからだ。


 そして、長く苦しい攻防の末、ついに旅順は陥落した。二百三高地から送られた観測情報に基づき、我が海軍の砲撃が、港内のロシア艦隊を撃滅した。この勝利のために我々が支払った犠牲は、あまりにも大きかった。しかし、この勝利なくして、次の段階へは進めなかったのだ。


 続く、満州での決戦。奉天会戦である。

 両軍合わせて、六十万以上もの兵力が激突する、世界史上でも稀に見る大規模な会戦であった。我が軍は、辛うじて勝利を収めた。だがその実態は、勝利というにはあまりにも危ういものであった。弾薬も、兵力も、限界に達していた。これ以上、戦争を継続する力は、日本にはもはや残されていなかったのである。


 まさに国家が燃え尽きる寸前に、奇跡の報がもたらされた。

 明治三十八年五月。日本海海戦である。

 ロシアが、国威を賭けて本国から派遣した、世界最強と謳われたバルチック艦隊。この艦隊を、東郷平八郎大将率いる連合艦隊が、対馬沖で迎え撃った。


「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」。この電文が新聞に掲載された時、日本中が、神に祈るような気持ちで、固唾を飲んだ。


 そして、もたらされたのは、信じられないような、完全勝利の報であった。敵艦のほとんどを撃沈、または拿捕し、我が方の損害は軽微。この世界海戦史上にも例のない一方的な勝利によって、ロシアはついに戦争継続の意欲を失った。


 あの日の、東京中の歓喜の声を、私はどう表現すれば良いだろうか。人々は街に飛び出し、見ず知らずの者と肩を組んで泣き、万歳を叫び続けた。提灯行列は夜を徹して都大路を埋め尽くした。私もまた、その群衆の中にいた。我々は勝ったのだ。あの巨大なロシアに勝ったのだ。明治維新以来、三十数年間、臥薪嘗胆を重ねてきた我々の努力が、ついに、世界史的な奇跡を生み出した。あれほどの感動と興奮はおそらく、もう私の生涯で二度とないだろう。


 しかし、その栄光の頂点で、我々は再び厳しい現実に引き戻される。

 ポーツマス講和会議である。

 勝利したとはいえ、日本の国力はもはや限界であった。アメリカの仲介による講和は、渡りに船であった。しかし、その結果、結ばれた条約は国民が期待したようなものではなかった。賠償金は一銭も取れなかった。得られた領土は、南樺太のみ。


 この報に、国民の不満が爆発した。あれだけの犠牲を払い、あれだけの勝利を収めたというのに、なぜこれだけの戦果しか得られないのか。賠償金がなければ、増税に苦しむ我々の生活はどうなるのだ。「弱腰外交」を罵る声が、国中に満ち溢れた。そして、その不満はついに、日比谷焼き討ち事件という、暴動にまで発展した。


 私は官吏として、政府の苦しい立場を理解はしていた。賠償金が取れなかったのは、ロシアが最後まで「我々は負けていない」と言い張ったからだ。もし講和が決裂すれば、戦争は再開される。そうなれば、日本が確実に負ける。それは、政府部内では共通の認識であった。


 だが、その内情を知らぬ国民が怒るのも無理はなかった。

 この事件は、日露戦争がもたらしたもうひとつの側面を、我々に突きつけていた。それは、国民が国家の意思決定に公然と異を唱え始めた、最初の出来事であったのだ。挙国一致で戦い抜いたという自信が、国民に、政治への参加意識を芽生えさせたのかもしれない。大正デモクラシーの源流は、あるいはこの時にあったのかもしれない。


 日露戦争。それは、日本の独立を守り抜き、我々を名実ともに「一等国」の地位へと押し上げた、輝かしい勝利であった。

 しかし、その代償はあまりにも大きかった。十万余の戦死者と、その何倍もの負傷者。国家財政の破綻寸前にまで迫る莫大な戦費。そして、国民の心に残った、講和への不満という、癒えぬ傷。


 大正の平和を生きる若者たちよ。君たちが享受しているこの自由と繁栄は、決して当たり前のものではない。それは、旅順の丘で、満州の野で、そして日本海の荒波の上で、名もなき兵士たちが、その命と引き換えに、我々のために勝ち取ってくれたものなのだ。

 そのことを、決して、忘れてはならない。


 そして同時に、我々はあの勝利の記憶に、驕り高ぶってもならない。あの勝利は、国力のすべてを絞り尽くした上での、薄氷を踏むような、奇跡的な勝利であった。二度と、あのような無謀な賭けを繰り返してはならない。


 坂の上の光を目指して、我々は、無我夢中で坂を駆け上った。そして、ついに、その光を、この手に掴んだ。

 だが、その光の眩しさに、目をくらませてはならない。我々は今こそ、その光が落とす足元の深い影を、冷静に見つめ直す必要がある。それこそが、あの大戦を生き抜いた我々の世代に課せられた、最も重い責務なのだから。



 -了-


ゆきむらです。御機嫌如何。

今回のお話でいったんストックを出し切りました。

これ以降は毎週金曜日、週イチの更新になります。


次回の更新は、10月24日です。


ブックマークや評価、感想などいただけると励みになります。

ぜひとも。


では、今後ともよろしくお願いします。

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