明治二十八年(1895年)、三国干渉
日清戦争を想うならば、その後に起きた出来事にも触れずにはいられない。今から十七年前、明治二十八年(1895年)の春に、この国全体が味わった、あの煮え湯を飲まされるような深い屈辱の記憶。
三国干渉。
この四文字を、私と同世代の者で、特別な感情を抜きにして口にできる者はおそらくひとりもいないだろう。
日清戦争の輝かしい勝利に、日本中が沸き立っていた、まさにその頂点の時。我々は、むき出しの国際政治の非情さを、その喉元に冷たい刃として突きつけられたのだ。あの日の屈辱と、その時に交わした「臥薪嘗胆」の誓いこそが、その後の日本の十年を、いや、明治という時代の後半のすべてを、決定づけたと言っても過言ではない。
まず、あの干渉が、我々にとってどれほどの衝撃であったか。それを語るためには、その直前の、我々がいかなる高揚感の中にいたかを説明せねばなるまい。
明治二十七年からの一年間、我々は日清戦争の連戦連勝の報に、文字通り国を挙げて熱狂していた。千数百年もの間、我々が師と仰いできた大国・清を、この小さな島国が、近代的な軍事力と国家システムによって完膚なきまでに打ち破った。それは明治維新以来、二十数年間にわたる我々の国造りが正しかったことの、何よりの証明であった。
私は当時、二十七歳。一官吏として、日々、戦勝を伝える新聞の号外に胸を躍らせ、夜には同僚たちと祝杯を挙げていた。我々はもはや、西洋列強に怯えるだけのアジアの小国ではない。我々は、アジアの新しい盟主として、世界の舞台に躍り出たのだ。その誇りと自信が、国民の隅々にまで満ち溢れていた。
そして明治二十八年四月十七日。下関で講和条約が結ばれた。清は、朝鮮の独立を認めた。遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲し、莫大な賠償金を支払う。
この報に、日本中が、勝利の歓声に沸いた。特に、大陸への足掛かりとなる遼東半島の獲得は、我が国の安全保障と、将来の発展にとって、計り知れない価値を持つものと信じられた。これで、我々の流した血と汗は完全に報われたのだ、と。
その、まさに歓喜の絶頂にあった、わずか六日後のことである。四月二十三日。ロシア、ドイツ、フランスの三国公使が、外務省を訪れ、林董次官に対して、一枚の覚書を手渡した。
「遼東半島を日本が領有することは、清国の首都を脅かすものであり、朝鮮の独立を有名無実化し、ひいては極東の平和の障害となる。故に、日本政府に対し、同半島の放棄を勧告する」
かの国たちは「勧告」という言葉を使ってはいた。だがその裏にあるものは、むき出しの「武力による恫喝」である。そのことは誰の目にも明らかであった。特に、かねてより満州への南下政策を推し進めていたロシアは、極東に巨大な艦隊を集結させ、その砲門を我々に向けていた。
この報がもたらされた時、日本中の空気が一瞬にして凍りついた、あの感覚を、私は生涯忘れることはないだろう。昨日までの祝祭ムードは嘘のように消え失せ、代わりに、怒りと、絶望と、そして何よりも、深い「無力感」が、国全体を覆い尽くした。
なぜだ。我々は、正々堂々と戦い、勝利し、その正当な対価として、領土を得たはずではないか。それを、戦いにも参加していなかった第三者が、横から口を出し、力ずくで取り上げようというのか。こんな理不尽が、許されていいのか。
役所の廊下でも、街の居酒屋でも、誰もが憤懣やるかたないといった表情でこの問題を語り合った。「断じて受け入れるべきではない」「今こそ、三国を相手に一戦交えるべきだ」。血気盛んな若者たちは、そう息巻いた。しかし、我々官吏のように、少しでも国内外の情勢を知る者であれば、それがいかに無謀なことであるかは痛いほど分かっていた。
当時の日本の海軍力は、清国一国を相手にするのがやっとであった。ロシア、ドイツ、フランス。この、世界でも屈指の海軍力を持つ三国を同時に相手にして、戦いになるはずがない。戦えば確実に負ける。そして、負ければ、我々は日清戦争で得たものすべてを、いや、それ以上のものを、失うことになるだろう。
政府部内でも、激しい議論が交わされたと聞く。御前会議は連日、重苦しい沈黙に包まれた。陸奥宗光外相は病床にあり、伊藤博文総理は、苦悩の淵に沈んでいた。その時の伊藤公の心境を思うと、今なお、胸が締め付けられる。勝って兜の緒を締めよ、とは言うが、我々は勝利の瞬間に、それまでとは比較にならぬほど、巨大で、冷徹な敵と、向き合わねばならなくなったのだ。
結局、我々に選択の余地はなかった。五月四日、日本政府は、三国からの勧告を受諾する旨を回答した。我々は、血を流して勝ち取った遼東半島を、一滴の血も流さなかった者たちの恫喝の前に、手放すしかなかったのだ。
この決定が国民に伝えられた時、ある者は声もなく泣き、ある者は怒りに拳を震わせた。そして、誰もが心に深く、この言葉を刻み込んだ。「臥薪嘗胆」。今はこの屈辱に耐え、薪の上に寝て、苦い肝を嘗めるように、復讐の心を忘れるまい、と。
三国干渉が、その後の日本に与えた影響は計り知れないほど大きい。
第一に、それは我々の国際社会に対する認識を根本から変えた。
それまで我々は、どこか、国際法や公法といったものを、性善説的に信じていた部分があった。正義は、最終的には認められるはずだ、と。しかし、この一件で我々は、国際社会の真の姿が「弱肉強食」のジャングルに他ならないことを、骨の髄まで思い知らされた。正義も、信義も、結局は「力」の前には無力なのだ。ならば、我々が目指すべき道は、ひとつしかない。さらなる軍備拡張によって、誰にも文句を言わせないだけの「力」を持つことである。
この時から日本の国家目標は、明確に「対ロシア戦」へと、その照準を定めた。日清戦争の賠償金のほとんどは、軍備の拡張、特に最新鋭の戦艦の建造に注ぎ込まれた。国民もまた、増税の苦しみに耐え、その国策を一致団結して支持した。あの屈辱を晴らすためなら、どんな苦労も厭わない。その、ある種の悲壮な国民的合意が、この国を次の十年へと突き動かしていったのである。
第二に、それは国民のナショナリズムを、かつてないほどに強固にした。
三国干渉は、我々日本人が、人種的な偏見に晒されているという事実を、残酷なまでに浮き彫りにした。もし、日本が白色人種の国であったなら、果たして彼らは、これほどまでに高圧的な態度に出ただろうか。我々は、いくら文明化しようとも、彼らからは有色人種の「成り上がり者」としてしか見られないのではないか。その疑念と反発が、国民の間に広く共有された。
この経験は、単なる愛国心を超えて、ある種の選民思想のようなものさえ、我々の心に植え付けた。我々は、腐敗したアジアの旧秩序を打ち破り、そして、傲慢な西洋列強の圧迫にも屈しない、特別な使命を帯びた民族なのだ、と。この、どこか歪んだ、しかし強烈な自己認識が、その後の日本の帝国主義的な歩みを、精神的な面で支えていくことになった。
そして第三に、皮肉なことに、この干渉は日英同盟への道を拓いた。
ロシアの南下政策に、イギリスは同様の脅威を感じていた。それ故に、日本の苦境に同情し、その後の日本の軍備拡張を資金面で支援した。極東におけるロシアの牽制役として日本を利用しようという、極めて現実的な計算があったことは間違いない。しかし、この時の「貸し」が、後の日英同盟という、我々の外交史上、最大の成果へと繋がっていくのである。
そして、十年後。明治三十七年。我々は、臥薪嘗胆の誓いを果たした。
日露戦争である。
日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃滅したという報がもたらされた時、日本中が、十七年前の屈辱をようやく晴らすことができたと、涙ながらに歓喜した。三国干渉の時に、我々を恫喝したロシアを、我々は自らの力で打ち破ったのだ。
大正元年の今、改めて、あの十七年前の春を思う。
あの屈辱がなければ、我々は、日露戦争に勝利することはできなかったかもしれない。あの時、もし、遼東半島を安々と手に入れていれば、我々は、勝利に驕り、油断し、ロシアという真の脅威に対する備えを、怠っていたかもしれない。そう考えれば、三国干渉は、我々にとって、苦い良薬であったとも言える。
だがそれでも、あの時の、喉の奥に突き刺さった棘のような痛みは、決して消えることはない。
そして、私は、今の若い世代が、その痛みを知らずに、ただ「一等国」という栄光の上にあぐらをかいているように見えることに、一抹の不安を覚えるのだ。
国際社会とは、今なお、力の論理が支配する冷徹な場所である。我々が少しでも油断し、力を失えば、第二、第三の三国干渉が、いつ、どこから襲いかかってくるとも限らない。
臥薪嘗胆。その四文字に込められた、あの日の怒りと誓いを、我々は決して忘れてはならない。それこそが、日清戦争と三国干渉の時代を生きた我々の世代が、未来の日本に伝えねばならぬ、最も重要な教訓なのである。
-了-




