安政七年(1860年)に始まる、幕末遣外使節
大正元年の今、欧米へ渡ることはさして珍しいことではなくなった。政治家や実業家、あるいは向学心に燃える若者たち。私の息子なども、いつかは西洋へ留学したい、などと夢のようなことを口にする始末である。
その先駆けともいうべき者たちがいた。組織として、正式に、かの大洋を渡った侍たちのことである。安政七年、改元されて万延元年(一八六〇年)の遣米使節に始まり、文久元年(一八六一年)の遣欧使節、そしてその後に続いた使節団。私が生まれるわずか数年前の出来事だが、彼らの航海こそが、その後の明治という時代の礎を作り上げた。いや、現在に至る日本の運命を、静かに、しかし決定的に規定した、大いなる一歩であった。
かの福澤諭吉先生の思想の基盤が、この使節団への参加によって築かれたことはあまりにも有名である。先生の明晰な眼が捉えた西洋文明の姿は、その後、我々国民の啓蒙に絶大な力を発揮した。だが、今一度立ち止まって考えるべきは、そもそも、なぜ、徳川幕府は彼らを西欧へ派遣したのか、という点である。そこには幕末という、この国が未曾有の危機に瀕していた時代の焦燥、苦悩、そして一縷の望みを託した壮大な賭けがあったのだ。
まず、彼らが海を渡らねばならなかった背景を理解せねばなるまい。
すべての始まりは、嘉永六年(一八五三年)の黒船来航であった。ペリー提督が突きつけてきた、開国か、戦争か、という二者択一。二百年以上にわたる泰平の眠りから覚まされた幕府は、なすすべもなく、その圧力に屈した。安政五年(一八五八年)、大老・井伊直弼の独断によって、日米修好通商条約が勅許なく調印される。この条約こそが、使節団派遣の直接的な引き金となった。
この条約は、徹頭徹尾、不平等なものであった。治外法権を認め、関税自主権を持たない。我々が官吏として、明治の世になってもなお、その改正に心血を注ぎ続けた、あの屈辱的な条約である。幕府は国内の攘夷派から「弱腰」「売国奴」と激しく突き上げられ、その権威は地に堕ちていた。
幕府はこの絶体絶命の状況を、どうにか打開せねばならなかった。そのための起死回生の一手。それが、条約の「批准書」を交換するという名目で行われる、遣米使節団の派遣であった。
幕府の思惑は、複雑に絡み合っていた。
第一の目的は、もちろん「時間稼ぎ」である。この不平等条約には、数年後に神奈川や新潟、兵庫などを開港・開市するという条項が含まれていた。国内の攘夷熱がこれほど高まっている中でこれを実行すれば、幕府の命運は尽きる。使節団を派遣し、アメリカという国の実情を探り、その上で開港延期を談判するための材料と時間を稼ぐ。それが現実的な狙いであった。
第二に、それは「国内への示威行為」でもあった。幕府はもはや異国と対等に渡り合う力を持っているのだ、という姿を、国内の雄藩や尊攘派の志士たちに見せつける必要があった。大洋を渡り、かの大統領と直接会見する。その様子を伝え聞けば、幕府の権威も少しは回復するのではないか。それは失墜した威信を取り戻すための、必死の虚勢であった。
そして第三に、これがもっとも重要であるが、「西洋文明の実態の調査」という、極めて真摯な目的があった。黒船の衝撃以来、我々日本人は西洋を「夷狄」として恐れ、あるいは憎むばかりで、その実態をほとんど知らなかった。彼らはなぜあれほど強大な国力を持ち得たのか。その力の源泉は何なのか。政治、経済、軍事、社会制度。そのすべてをこの目で確かめ、学ぶべきは学び、来るべき交渉に備える。幕臣の中にも、父のような頑迷な攘夷論者ばかりではなく、開国はやむなしと考える視野の広い官僚たちがいたのだ。井伊大老もまた、そのひとりであった。彼らはこの国の未来を、この使節団の双肩に託したのである。
一方、その頃の世界は、どのような時代であったか。
それは、西洋列強による帝国主義の嵐が、世界中を席巻していた時代であった。イギリスはアヘン戦争で清国を屈服させ、インドを植民地としていた。フランス、ロシア、そして新興国アメリカもまた、アジアや太平洋地域への進出を虎視眈眈と狙っていた。弱肉強食。それが、当時の国際社会の、冷徹な掟であった。
日本が、この巨大な渦に飲み込まれずに生き残るためにはどうするか。国際法という、彼らが作ったルールを学び、その土俵の上で渡り合う術を身につけるしかなかった。使節団の派遣は、日本が初めて、その国際社会という舞台へ、当事者として足を踏み出すことを意味した。それはあまりにも巨大で、経験のない相手との、孤独な戦いの始まりであった。
万延元年の遣米使節団は、咸臨丸に護衛され、アメリカの軍艦ポーハタン号に乗って、太平洋を渡った。咸臨丸の艦長であった勝海舟や、福澤先生のような人々が、日本人だけの力で太平洋を横断したという快挙。それは我々の歴史に輝かしい一頁として記されている。だが、その航海がいかに困難なものであったか。ちょんまげを結い、大小の刀を差した侍たちが、荒れ狂う太平洋の波濤に揺られ、西洋式の食事に苦しみながら、見知らぬ大国へと向かう。その姿を想像する時、私は、彼らが背負っていたものの重さに改めて身が引き締まる思いがする。
ワシントンで大統領に謁見し、ニューヨークで熱狂的な歓迎を受ける。彼らが目の当たりにしたのは、想像を絶する文明の光景であった。石造りの巨大な建築物、街を縦横に走る鉄道、夜を昼に変えるガス灯、そして、女性がごく自然に男性と肩を並べて歩く社会。福澤先生が、後に『西洋事情』で活写したその光景は、彼らが「魂」として守ろうとしてきた日本の封建的な常識とは、何もかもが異なっていた。
そして彼らは、この巨大な文明の根底に、議会制民主主義や、大統領制、そして個人の自由を尊重する思想があることを学んだ。国の重要な物事を、一握りの為政者ではなく、国民の代表による議論で決める。その仕組みこそがこの国の強さの源泉であると、福澤先生は見抜いた。それは幕府という、絶対的な権威の下で生きてきた彼らにとって、まさに天啓にも等しい発見であっただろう。
文久元年の遣欧使節団もまた、同様の衝撃を受けた。彼らの目的は、ロンドン、パリ、ベルリンといった欧州列強の首都を巡り、例の不平等条約にある開港延期の交渉を行うことであった。彼らは、プロイセンの鉄血宰相ビスマルクに「国際法など、大国の利益の前では無力だ。万国公法も結構だが、力はなお結構だ」と言い放たれ、国際社会の冷厳な現実を思い知らされる。
しかし、彼らは屈しなかった。粘り強い交渉の末、ロンドン覚書を締結。開港・開市の五年間延期を勝ち取ることに成功する。これは日本の外交史における、最初の、そして極めて大きな勝利であった。彼らは西洋の土俵の上で、西洋のルールを使い、自らの主張を通したのだ。この成功体験は、その後の明治政府の外交姿勢に計り知れない影響を与えた。
だが、皮肉なことに、彼らが命がけで持ち帰ったこれらの成果は、国内ではほとんど評価されなかった。使節団が海外で見聞を広めている間に、国内では尊皇攘夷の嵐がさらに吹き荒れ、幕府の権威は回復不可能なまでに失墜していた。彼らが持ち帰った「開国和親」という結論は、もはや時代の流れに合わなかった。桜田門外で井伊大老が暗殺され、幕府は指導者を失い、迷走を続ける。
結局、彼ら使節団の努力が幕府を救うことはできなかった。しかし、彼らがその身に吸収してきた西洋文明の知識と経験は、決して無駄にはならなかった。それは、水面下で、来るべき新しい時代のための、巨大な知的遺産として蓄積されていったのだ。
福澤諭吉、津田真道、西周、神田孝平、そして榎本武揚……。使節団に参加した多くの若者たちは、やがて来る明治の世において、それぞれが新しい日本の設計者となった。彼らが幕末の海で見た光景、交わした言葉、感じた衝撃。そのすべてが、明治の政治、法律、教育、そして思想の、礎石となっている。
大正元年の今、改めて思う。幕府が、自らの命運を賭けて派遣した使節団。それは、結果として幕府を救うことはできず、むしろその崩壊を早めたのかもしれない。だがその賭けによって、この国はまったく新しい時代を担う人材という、何物にも代えがたい財産を得たのだ。
海を渡った侍たち。彼らは、徳川の臣として旅立ち、そして、来るべき日本の国民として帰ってきた。その精神の変容こそが、幕末から明治への、最も劇的なドラマであったのかもしれない。そして、我々はそのドラマの延長線上に、今もなお、立っているのである。
-了-




