大正元年(1912年)、明治という名の坂を振り返りて
大正元年、秋。空は高く澄み渡り、官庁街の街路樹も心なしか色づき始めたように見える。しかし、私の心には、あの夏の日の重く垂れ込めた鉛色の雲が、未だ居座り続けていた。
明治四十五年七月三十日。畏れ多くも天子様が崩御あそばされた。日本という国の大きな柱が音を立てて砕けたような、途方もない喪失感であった。
あの日、私は職務を終えた後も霞が関の庁舎をすぐには出られず、自席で呆然と窓の外を眺めていた。道行く人々は皆、悄然と俯き、市電の音さえもが、どこか遠く沈んで聞こえた。
私の四十五年の人生は、明治という元号と共にある。明治元年に生まれ、物心ついた時から、帝は神であり、この国そのものであった。その存在しない明日が、俄かには信じられなかったのである。
あの大喪の礼の日。青山練兵場へ向かう御霊柩の列を、私は沿道の一隅で、無数の民のひとりとして見送った。黒い幔幕に覆われた道を、車輪の軋む音だけが静かに進んでいく。その時、私の頬を伝ったものが涙であったと気づくのに、暫しの時を要した。私は、ひとりの臣民として、そしてひとりの人間として、確かにひとつの時代と訣別したのだ。
追い打ちをかけるように世間を揺るがせたのが、乃木大将夫妻の殉死の報であった。一部の若い者たちは「時代錯誤だ」と冷ややかに評したが、私にはそうは思えなかった。それは、主君への忠義という、我々が叩き込まれた精神の、あまりにも純粋で悲しい結晶のように思えた。乃木大将は、その命を以て、明治という時代そのものを棺に納め、共に去って行かれたのだ。
新しい元号は「大正」と決まった。新聞は「新時代の幕開け」と書き立て、巷では「デモクラシー」などという言葉が囁かれ始めている。息子なども、書生仲間とそんな言葉を口にしては、私に窘められる始末だ。
だが、本当に時代は変わるのだろうか。私の身体には、骨の髄まで「明治」が染みついている。机の前に座り、ふと窓の外に目をやると、私の生きてきた四十五年間が、まるで活動写真のコマ送りのように、次々と脳裏に浮かんでは消えていくのだった。
私の家は、元を辿れば幕臣の家系である。父は、徳川の世が終わった時に佩刀を置き、すべての誇りを畳み込んだような男だった。幼い私の記憶にあるのは、新しい時代の風に馴染めず、酒を飲んでは「上野の山が……」と悔しげに呟く広い背中だ。家は没落し、明日食べる米にも事欠く有様だった。
「これからは学問の時代だ。武士の魂は、筆と算盤に持ち替えねばならぬ」
それが父の口癖であった。ちょんまげ頭が消え、ざんぎり頭の男たちが洋装で闊歩する東京の街で、私は父の言葉を信じ、がむしゃらに書物を読んだ。漢学の素養を基礎に、新政府が定めた法律や西洋の思想を頭に詰め込んだ。福澤先生の「学問のすゝめ」は、私のような旧時代の敗者の子にとって、一条の光であった。天は人の上に人を造らず、されど学問のある者と無い者とでは雲泥の差が生まれる。ならば学ぶしかない。立身出世し、我が家を再興し、何より「お国」の役に立つ人間になる。その一心であった。
小学校で受けた「修身」の授業は、私の精神の礎となった。「忠君愛国」「滅私奉公」。教室の正面に掲げられた御真影に、我々は毎朝最敬礼した。天皇陛下のために、大日本帝国のために生きることこそが、国民たる者の本分であると教え込まれた。それは、旧幕臣の家に生まれた私にとって、新しい忠誠の対象を見出すための、重要な儀式であったのかもしれない。
二十代前半で、私は試験を突破し、とある省庁に奉職することができた。詰襟の官服に袖を通した日の誇らしさは、今でも忘れられない。父は何も言わなかったが、その夜、普段は飲まぬ上等な酒を旨そうに飲んでいた。
私の役人人生は、まさに「富国強兵」「殖産興業」という国家目標を、末端で実行する日々であった。庁舎の窓から見える景色は、年々変わっていった。泥道は石畳になり、馬車に混じって人力車が走り、やがて市電の線路が敷かれた。横浜の港から運ばれてくる西洋の機械が工場を動かし、黒い煙が空に昇る。それは、日本が力強く脈動している証であった。岩倉使節団が持ち帰った西洋の驚異に、日本中が追いつけ追い越せと躍起になっていた。その熱気の中に身を置くことは、官吏として無上の喜びであった。
しかし、私の職務は、その光の裏側にある影をも見ることになった。地方局に籍を置いていた私は、地租改正に伴う地方からの陳情を扱う部署にいたことがある。連日、役所の玄関には、困窮した顔つきの村長や地主たちが列をなした。彼らは深々と頭を下げ、震える手で陳情書を差し出す。「お役人様、どうかこの実情をお汲み取りください。このままでは村が潰れてしまいます」と。
彼らの言葉は真実だった。慣れぬ検地、物納から金納への切り替え、貨幣価値の変動。それらは、何代にもわたって土地に生きてきた農民たちの生活を根底から揺るがした。
私は、規則に則って冷徹に書類を捌きながら、心の中では彼らの切実な訴えに耳を傾けていた。だが、私に何ができよう。これは、国家が豊かになるための産みの苦しみだ。一部の犠牲は、全体の発展のためにやむを得ない。そう自分に言い聞かせるしかなかった。机の上で引かれた一本の線が、遠い村の家族の運命を変えてしまう。その重さを知りながら、私は「規則ですから」と繰り返すだけの、国家の歯車であった。
明治二十二年、大日本帝国憲法が発布された。あの日、東京中が祝賀の熱気に包まれた。提灯行列が夜を徹して続き、私もまた、国民のひとりとして、この国がアジアで最初の近代的な憲法を持つ国家となったことを心から誇らしく思った。これで日本も、ようやく西洋列強と肩を並べる「一等国」への道を歩み始めたのだと。
翌年には帝国議会が開設された。政府を牛耳る薩長の藩閥政治家と、民権を叫ぶ壮士上がりの代議士たちが、議場で激しくやり合う様は、新聞紙上を大いに賑わせた。我々下級官吏は、そうした政争を冷ややかに見ながらも、その決定には絶対的に従わねばならない。上層部のエリート、特に帝国大学出の若き秀才たちは、現場の苦労も知らずに理想論ばかりを振りかざす。彼らが立案した非現実的な条例の矛盾を、窓口で民に説明するのは我々の役目だった。「民の声を聴く」という建前と、民を力で抑えつけようとする政府の本音。その狭間で、私はただ、己の職務を忠実に、そして無感情にこなす術を身につけていった。
そして、戦争の時代がやってきた。
明治二十七年、日清戦争。当初、大国である清に勝てるのかという不安は、国民の間に少なからずあった。しかし、連戦連勝の報がもたらされるたびに、日本中が熱狂の渦に巻き込まれていった。私もまた、新聞の号外に胸を躍らせ、戦勝を祝う酒を同僚と酌み交わした。この勝利は、我々日本人が西洋のやり方を学び、それを己のものとしたことの証明であった。
だが、その高揚感は、三国干渉によって無残に打ち砕かれた。遼東半島を清に返還せよという、ロシア、ドイツ、フランスからの恫喝。煮え湯を飲まされるとはこのことだ。政府も民も、等しく屈辱に震えた。その日から、「臥薪嘗胆」が国家の合言葉となった。我慢に我慢を重ね、来るべき日に備える。軍備は拡張され、税は重くなった。私の給金も決して楽ではなかったが、文句を言う者はいなかった。皆が、国のために耐えていたのだ。
十年後、その日は来た。
明治三十七年、日露戦争の開戦。相手は世界の誰もが恐れる大国ロシアである。今度ばかりは、勝てる見込みは薄いのではないか。そんな不安が国中を覆った。しかし、我々は戦うしかなかった。ここで退けば、日本の独立は脅かされる。出征していく兵士たちを、万歳三唱で見送った日のことを思い出す。彼らの多くは、私の故郷の農民たちのように、朴訥で日焼けした若者たちだった。
奉天会戦の勝利。そして日本海海戦の完全勝利。東郷大将からの「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」という電文がもたらされた時の、あの天を衝くような歓声。日本中が泣き、笑い、そして誇りに打ち震えた。日比谷の戦勝祝賀会は、国民の熱狂が爆発した頂点であった。私もまた、その群衆の中にいた。我々は勝ったのだ。有色人種が、白色人種の大国に、正面から戦を挑んで勝利した。これは、歴史的な快挙であった。
しかし、官吏である私は、その輝かしい勝利の裏側も見ていた。役所に届けられる、一枚一枚の戦死公報。それを手に、声もなく泣き崩れる遺族の姿。戦費を賄うための過酷な増税に、喘ぐ庶民の声。戦争は、確かに日本を「一等国」の地位に押し上げた。しかし、その礎となったのは、名もなき兵士たちの夥しい血と、国民全体の血の滲むような忍耐であった。乃木大将が二百三高地で多くの部下を失ったことを生涯悔やんでいたように、この国の栄光は、常に大きな犠牲の上に成り立っていたのだ。
戦争が終わり、束の間の平穏が訪れると、世の中はまた目まぐるしく変わり始めた。都市にはガス灯が灯り、赤レンガの洋館が建ち並んだ。私の家にも、ほどなくして電灯がつくようになった。ランプの煤を掃除する妻の手間が省けたことを、妙に嬉しく思った記憶がある。夏目漱石や森鴎外といった文豪たちの小説が人気を博し、私の長男なども、学校の帰りによく神田の古本屋を漁っていた。
しかし、国の成熟は、新たな軋みを生み出してもいた。足尾銅山から流された鉱毒が、何の罪もない農民たちの田畑を汚染した。田中正造という老人が命がけで議会に直訴する様を新聞で読んだ時、私はかつて陳情に来た村長たちの顔を思い出していた。殖産興業の美しい名の裏で、切り捨てられていく者たちがいる。その現実は、明治の初めから何ら変わってはいなかった。
そして、幸徳秋水らの大逆事件。社会主義という、我々の秩序とは相容れぬ思想を持つ者たちが、帝の暗殺を企てたという。この報に、私は心の底から戦慄した。この国の根幹である国体を揺るがそうとする輩がいる。政府の徹底的な弾圧は当然だと思った。
だが同時に、なぜ彼らがそのような思想を持つに至ったのか、という疑問も、心の片隅に微かに芽生えた。貧富の差が広がり、富める者はますます富み、貧しい者はその日の暮らしにも喘ぐ。その矛盾が、そのような過激な思想を生む土壌となっているのではないか、と。
そうした世の中の大きな変化の傍らで、私の生活は淡々と過ぎていった。少ないながらも安定した月給で家族を養い、子供たちを学校へやった。長男は大学へ、長女はいずれ良家に嫁がせたい。それが私のささやかな望みだ。家では絶対的な家長として君臨し、妻は黙って私に従う。それは、私が父から受け継いだ、武家の家父長制そのものであった。私の頭の中には、西洋の法律と制度が詰まっているというのに、家庭の中では古き日本の秩序が息づいている。この奇妙な二重性こそが、私という人間、いや、明治という時代そのものを象徴しているのかもしれない。
改めて、我が人生を振り返る。私の生きてきた四十五年間は、何だったのか。それは、ひたすらに坂を駆け上るような日々であった。
国家という、巨大な神輿を担ぐひとりとして、汗を流し、歯を食いしばり、ただ前だけを見て走ってきた。幼い頃に見た西洋列強という遥かな頂きを目指し、国全体が無我夢中だった。貧しさも、屈辱も、悲しみも、すべては坂の上の光に到達するための糧だと信じていた。
そして今、我々はその坂を登り切ったのだろうか。一等国となり、世界に伍する国家となった。だが、坂の上から見える景色は、必ずしも輝かしいものばかりではなかった。足元には犠牲になった人々の影が落ち、社会の隅々には貧困と矛盾が渦巻いている。そして何より、我々が心の支えとしてきた明治の帝は、もうこの世にはおられない。
新しい「大正」の世は、どんな時代になるのだろう。デモクラシーの風が、この国の秩序をどう変えていくのか。民衆が力を持ち、その声が政治を動かす時代が来ると言う。それは、かつて陳情に来た農民たちにとっては、福音となるのかもしれない。
しかし、役人として秩序の維持を第一としてきた私には、一抹の不安が拭えない。民衆というものは、時に感情に流され、道を誤るものではないのか。我々が血と涙で築き上げたこの国家の形が、脆くも崩れ去ってしまうのではないか。
息子や娘の世代は、我々のように「お国のために」と無邪気に信じることはないのかもしれない。彼らは、国家よりも「個人」の幸福を、滅私奉公よりも「自由」を求めるのだろう。それが良いことなのか、悪いことなのか、今の私には分からない。ただ、彼らの見る景色は、私が駆け上ってきた坂とは、まったく違うものになることだけは確かだ。
私は、おそらくこれからも「明治の人間」として生きていくのだろう。新しい時代が来ようとも、私の身体に刻まれた価値観や矜持は変わらない。堅物で、融通が利かず、内に矛盾を抱えたまま、この霞が関の片隅で書類に判を押し続ける。それが私の生き方であり、宿命なのだ。
窓の外では、秋の陽が静かに傾き始めている。遠くで鳴る汽笛の音が、まるで過ぎ去った明治という時代を悼む挽歌のように聞こえた。長かったようで、瞬く間に過ぎていった四十五年。それは、苦しくも、確かに誇らしい時代であった。私は静かに目を閉じ、我が人生そのものであった、明治という名の、長く険しい坂に、心の中で深く頭を垂れた。
-了-




