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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

異世界恋愛(短編)

結婚式に婚約者を奪われた聖女

作者: 忍者の佐藤

 



 ハルモニア神殿は王都アーヴァインで最も格式ある神殿だ。ここで結婚式が執り行われるのは数十年に一度、選ばれた一組だけ。


 それは即ち大聖女候補と大神官候補の組み合わせのみ。


 そして今まさに、大聖女候補である私、アマリア・プリエステスと大神官候補であるジョセフ・カテドラ様の結婚式が行われようとしていた。


 この儀式ののち、大聖女候補と大神官候補が交わると、魔力の相互作用で力が増幅し、それまでとは比べ物にならない強い力を得る。

 晴れて大聖女と大神官になり、協力して、この国を魔王軍の攻撃から守る、ある大役を授かることになるのだ。



 思えば聖女になるだけでも大変だった。まず修道女として厳しい訓練を受け、その中から素養のある者が聖女となれる。けれどその中から大聖女になれるのは数十年に一人だけだ。

 大神官になれる人も同じように選ばれる。


 数十年に一度と言ったが、これには例外がある。大聖女、もしくは大神官が急死した時だ。そしてこの結婚式も……。


「それでは誓いのキスを」

 司祭様の声に向き合う私とジョセフ様。しかし彼は不満げな顔を隠そうとしない。思い人が他に居るのだ。

 だとしても、そんな顔をしないで。私たちはこれから助け合っていかなければならないの。


 私は目を閉じ、ジョセフ様に唇を近づけた。彼も眉間にしわを寄せながら顔を近づけてくる。


「ジョセフ!」

 女性の叫び声だった。全員の視線がそちらに集中する。そこにいた女性を見て、私は思わず目をしばたたかせた。彼女はソレーヌ・クレメンス。私と同期の修道女。そして……ジョセフ様の思い人だった。


 彼女は修道女時代から非常に気の強い人で、何でも自分が一番にならないと気が済まない性格だった。私の評価の方が高いと分かると、攻撃的な態度を取ってくるようになった。そんな彼女が苦手だった。


 結局彼女は聖女にはなれたのだが、大聖女候補にはなれなかった。どうやら彼女は大聖女の座に深く執着していたらしく、私が大聖女候補に選ばれた時の荒れようと言ったら……思い出したくもない。



 そんなソレーヌ様がジョセフ様と懇意にしていることには気付いていた。私の目を盗んで、仲睦まじげに話していたし、ソレーヌ様はそんな様子を私に自慢げに話した。



「ソレーヌ、来ては駄目だと言っただろう! 僕たちは結ばれてはならない関係なんだ!」

 ジョセフ様はまるで宣言するように、何だかお芝居みたいな声量で言った。


「僕は大神官になるため選ばれた。僕と君が結ばれてしまえば、この国が大変なことになってしまうんだ!」

「そんなの関係ありませんわ!」

 ソレーヌ様はパタパタ走ってくると、そのままジョセフ様に抱き着いた。

「ずっと……! ずっとこうしたかった!」

「ああ! これは禁断の恋なんだ! してはいけないことなんだよ!」

「もう我慢出来ません! 私はあなたと添い遂げるために生まれてきたのよ!」

「ソレーヌ……」

 じっと視線を交わし合う二人。

 そして、少々熱いキスを交わす。

 ……えーっと。私、どうすれば良いですか?


 私は困って司祭様を見た。司祭様も困惑して固まっている。集まって下さった参列者の皆様も呆気にとられている。



「そういうわけだからアマリア! 僕は君と結婚できない!」

「へ?」 

 私は目の前で繰り広げられる超展開に、思わず目が回りそうだった。

「相変わらず物分かりが悪いな! つまり、君との婚約を解消させてもらうということだ!」

 ジョセフ様は声高らかに宣言した。


「そ、それはいけません! 先代の聖女様が亡くなって急遽、この結婚は執り行われることになったのです。早く大聖女を誕生させなければ国に張られた結界が弱まったままです。ジョセフ様もお分かりでしょう」


 この国には、魔王軍の攻勢から守るための結界が張られている。

 この結界が非常に強固で、これまでも魔王軍の攻撃を幾度となく退けてきた。

 一番最近魔王軍が結界を突破してきたのは、未だ巨大な結界を張る技術が確立されていなかった100年以上前。つまり直近100年は安全だった。

 そしてこの結界を張る役割こそが、大聖女と大神官に課された大役なのだ。



 しかし先代の大聖女様が急死されてしまった。大神官様だけでも、他の一般聖女や神官の力を借りながら結界を張り続ける可能だ。でもこれはかなり重労働のようだった。奥様である大聖女様を亡くした心労もあってか、大神官様の力は弱まりつつある。


 これによって国では大慌てで次代の大聖女、大神官探しを始めたのだった。

 ちなみに先代大聖女様にはご子息がいらっしゃるが、彼は全く両親の力を受け継いでいない。彼だけではなく、不思議なことに、過去全てにおいて、大聖女と大神官の子供が力を受け継ぐことは一度も無かった。

 だからこそ一から選び直さなければならないのだ。




「また新しく大神官候補を探せば良いだろう。なに、大聖女候補はお前で決まりなんだから労力は半分で済むさ」

「そ、そんな簡単に……」

 そんな簡単な話ではない。大神官候補、大聖女候補選び、育成には、かなりの時間とお金がかかる。莫大な労力を費やしてようやく見つけるのだ。

 それをこれから選び直して見つけた頃には、大神官様がどうなっているか分からない。一刻も早く代替わりをする必要があるというのに。

「ジョセフ様は婚約破棄をして、これからどうされるのですか」

「海外で暮らそうと思う。真実の愛を見つけてしまった今、僕はソレーヌ以外との暮らしなんて考えられない。そのためには邪魔は少ない方が良いからね」

「そんな……」


 ジョセフ様がキッと私を睨む。

「何だその目は? 僕が無責任だとでも言いたいのか?」

 すごんでくる彼の迫力に、私は言葉を飲み込んでしまう。言いたい。こんなことをするべきではないと。責任を果たすべきだと。でも怖くて言えない。

「アマリア様、ここは引いてくださいませんか」


 祭壇の方に歩いてきたのは、ジョセフ様の父親、ヨゼフ様だった。目に涙を浮かべている。

「二人の気持ちを尊重してあげてもらえませんか? 人を愛する気持ちは止められないのです。いやはや、私も若い頃を思い出して感動致しました」



 ヨゼフ様は神官というわけでは無いが、彼らのカテドラ家は貴族の名家で、現国王様の遠縁にも当たる。

「どうですかな、皆さん。ここは私に免じて二人の行動を許してあげて貰えませんか」


 参列者の方々は渋面を作るけれど、彼を非難する人は居ない。ヨゼフ様は表面上は貴族だけれど、裏の顔がある。良くない噂は私の耳にも入るほどだ。

 逆らえば何をされるか分からない。だから誰も何も言えないでいるのだ。


 それに、「まあ大神官を選び直しても別に良いか」という思いも、皆にあるのかもしれない。

 そこまでして彼らを非難し、止める必要など無いと。

 100年安全だったのだし、このままモンスターなんて襲ってくるわけがないと。

 私も心のどこかで思っている。


 けれど私は早く大聖女になりたかった。私は大神官様の疲労を癒すという名目で、彼に何度か会ったことがある。

 会うたびに彼は痩せていった。何度治癒の術を使っても、取れるのは身体の疲労だけ。魔法を使い続けることと、奥様を失ったことによる精神的な摩耗は確実に、彼の身体を蝕んでいた。

 本当に可哀そうだった。

 大神官様の力が弱まることで、結界の形成に関わっている神官、聖女の皆さんの負担も増えている。

 このままではいずれ限界が来る。その限界の時期は、まさに「明日のことも分からない」状況だった。



 それを私が伝えなければ。

「ジョセフ様、このままでは大神官様の負担が……」

「お前もしつこいな。これだから元孤児は」

 それは今、全く関係のないことだ。元孤児であることをに負い目を感じているわけではないけれど、こんな沢山の人の前でなじられるのは苦痛以外の何物でもない。


 言わなければ。これから大神官候補を探そうとすると、手遅れになるかもしれないと……! でもジョセフ様の眉を吊り上げた顔を見ていると、まるで空気が抜けるように勇気がしぼんでいった。


「何だ? 言いたいことがあるなら言ってみろ」


 私は口をつぐんだ。心臓が冷たい感覚。怖い。勇気が出ない。

 それを端で見ていたソレーヌ様が高らかに笑った。そして勝ち誇ったように笑みを浮かべ、言った。

「そういうことだから、新しい候補者選び、頑張ってね」

 私は俯いた。自分がとてもみじめだと感じた。二人は既にどうやって国外に出るか、どこで暮らすか、どんな家に住みたいか、楽しそうに話している。

 こんな時どうすれば良いの? 涙がこぼれそうになる。


「馬鹿だ馬鹿だと評判だったが、前評判を超えてくるとはな」


 低く、良く通る声だった。銀色のマントを翻し、一人の兵士が近付いて来ている。


 私は思わず息をのんだ。銀色の髪は鏡のように艶があり、肌は透明なほど透き通っている。けれど彼の顔つきからは、歴戦の戦士を思わせる剛毅さによろわれていた。恐らくは名のある騎士なのだろう。


「何だお前は! 騎士風情が口を出すな!」

 ジョセフ様は騎士に向って怒鳴りつける。

「すまない、口を出すつもりは無かったのだが、お前並びに馬鹿女並びに馬鹿親が馬鹿過ぎて、自然と口が開いてしまったのだ」


 ジョセフ様の顔が急激に赤くなっていく。参列者たちがざわついている。あんなことを言ったらただではすまない。


 ジョセフ様は今にも殴りかかりそうな様子だったけれど、騎士が私たちの前に立って状況が変わった。大きい。見上げなければならないほどだ。ジョセフ様も私からすれば大きいけれど、そのジョセフ様さえたじろぐほどだった。


「11番隊団長のエドガー・フェンリスシルヴァだな? ここに居るということは、周辺警護のために来たのだろう。さっさと持ち場に戻れ!」


 ヨゼフ様が、先ほどの優しい声とは打って変わって、がなり立てるように言った。彼の言葉を聞いて思い出した。エドガー・フェンリスシルヴァ様は、この国最強の兵士だ。隊長格の兵士が10人がかりで挑んでも勝てない強者で、魔物討伐においても輝かしい戦果を挙げているらしい。


 けれど彼の率いる11番隊には一人の兵士も所属していない。人を率いることを嫌うからだ。それでも団長の称号を国が与えているのは、彼の功績を称賛する意味で、そしてお給金の面で優遇するためらしい。

 それほどの特別扱いを受けるほどの騎士。いわば英雄だ。



「おいお前! そういえばさっき僕に馬鹿と言ったな! 我がカテドラ家は国王様の遠縁に当たる家だぞ! お前なんか簡単に失脚させられるんだからな!」

 ジョセフ様は思い出したように、フェンリスシルヴァ様に向って怒鳴る。

「そうか。国王様も可哀そうにな」

「な、何ぃ!」

「まあ告げ口なら勝手にしろ。俺は仕事をしに来ただけだ」

「仕事だと?」

「さっきお前たちは大神官になる責務を捨てて、外国で暮らすと言った。つまりお前たちはこの結婚式の部外者だ。さっさと出て行ってもらう」


 フェンリスシルヴァ様はジョセフ様の肩を大きな手で掴んだ。ジョセフ様は抵抗しようとするが、あまりに力の差がありすぎるためか、全く動けないでいる。


「は、離せ! おい兵士! いないのか!」

「ここに居るが?」

「お前じゃない! 誰かこいつを止めろ!」

「や、止めて下さいフェンリスシルヴァ様!」

 私は団長様を止めようと手を伸ばす。

「何故あんたが止めようとする」


 彼は半ば呆れたような顔で私を見る。私は再びみじめな気持ちになってきた。



 突然悲鳴が響いた。

 振り返ると、参列者の人達も立ち上がって入り口の方を見ている。

 私も目を凝らす。何だろう、人が寝そべっていて……何だか、赤い。


「あっ!」 

 悲鳴に近い声を上げてしまった。寝そべっているのではない。一人の兵士が倒れていて、周りに血だまりが出来ているのだ。

 彼は歯を食いしばって顔を上げた。まるで最後の力を振り絞っているようだった。


「逃げろ……! 魔物が、魔物が入ってきた!」


 彼の一言で会場がどよめたい。しかし、そのどよめきに輪をかけるかのように爆発音が響く。

 入り口の扉が、まるで石でも蹴とばすかのような勢いで吹き飛んできた。

 夥しい数の黒い影が、業火に上る煙のように、急速になだれ込んできた。


 ゴブリン、コボルト、オークもいる。どれも私が知っているサイズより一回り大きい。

 私の脳裏ではある光景がよみがえっていた。

 まだ聖女見習いの頃、兵士たちの魔物討伐に同行した時のこと。

 モンスターの奇襲を受け、野営地が血に染まった。

 兵士たちが必死に庇ってくれたから私は生きていたけれど、何とか撃退した後には兵士たちの亡骸が幾つも横たわっていた。


 兵士たちでもああなってしまうのだ。ここに戦える人は殆ど居ない。

『皆殺し』

 その言葉がよぎる。


 一陣の風が起こった。

 逃げ惑う人々の間を、矢のように駆け抜けていく銀色の塊。銃弾のようだった。

 まるで獲物を狙う肉食獣の踏み込み。獰猛にギラつく銀色のハルバート。

 つんざくような風切り音。

 私がそれをフェンリスシルヴァ様だと認識した時には既に、血の雨が降っていた。


 上がった血しぶきは人間の、ものではなかった。

 魔物たちは悲鳴と共に、次々絶命させられていく。


 その魔物の血に濡れて、中心にハルバートを握ったフェンリスシルヴァ様が居た。


 まだ残っていた魔物が、標的を参列者からフェンリスシルヴァ様に移す。

 まるで黒い波のように押し寄せる。


 しかし、また光を裂くような一閃。

 速すぎて、ハルバートを振りかぶる始点と終点しか見えなかった。

 遅れて届く刃風の中、立っているのはフェンリスシルヴァ様だけになった。


「早くここに結界を張れ!」


 フェンリスシルヴァ様が怒鳴った。私はジョセフ様の方を見る。

 口をパクパク動かし、ソレーヌ様と青い顔をして抱き合ているだけだった。

 私がやるしかない。

 即座に跪いて詠唱を開始する。


「天の御力、清き祈りに応えたまえ。

 闇を払い、傷を遠ざけ、人々を護りたまえ。

 いま此処に――聖域展開!」


 七色に輝く半球が、私を中心に広がっていく。

 私は念じ続け、大聖堂が収まった時点で肥大化を止めた。

 あまりに大きくし過ぎると、維持が難しいのだ。



 フェンリスシルヴァ様は残った魔物を駆逐すると、倒れた兵士の元に駆け寄った。私も急いで向かう。

「おい、しっかりしろ。外で何が起こっているんだ」

 しかし兵士の返事はない。完全に呼吸が止まってしまっている。

「私にやらせてください」


 私は兵士の前に跪いた。


「治せるのか? 死んでいるぞ」

「恐らくですが、まだ魂と体が離れていません」


 私は一呼吸おいて詠唱を始める。


「修復し、再生せし者よ。彼を癒し、翠玉の祝福を与えよ。『セイント・ヒール』」


 エメラルド色の光が兵士を包んだ。光をよく見ると、呪文が羅列されて、彼の四肢を取り囲むように回っている。

 致命傷だと思われていたお腹の傷も、徐々に繋がっていく。近くで見ていたフェンリスシルヴァ様が「おお」と小さく声を上げた。

「致命傷でも治せるのか。噂には聞いていたが『天啓の聖女』と言われるだけのことはある」

「そ、そんな大したものでは……」



 その時、兵士がゆっくり目を開けた。

「えっ、俺、生きてる?」

 兵士は何度も瞬きをして、自分の手を顔の前に持ってきて握ったり開いたりした。そして私の顔を確認するとほぼ同時に、すごい勢いで頭を下げた。


「アマリア様でしたか! 俺の命を救って頂きありがとうございます!」

「い、いえ……当然のことをしたまでで」

「おい、何があった。早く言え」


 フェンリスシルヴァ様は兵士の肩を掴み、ぐいっと引き上げながら言った。兵士は十一番隊団長の顔を認めると、今度は急に背筋をただした。


「転移魔法です!」

「転移魔法?」

「はい! 神殿の入り口に転移魔法の空間が開き、夥しい数の魔物が出てきたのです! 我々警護の兵士たちで対処しようとしましたが、あまりに強く、そして際限無く出てくるので……!」

「で、お前は式中の人間に危急を知らせるために来たと」

「はい……俺以外にも5人いたのに、全員やられてしまって……!」

 兵士は項垂れてしまう。


 その兵士の肩を一つ叩き、逆にフェンリスシルヴァ様は立ち上がる。

「国を守る結界が正常に機能しているのなら、魔物どもの転移魔法も封じられているはずだ。考えられる原因は一つしかない。大神官様の張る結界が弱まっていて、それを魔王軍に狙われたのだ」


「何故結婚式に襲ってきたのでしょうか」

 フェンリスシルヴァ様は私を一瞥した。

「分かり切ったこと。次期大聖女と大神官の候補をまとめて始末するためだ。お前たちが居なくなれば、我が国の防衛力は著しく低下する」



 私は足が震えるのを止められなかった。狙われた。私たちがターゲットだったんだ。

 魔王軍の上位の魔物は 人間を凌ぐ知性を持っていうという。彼らは100年間じっとしていたわけではない。人類を皆殺しにするため、今か今かとその時を待っていたのだ。

 我々の防御と警戒が緩み、尚且つ要人を皆殺しに出来るこの時を。

 何て狡猾で、悪意に満ちた計画だろう。



「ちょっと待って下さい、フェンリスシルヴァ殿」

 そう言って近づいてくるのは年配の神官だった。

「そもそもこの神殿は、大神官様たちが張るのとは別の、『聖域結界』で守られているはずです。それがいつも通り作動していれば、モンスター達は踏み入った瞬間浄化されてしまうのですが」

「作動していないのだな。その聖域結界はどうやって張るんだ。大神官や大聖女じゃなくても張れるのか?」


「はい。一般の神官や聖女でも可能です。この神殿の三か所にそれぞれ、一つの聖杯がありまして、そこに聖水を満たしますと作動する仕組みとなっております。毎日聖水で満たす必要があるのですが、作動していないということは……」

「誰かがさぼっているということか」




 私もやったことがあるので分かるのだが、聖水を注ぐにはそれなりの魔力と集中力を要する。魔物が100年攻めてこない中、律儀に聖域結界を張っている神殿の方が少ないのだ。

 そういう所にも魔王軍は付け込んできたということだろう。



「よし、その聖杯を満たせば一先ず神殿は安全だということだな」

「はい」

 年配の神官は鷹揚に頷いた。

「よし、では今からその聖杯を満たしに行く。天啓の聖女、悪いがついてきてくれ」

「は、はい」


「フェンリスシルヴァ様。老婆心ながら、それは危ないと思います。外は魔物で溢れているのですから、そんなリスクを取るくらいなら援軍を待った方が……」

「これが見えないのか?」


 フェンリスシルヴァ様は私の顔を親指で指した。神官は私の顔を見て、そして何かを悟ったように俯く。

 私が今どんな顔をしているのかは分からない。けれど、汗が前髪を濡らしているのが分かる。もしかすると、相当調子が悪そうに見えているかもしれない。


「天啓の聖女はここに結界を張ることで、かなり魔力と集中力を消費している。このままでは結界が切れて、この場の全員が死ぬことになるだろう」


 みんなには見えていないけれど、私の視界の端には砂時計が表示されている。これは術者のために、結界の耐久時間を分かりやすく示すための表示だ。

 砂は減っていはいるが、まだ9割以上は残っている。

 けれど安心は出来ない。このままではフェンリスシルヴァ様の言うように、すぐ時間切れになるだろう。


「こ、ここには神官や聖女がたくさんおります。我々でアマリア様の結界のサポートを……」

 年配の神官さんは胸を叩いて言った。


「お前たちの結界が通じるのか、外に張って試してみると良い」


 何人かの聖女や神官が、入り口の外に小さな結界を張った。しかしそれらは直ぐ、押し寄せているモンスター達に壊れてしまった。よく耐えた結界で5秒程度だった。


「もう分かっただろう。天啓の聖女が張った結界だから耐えられているのだ」

「こ、この結界ごと、外まで移動するというのは……」

「申し訳ありません。個人的な小さい結界ならば動かせるのですが、ここまで大きな結界を張り続けながら動かすことは、私には出来ません」


 沈黙が下りた。



「フェンリスシルヴァ様なら、モンスター達をなぎ倒しながら突破出来ないのですか」

「俺『だけ』なら突破できる。だが次々に魔物がなだれ込んできているし、それに……」

 フェンリスシルヴァ様は眉間にしわを寄せた。

「それに、今ここに攻め込んできているのは恐らく魔王軍の精鋭だ。戦ってみた感覚だが、明らかにいつもと手ごたえが違った」


 私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「ごめんなさい。私がもっと強い結界を張れれば……」

 私は大聖女候補に選ばれるまで、治癒魔法に専念していた。治癒魔法を極めた後、結界魔法に専念する予定だったのだ。

 それが、先代大聖女様の急死で、慌てて結界魔法を習得せざるを得なくなった。


「いや、あんたのせいでは……」

「そうだぞアマリア! お前のせいでみんな死にかけてるんだ! 全く使えないやつだ!」

「少し黙っていることは出来ないのか?」

 フェンリスシルヴァ様は呆れたようだった。周りの人達も白い目でジョセフ様を見ている。

「な、何だその顔! 良いのか、僕をそんな目で見て!」

「そうだ、たった今思い出したんだが、誠に遺憾ながらお前は大神官候補だったな。お前なら少しはマシな結界を張ることが出来るんじゃないのか?」

「あ、当たり前だろ!」


 ジョセフ様はソレーヌ様と手をつないだまま、ズカズカ歩いてくると、入り口の外に向けて詠唱を開始。小規模な結界が展開された。


 その結界は、モンスター達の攻撃を受け、揺れてはいるが何とか耐えている。

「あ、出来た」

 ジョセフ様は、何だか驚きに近い声で言った。

 歓声が起こった。これで結界が二重になれば、耐久時間も増える。


「よし、では僕とソレーヌは脱出させてもらう」


 ジョセフ様は信じられない言葉を口にした。歓声が驚愕の声に変わる。


「な、何故ですか、ジョセフ様」

 ジョセフ様は鋭く私を睨みつける。


「さっきそこの騎士がご丁寧に状況を説明してくれただろ。このままじゃジリ貧なんだよ! お前たちがモンスター達をやり過ごしながら聖杯を満たせる確率がどれくらいある! そんな薄い勝ち筋に賭けてられるか」


 唖然としている私達を見回して、彼は続ける。



「まあ幸い、僕の結界はモンスターの攻撃に耐えられるみたいだし、外では兵士たちが続々と集まっているだろうし、そこまでいけば僕の、いや、僕とソレーヌの勝ちということだよ」

「自分たちだけ助かろうということか」

「それの何が悪い! 僕は大神官候補だぞ! お前たちのようないつ死んでも誰も損しない凡人と一緒にしないでくれるかな?」

 ジョセフ様は嘲笑するように言った。そして


「さあ行こう、ソレーヌ」

「はい! 流石ジョセフね!」

 二人で手をつなぎ、自分たちにのみ結界を張って出て行こうとする。


「ま、待ってくれ息子よ! 父である私を置いていくのか!」

「父上……別れとは常に突然なのです」


 そういうとジョセフ様とソレーヌ様は、走り出て行ってしまった。

 みんな呆気に取られていた。10秒ほど、誰も何も言えない時間が続いた。





「えー、あのモンスターの餌たちは放っておいてだな」

 フェンリスシルヴァ様は咳払いをした。

「天啓の聖女、この大聖堂に結界を張り続けながら、自分を守る小さい結界を張ることは出来るか」

「はい。ここの結界を維持しながら、外に出ることも可能です。ですが、そうすると結界の消耗が早くなってしまいます」

 私も気を取り直して話を戻す。


「よし、それならやはり、あんたを連れて行くしかないようだな」



 私以外の人は、外で身を守れない。出た瞬間モンスターに殺されるかもしれない。だから彼は私を選んだのだろう。


「分かりました。行きましょう」

「では小さい結界で、自分を守りながらついて来てくれ。俺が道を切り開く」

 フェンリスシルヴァ様はハルバートを両手で持ち、入り口の外を見据えている。

「わ、分かりました!」

 私は上ずる声で返事をした。

 握りしめる拳に汗がにじんでいる。

 私が失敗したら、全員死ぬ。絶対失敗するわけにはいかない。





 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




 聖杯はそれぞれ、この神殿を取り囲むように、北、南西、南東の三つの小礼拝堂に位置している。

 大聖堂を出た私達は先ず、内殿の一番外側に位置する大回廊を目指した。この大回廊をぐるりと回れば、三つの小礼拝堂全てにアクセスすることが出来る。



 大礼拝堂を出た瞬間からモンスター達の攻撃は容赦なく押し寄せてきた。

 けれど、フェンリスシルヴァ様はモンスターを、まるで細い木の棒でも切るかのように切断してしまう。

 その速さが尋常ではない。


 彼がモンスターを倒しながら進むスピードは、私が小走りで追いかける速さとほとんど同じだった。


 北側の小礼拝堂にはすぐ到着した。部屋に入ると、奥の聖杯の近くで、何匹かのモンスターが死んでいるのが見えた。聖杯は、それだけで強力な浄化作用がある。モンスターが触れると即死するほどだ。


 私は息を切らして聖杯に近付いてく。

「息を整えてからで良い」

「す、すみません、フェンリスシルヴァ様……私、足手まといで」

「フェンリスシルヴァ様というのはよせ。エドガーで良い」

「でも……」

「気を遣って言っているのではない。この一分一秒を争う時に、俺の長すぎるファミリーネームを様付けで呼んでる暇など無いと言っているんだ」

「そう、ですね……。では、え、エドガー?」

 エドガーは固いけれど、確かに笑った。意外と笑顔は可愛い。


「そうだ、それで良い」

「では私も天啓の聖女ではなく、アマリアと呼んで頂けますか?」

「分かった、アマリア」

 私も笑顔で頷く。そして、跪いて集中する。


きよき杯よ、光に満ちよ。溢れし輝き輪となりて、我らを囲む結界とならん。神聖域展開!】


 空っぽだった聖杯に、みるみると光り輝く水が、どこからともなく注がれ、やがて溢れ出した。


「アマリア、大聖堂に張っている結界の調子はどうだ?」

 私は視界の端に映し出された砂時計を確認する。まだ余裕がありそうだ。

「あと1時間は持ちこたえられます」

「よし次だ。行くぞ」

「はい!」


 大回廊に出た私達は、次に南西の小礼拝堂を目指した。

「あの、こんな時に言うのも、何なんですけど……」

「どうした」

「さっきは庇ってくれてありがとうございます」


 エドガーの返答はなかった。巨大なオークが複数体、向かってきていたのだ。


 エドガーの踏み込みは地面を剥がすほどだった。

 稲妻のように飛び出し、闇のように襲い掛かる。

 私が瞬きする間に、オーク達は両断されていた。


「別に、お前を庇ったわけじゃない」

 エドガーは何事も無かったかのように振り返った。頬に血がにじんでいる。


「俺は孤児だ。あいつがお前を孤児だからと馬鹿にした時、自分も馬鹿にされたように感じて腹が立っただけだ」


 エドガーはまた歩き始めた。私は慌ててついていく。少し親近感を覚えた。

 エドガーも、私と同じ境遇だったのだ。そんな彼が騎士団長にまで上り詰めるには血のにじむような努力が必要だっただろう。


「アマリア、ああいうときは言い返した方が良い」

「ごめんなさい」

 私は恥ずかしくなって俯く。

「何故謝る」

「私、勇気が出なくて……」

「勇気ならあるじゃないか」

 顔を上げた私はエドガーと目が合った。

「あんたはこんなモンスターだらけの場所に、民を守るために付いてきた。並の人間には出来ない」

「で、でもそれは……」

「誰が何と言おうと、あんた勇気がある。あんな男とモンスター、どっちが怖いかくらいわかるだろ」


 心が温かくなっていくようだった。そんな風に褒められたのは初めてだった。

「ありがとうございます」

 私は小さくお礼を言った。




 二つ目の小礼拝堂に到着した。ここまでは非常に良いペースだ。このまま聖杯を満たせれば、余裕をもって籠城出来る。


「大聖女様ー、どこですかー?」


 気の抜けた声がした。こんなところで逃げ遅れた人がいるのかと、慌てて振り返った時。


 破裂に似た凄まじい音。

 金属同士が激しくぶつかる音だと気付く。火花が目の前で弾け、目がつぶれそうなほどの紅が広がった。


 私は思わずのけぞってしまった。エドガーの背中がすぐ目の前にあり、その後ろで、何者かが、身体ごとエドガーに剣を押し込んできている。


「へー、僕の攻撃を止めるなんて、君、面白いねー」


 黒衣に身を包んだ男性だった。笑った口元から鋭い牙がのぞく。

 人の姿をしている。けれど、人間ではないと直感する。邪悪な気配が全身から発散されている。


「くそっ!」


 エドガーは腕に力を籠め、相手を弾き飛ばした。


「アマリア! 早く詠唱を!」

「分かりました!」


 私が聖杯の方へ走っている間、何度も甲高い金属の音、爆発するような音が響いた。背中越しに、閃光が何度も明滅していた。


 私は滑り込むように跪く。そして震える手を組んで集中し直し、詠唱した。

きよき杯よ、光に満ちよ。溢れし輝き輪となりて、我らを囲む守りとならん。神聖域展開!】


 聖杯に、聖水が満ちていく。成功した。あと一つだ。


 爆発のような音が響いた。

 振り返ろうとした私のすぐ横で、壁が勢いよく砕け散った。

「きゃっ!」

 破片が幾つも私にぶつかってきた。個人用の結界を張っていたので無事だったが、無ければ致命傷になっていた大きさだった。


 がれきの中で何かが動いた。私は思わず身構える。

「痛ぇな」

 ゆっくりと立ち上がったのは、エドガーだった。頭から血を流している。今度は返り血ではない。


「エドガー、血が……! 今治療するから」

「止めろ、余計なことに魔力を使うな」


 制す声は鋭く、私は動くことが出来なかった。

 エドガーはそのまま、鷹のような目で相手を睨みつける。


「全く、礼拝堂ではしゃくぐなってお母さんから習わなかったのか?」

 まるで小さな子を叱るような声だった。

 男は肩をすくめて見せた。

「生憎、魔のモノなんで」

「そりゃ神から嫌われるわけだぜ」


 二人の姿が私の視界から消えた。突風が起こる。

 姿は見えない。

 飛び散る椅子や壁の破片によって衝突が分かるだけだった。


 火花が散り、魔法の雷が薄暗かった小礼拝堂を染めている。



 私がどうして良いのか分からずにいると、飛びずさりながら、エドガーが私の側に来てくれた。

「アリシア、行け! こいつは俺が足止めしておく!」

「で、でも……!」

「俺もいつまで持つか分からない! こいつを止めておけるのは俺だけだ!」


 私は息をのんだ。

 エドガーの言っていることは分かる。結界を張っておける時間は、この瞬間も少なくなっていく。ここでエドガーが敵を倒しているのを待っていては、手遅れになるかもしれない。

 もしかするとエドガーは、勝てないと思っているのかも知れない。命を懸けて足止めをする気なんだ。


 行かなきゃ。

 そう思っているのに、足が棒のように動かない。

 私の頭は先ほどまでの記憶を思い出していた。

 次々に襲い掛かってくる、夥しい数のモンスターたち。


 あの回廊を、一人で……。

 エドガーが居たから切り抜けられたけれど、私一人で切り抜けられるのだろうか……。



「早くしろ! どっちにしろこのままだと全滅だ! 全員助かるには、お前が聖杯を満たすしかない!」

 私はやや遅れながら何度も頷く。自然と涙が溢れてきた。

 情けない。辛いのは私だけじゃないのに、恐怖に身体を侵されている。

 エドガーは素早く私の身体を抱き寄せた。暖かい。誰かに抱き寄せられたことなんて、今まで一度も無かった。

「後で必ず助けに行く。だから勇気を持って進め。お前なら出来る。いや、お前にしか出来ない!」

「はい!」


 私は立ち上がった。足が動く。私は、やれる。


「させるわけないでしょー? 大聖女様、僕と遊ぼうよ!」


 男が空中から、甲高い笑い声をあげて飛び込んできた。

 エドガーが身体を張って、受け止めてくれる。

 押し込み合いをしながら、一歩、エドガーが敵を押し返した。


「女と遊んでもつまんねえだろ。俺と遊ぼうぜ」


 エドガーは男を通路とは逆方向に吹き飛ばすと、一瞬だけ私の方を振り返った。


「行け!!」


 私は返事もせずに小礼拝堂の中を走り出た。





 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※





 私は全力で走った。こんなに走ったのはいつ以来だろう。

 そして、こんなに全力で走っていても、モンスターたちは余裕をもって追いついてくる。


 何度も掴まれそうになった。しかし私の結界を触ろうとすると、モンスターたちはダメージを受けるので、慌てて手を引っ込める。


 そうこうしているうちに彼らは学習した。手に持つ武器で、私の結界を攻撃するようになった。それくらいでは、この結界は破れない。けれど、攻撃を受ければ受けるほど、結界を維持するための魔力と集中力を削られる。

 連動して、大聖堂の結界の耐久時間も減っている。残量を示す砂時計は、最早半分も残っていない。


 あれほど余裕のあったのに、これ以上モンスターたちの攻撃を受け続けると、南西の聖杯を満たすまで維持できないかもしれない。


 このままモンスターたちを引き連れなら小礼拝堂まで行くしかない。人間が全員死ぬか、魔物がて員死ぬか、一か八かだった。


 既に私は口で息をしている。身体が重い。攻撃を受けつつ、二つの結界を維持しながら走るのは、想像以上に体力を消耗した。

 今にも気を失いそうだ。



 それでも、私の行く手に小礼拝堂の扉が見えてきた。あと少し!


 その時。

 角から、黒い岩のようなものが出てきて、小礼拝堂の扉が見えなくしてしまう。

 私は思わず立ち止まった。

 この大回廊に納まりきらないほどの、巨大な身体。牛の頭を持つミノタウロスだった。


 ミノタウロスは私も戦場で見たことがあるけれど、こんなサイズは初めてだった。やはりここにいるモンスターたちは何かがおかしい。


 唸り声。

 床を抉る突進。

 まるで壁が押し寄せてくるようだった。


 このままじゃ弾き飛ばされる!

 私は咄嗟に結界を強化する。ぶつかる一瞬、強烈な閃光が視界を塗りつぶした。

 感じたことのない揺れ、衝撃。

 自分の身体が今どこの床を転がっているのか分からない。


 慌てて起き上がる。

 結界を強化していたおかげで、そこまで吹き飛ばされてはいなかった。けれど、今ので大聖堂の結界の耐久値がごっそり減ってしまっている。

 砂時計は残り少ない。持ってあと3分だ。



 このままでは次の一撃で、私も、大聖堂も、終わりだ。


 ミノタウロスは呻きながら私と距離を取り、頭を振っている。ミノタウロスも結界に触れて、頭に怪我を負ったようだ。

 しかし次の瞬間、赤黒い瞳が私を捕らえた。強烈な殺意に捉えられている。


 ミノタウロスは態勢を低くすると、今度は突進しながら斧を振りかぶってきた。

 私は結界を強化することも、避けることも出来ず、ただただ身を固めるしかなかった。


 その時、私の後ろを、複数人の兵士たちが、ミノタウロスの方へ追い越して行った。

 兵士たちは雄叫びを上げながら、全員ミノタウロスの足にしがみつく。


 私は悲鳴を上げそうになるのを、口を押えて止めた。

 あんなことをすれば無事では済まない。

 蹴られる。振り払われる。

 何人か、蹴られて私の後ろに飛んでいく。

 それでも残った兵士たちは協力して、ミノタウロスの足を思いきり引っ張った。


 大きな音を立ててミノタウロスが崩れ落ちる。



「アマリア様! 無事ですか!」

 足にしがみついていた一人が、魔物の上に乗りながら叫んだ。

 その兵士は大剣で何度も、何度もミノタウロスの首筋を刺そうとしているが、中々刃が通らないようだ。


「は、はい! 私はこの先の小礼拝堂に行かないといけません!」


 詳しく説明している余裕などなかった。


「行ってください!」


 怪我している人の治療させてください。という言葉を私は呑み込んだ。


「皆さんもご無事で!」


 私は走った。肺に穴が開いても良いという気持ちで、走って、走って、走って。


 ミノタウロスの咆哮。兵士たちの叫び声。


 視界の端に、何かが転がってきた。鎧を付けた、人の腕だった。

 涙をぐっと堪え、唇を噛み締めて走る。

 ごめんなさい。ごめんなさい。守ってあげられなくて、ごめんなさい。

 砂時計の砂は、もうほんの僅かしか残っていない。


 小礼拝堂はすぐそこだ。

 それを塞ぐようにモンスターたちが立っている。


 このままだと大聖堂の結界が先に切れる。

 私の頭に、ある考えが浮かぶ。

 最初から想定していた。けれど、いざやるとなると、躊躇する自分がいる。


 恐怖が私の足をすくませる。体力の限界なのか視界がぼやけている。


 けれど、私がやるしかない。あの時の、エドガーが言ってくれた言葉がよみがえる。


『勇気を持って進め。お前なら出来る。いや、お前にしか出来ない!』



 私はこの後死ぬだろう。

 でも、やるしかない。

 今は死ねない。

 皆を助けるために。

 責務を果たすために。



 私は自分の結界を解いた。身体が一気に軽くなる。

 全ての防御を失うのと引き換えに。

 大聖堂の結界を維持するには、こうするしかない。

 一か八かだ。


 私は小礼拝堂に向けて突進した。

 魔物の手が無数に伸びてくる。

 私は態勢を低くしながら、横に飛び出しながら、何とかかわしていく。


 まるで全てのものが、ゆっくり動いているようだった。モンスターの動きも、今は見切ることが出来る。

 死にかけたという人から聞いたことがある。

 死線をさまようと、世界がゆっくり動き始めるのだと。


 私は転がり、寸前で交わしながら小礼拝堂の扉に手をかけた。あと少し!


 魔物の手が、後ろから私のドレスを掴んだ。構わず押し開けた。

 前に、前に進まなきゃ!

 しかし、私は後ろに倒されてしまう。

 組み伏せられるのは一瞬だった。

 もう私を守るものは何もない。


 無数の魔物たちの手が迫る。

 ああ、終わる。


 視界を影が通り過ぎた。

 すぐ頭上を、狼が飛び抜けたようだった。

 血しぶきが、雨のように降り注いでいる。


 モンスターたちが、まとめて切られたのだと遅れて気付く。

 こんなことが出来るのは一人しか居ない。


「今だ、行けえ!」

「はい!」


 エドガーの声に、私は勢いよく起き上がった。小礼拝堂の扉に体当たりするように走り込む。


きよき杯よ、光に満ちよ。溢れし輝き輪となりて、我らを囲む守りとならん。神聖域展開!】


 私はもつれる足で走りながら絶叫する。


 砂時計の砂が、落ち切る、その瞬間、まばゆい虹の光が広がった。


 小礼拝堂に入ろうとしていたモンスターたちの身体が、炭のようにボロボロと崩れ落ちる。地鳴りのようなうめき声が響く。

 ここだけではない。恐らく神殿の全ての場所で、魔物が駆逐されているのだ。


 私はその場にへたり込んだ。もう全く足に力が入らなかった。


 後ろからエドガーの足音が近づいてきた。

 彼の大きな手が、優しく私の頭を撫でた。

「よく頑張ったな」


 再び涙が溢れてきた。




 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




 一休みする暇もなく、私は神殿を回って、モンスターに殺された人達を治癒して回った。

 兵士たちが魔力回復のポーションを持ってきてくれたので、私は存分に力を発揮できた。


 全員助けることは出来なかったが、半数以上の人は回復出来た。ミノタウロスと戦っていた人たちも、何とか命はつなぐことが出来た。


 もちろん大聖堂の人たちも無事だった。



 分が悪いと思ったのか、魔王軍が開いていた転移魔法の門はすべて閉じられた。

 エドガーが戦っていたあの男は、私が小礼拝堂に到達しそうなのを察したのか、逃げて行ったという。

 結界の外に残ったモンスターも、兵士たちによって全て駆逐されたようだ。



「で、こいつらを回復させる必要はあったのか? まあ、いずれにしろ反逆罪で投獄だろうがな」

 エドガーがジョセフ様と、ソレーヌ様を見下ろしながら言った。


「私は命に優劣を付けたくありません。救える命は救いたいのです」

「そいつは流石に天啓の聖女様だ」

「まあ、皮肉ですか?」

「いいや、褒めているんだ。とんだお人よしだってな」

「皮肉じゃないですか」

 私たちの会話を聞きながら、二人はバツが悪そうに、目を泳がせている。

 二人とも死にたての死体だったので蘇らせることが出来た。

 ただ、ジョセフ様は神殿出口のすぐ近くで、ソレーヌ様は大礼拝堂の割と近い場所で死んでいた。つまり……。


「それにしても最後までこの男はクズだったみだいだな。大方、女をおとりにして自分だけ逃げようとしたんだろう。でもまあ、逃げ切れないところがお前らしくて良いな」

 エドガーは明らかに嘲笑した口調だった。

「し、仕方ないだろ! とんでもない数のモンスターが襲ってきた! どっちかが犠牲になるんならソレーヌだろ」

「な、何よその言い方! 『絶対に守る』って言っておきながら突き飛ばすなんて、失望したわ!」

「うるさい、平民の分際で!」

 つかみ合いを始めた二人をエドガーが引きはがす。


「お前ら元死体同士仲良くしろ」

 ジョセフ様はエドガーの手を振り払って立ち上がった。


「だいたいお前さっきから失礼だぞ! お前みたいな身分の低いゴミなんか、戦うしか能がないんだから僕に口答えするな!」

「それは違います」

 自然と声が出た。エドガーをバカにされるのは許せなかった。

「何だと?」

 ジョセフ様が私を睨みつける。私は目線を逸らさなかった。すると、不思議なことに、だんだんジョセフ様の視線が弱まってくる。

「エドガーはピンチでも私を勇気づけてくれました。彼のお陰でここに結界を張ることが出来たのです。彼が居なければ、皆死んでいました」

「お前まで僕に口答えするのか!」

「私は本当のことを言ったまでです。途中で逃げだしたあなたにエドガーを侮辱して欲しくありません」


 自分の口から出た言葉に驚いた。ジョセフ様に、というより誰かに言い返したのは、これが初めてだった。

 ジョセフ様の顔がみるみる怒りで赤くなっていく。


「貴様! 元孤児の分際で僕に反抗するなぁ!」


 ジョセフ様の拳が迫る。私は目を閉じた。しかし、しばらく待っても衝撃が来ない。

 恐る恐る目を開けると、エドガーがジョセフ様の拳を掴んでいた。


「モンスターからは逃げるのに、自分より弱い人間には遺憾なく拳を振るえるのだな」

「くっ! 離せ!」

「もう一回くたばっておけ」

「あ、待っ」

 止める間も無かった。

 エドガーの拳が、ジョセフ様の頬にジャストミートした。

「ぐあああ!」


 ジョセフ様は頭から壁に刺さるまでぶっ飛んだ。


 エドガーは振り返って首を傾げた。

「治せるよな」

「どうでしょう」


 私たちは顔を見合わせて笑った。







 おわり



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