第3話『壊してはいけなかった』前編
水辺でしゃがみこみ、晴歌は泥と埃にまみれた手をそっと洗った。
白いブラウスの袖にも、洋館のホコリや血のような黒い染みがついていた。
(……全部、私が……)
自分の力で壊してしまったという事実。
拭っても拭っても消えないその感覚は、肌にも心にも残っていた。
やがて立ち上がり、また歩き出す。
地図も目的地もないこの世界で、晴歌はただ歩いていた。
ダンジョンを壊せば帰れる。
それが、この世界に呼ばれたときに告げられた、たったひとつの“ルール”。
でも、二つ壊して、彼女は知った。
――壊せば、何かが消える。
遺跡の静けさも、空き屋敷の温もりも、自分の手で消してしまった。
そのたびに、胸の奥が冷たくなっていく。
(壊さなければ、帰れない。でも……壊していいのかなんて、わからない)
風が草を揺らし、どこかで鳥のような鳴き声が響いた。
そのあまりにも現実的な音に、晴歌の足が止まる。
何もかもが本物みたいで、息が詰まりそうだった。
◇ ◇ ◇
森を抜け、坂を下った谷間に、小さな村のような景色が広がっていた。
古びた木造の家々。 中央には小さな井戸。 人の姿は見えない。
でも、ついさっきまで誰かがいたような空気が残っている。
干し草の匂い。 ゆらゆらと揺れる洗濯物。
鍋から漂うような、炊き出しの残り香。
(ここって……“ダンジョン”? それとも、本当の村……?)
慎重に歩きながら、村の中を進む。
ふと目に留まったのは、大量に放置された木箱だった。
まるで宝箱のような形だが、雑に積まれているせいで不気味さを感じる。
(なんか、誰かがいらなくなったものを、ただ置いていった感じ……)
近くの小屋を覗くと、剣や弓が乱雑に置かれていた。
「……これって、本物……?」
思わずつぶやいた瞬間―― 背後から、急に口を塞がれた。
「誰だ、お前」
声も出せず、全身が硬直する。
「女か? まだ子どもじゃねえか。それに……変な服着てんな」
別の男の声が重なる。
「こいつ……この辺のやつじゃなさそうだ」
口を離された直後、首元を掴まれた。
足がふわりと地面から浮く。
「……くっ……」
男が覗き込むように顔を近づけてきた。
視線が、じろじろと上から下へと這うように動く。
「子どもにしては、妙に落ち着いてやがる……」
見下されている。舐められている。
そんな感覚が、背筋を冷たく撫でていった。
◇ ◇ ◇
限界が来たとき、胸の奥が熱くなった。
(……くる……また……)
分かった。 あの力が、また溢れてくる。
(ダメだ、ここで使っちゃ――)
その瞬間。
視界が、青く染まった。
まるで水の中にいるみたいに、音が遠くなっていく。
(やめて、やめて、壊さないで――!)
逃げようとした、その瞬間。 地面が揺れ、空間にひびが走った。
まるで世界が“割れ”始める。
白い光が村全体を包み込み、風が逆巻く。
建物が宙に舞い、粉々に砕けていく。
「うわあああああ!!」 男たちの絶叫。
遠くの方からも、複数の声が聞こえた。
その中に――
「……っあ……っ!」
小さな、細い悲鳴が混じっていた。
→【第3話 後編は こちら】
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