第2章 第4話『歪んだ愛情』
森の入り口で騎士団と別れ、晴歌は一人で神殿への道を歩き始めた。
木々が密生し、陽光は葉の天蓋に阻まれ薄暗い。湿った空気が肌にまとわりつき、足音は森に吸い込まれて消えていく。
地図によると、神殿まではあと一時間ほど。
「リュゼル、待ってて……」
小さく呟きながら、晴歌は慎重に奥へと進んだ。
時折、モンスターの気配を感じるが、サーチで位置を確認して避けて通る。今は戦闘は避けたい。リュゼルを見つけることが最優先だった。
森がさらに深くなり、空気が重くなっていく。そして——
古い石造りの神殿が、薄闇の中に姿を現した。
◇ ◇ ◇
神殿に近づくと、晴歌は違和感を覚えた。
建物の周囲に、黒い靄のようなものが漂っている。それは生きているようにうねり、神殿全体を覆っていた。
「これは……」
サーチを展開すると、神殿の最奥に人の気配。間違いない、リュゼルだ。
でも、その魔力は——普通じゃない。
竜族特有の力強い魔力に、何か別のものが混じり合っている。黒く、冷たく、まるで生き物のように蠢く何かが。
「禁書の力……?」
王子から聞いた話を思い出す。リュゼルが調査していたのは古い契約文書。もしそれが——
晴歌は覚悟を決めて、神殿の中へ足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
神殿の最奥。
そこは祭壇のような空間になっていて、中央の石台に一冊の古い書物が置かれていた。真紅の糸で綴じられ、表紙からは微かに黒い光が漏れている。
(あの時の禁書と、似てる……)
晴歌は胸の奥で嫌な予感を覚えた。自分が力を得た時も、こんな風に古い書物があった。
そして、その前に——
「……リュゼル?」
石のように動かずに座り込んでいる彼の姿があった。
目を閉じ、まるで深い眠りについているように見える。でも、その額には見慣れない黒い紋様が浮かんでいた。
「リュゼル!」
晴歌が駆け寄ると、彼がゆっくりと目を開いた。
金色だったはずの瞳が、底に赤い光を宿している。
「……ハルカ」
掠れた声。でも、そこに彼本来の温かさはなかった。
◇ ◇ ◇
リュゼルが立ち上がる。その動きは、どこかぎこちない。
「やっと……来てくれたんだな」
「リュゼル、大丈夫?何があったの?」
晴歌が心配そうに近づこうとした瞬間、リュゼルの手に黒い鎖のようなものが現れた。
「逃がさない」
その声は冷たく、硬い。
「お前を……誰にも渡さない。どこにも行かせない」
鎖が蛇のようにうねりながら、晴歌に向かって伸びてくる。
晴歌はとっさに防御魔法を展開した。光の膜が鎖に触れた瞬間、白い火花が散り、鎖は霧散した。
「……何?」
リュゼルが目を見開く。再び鎖を放つが、触れるたびに同じ光が走り、溶けていく。
「効かない……なぜだ?」
呼吸が荒くなり、神殿全体がざわつく。壁の石に黒い文様が浮かび上がり、空間そのものがリュゼルの動揺に呼応するようにうねった。
◇ ◇ ◇
「これは……俺の力なのに……」
リュゼルが自分の手を見つめる。黒い染みが、そこに残っていた。
「いや……違う……これは……」
膝をつくと、胸を押さえた。
「……これは、俺の気持ちじゃない」
自分自身に問いかけるような、苦しそうな声だった。
晴歌は、そっとリュゼルに近づいた。
「リュゼル……」
「来るな!」
彼が叫んだ瞬間、黒い波動が広がった。でも、晴歌には届かない。光の膜が自動的に展開され、波動を跳ね返している。
「……なんで、お前には効かないんだ」
リュゼルの声が震えていた。
「怖いんだ……自分が何をしようとしているのか、わからない」
「お前を傷つけたくないのに……でも、手放したくない」
「誰かの声が……頭の中で囁いてる」
◇ ◇ ◇
晴歌は迷わず、リュゼルの前に膝をついた。
「大丈夫」
静かな声で言った。
「それは、あなたの本当の声じゃない」
リュゼルが顔を上げる。赤い光を宿した瞳に、一瞬だけ金色の輝きが戻った。
「ハルカ……」
「あなたの本当の気持ちは、私を傷つけない」
晴歌はそっと手を伸ばし、リュゼルの頬に触れた。
その瞬間、黒い紋様が薄れていく。
「一緒に帰ろう、リュゼル」
彼の瞳から、赤い光が消えた。
そして——祭壇の書物が、静かに崩れ去った。
◇ ◇ ◇
神殿の外、夕日が木々の隙間から差し込んでいた。
晴歌は木にもたれかかって座り込んでいる。禁書の力を消すために使った魔力で、体に負担がかかっていた。腕には細かい傷があり、頭も少しふらつく。
リュゼルは晴歌の隣に座りながら、まだ手に力が入らないようだった。
「一週間も……ここにいたのか」
「あれは、リュゼルのせいじゃない。でも、ティオやフィアナ、ルディアン王子や騎士団のみんなも心配してたから、帰ったら謝るんだよ」
「ああ……そうする」
リュゼルが晴歌をよく見て、心配そうに眉を寄せた。
「お前……傷が」
晴歌の腕や頬に、細かい切り傷がいくつもできていた。
「禁書の力って、すごいんだね……」
晴歌が小さく笑う。
「俺の力を消すのに、お前がそこまで……」
リュゼルが手を伸ばそうとして、まだ震えているのに気づく。
「……まだ、力が入らないだけだよ」
「俺もだ。久しぶりだな、魔力が空っぽになるのは」
晴歌が優しく微笑む。
「私も、少し休んだら元気になる」
リュゼルは申し訳なさそうに俯いた。
「……ありがとう。俺を、救ってくれて」
「当たり前だよ。私たち……」
晴歌が言いかけて、頬を赤らめた。
「私たち、仲間でしょ?」
リュゼルが晴歌を見つめる。その瞳には、言いたいことがたくさんあるようだった。
「仲間、以上だと思っている」
でも今は、ただ静かに答えるだけだった。
夕日が二人を包み込む中、もう少しだけ、ここで休んでいこう。
森の入り口で待つ騎士団の元へは、もう少し後で。




