第2章 第2話『声は、心を縛るために』
王都から離れた深い森。
昼なお暗く、陽光は葉の天蓋に阻まれ、森の奥は常に夜のようだ。
その中心に、苔むした石造りの神殿が静かに横たわっている。
蔦が絡み、入口にはひときわ濃い闇が口を開けていた。
中に入れば、湿った重い空気が肌にまとわりつき、足音はすぐに闇に溶けて消える。
リュゼルが単独でここに来ていた。
目的は「古い契約文書の調査」。王太子の推薦状と、ギルドの許可を持っている。
◇ ◇ ◇
最奥に辿り着くと、壁一面に黒曜石の祭壇がそびえていた。
その中央に、一冊の古びた書物。真紅の糸で綴じられ、革とも鱗ともつかぬ表紙は、触れずとも微かに脈打っている。
背表紙には古代竜語で刻まれていた。
「Liber=Vinculum(絆の書)」
「絆……竜族の番契約とは違うのか……」
晴歌の顔が脳裏に浮かぶ。
会えない日が続くと、無事か、食事はしているか、困っていないか——
そして、ひとりで泣いていないか……と、つい考えてしまう。
「……これは、やばいな」
「何が?」
気配に気づくより早く、声が背後から落ちてきた。
リュゼルは剣を抜き、一歩距離を取る。
黒い髪と瞳、闇に溶ける衣服。
異様なほど白い肌の黒い神が、祭壇とリュゼルの間に立ち、妖艶な笑みを浮かべた。
「君は、この本に喚ばれた。だが——今すぐここから離れた方がいい」
「……どういうことだ?」
「それは禁書のひとつだ」
晴歌が得た力が禁書に由来する、と聞いていた。だが、なぜ自分が——。
「悪いが、阻止させてもらう」
男が足を軽く鳴らした瞬間、腹に衝撃。
息が詰まり、よろめく間もなく二度の魔法が鎧を焦がした。
体が宙を舞い、祭壇入口まで叩きつけられる。
◇ ◇ ◇
「さて……この本、どうしようか…持って帰れるかな」
闇色の黒い神が本に手を伸ばした瞬間、リュゼルの剣先が首元に迫る。
鎧は半壊し、口元から血が滴る。それでも膝をつかず睨みつけた。
「君、結構強いね……竜族だったかな?この本の力を得れば、君は必ず後悔する」
「……?」
「彼女——ハルカとのことで、な」
その名が出た瞬間、心が揺れた。
その隙に胸へ蹴りが入り、呼吸が止まる。剣を杖に、立つのがやっとだ。
「なぜ、お前がハルカを知っている!」
男の笑みが消える。殺気ではないが、背筋を冷たいものが這い上がった。
「……俺はハルカとのことで後悔はしない!
別れが来ても、あいつに会えてよかったし、好きになってよかった。
あいつの幸せは、俺の幸せだ!」
その瞬間、祭壇の書が黒く輝いた。
光は鋭い糸となって胸へ突き刺さり、血管を焼くような熱が全身を駆け巡る。
焦げた金属の匂いが鼻を突き、視界の端が暗く滲む。
耳鳴りの奥で、誰とも知れぬ声が囁いた。
——これで、お前は決して失わない。
リュゼルの意識が闇に沈む。
黒い神は冷ややかに見下ろし、低く呟いた。
「結局こうなったか……なぜこの場所を出現させたんだ……彼女も、そろそろ限界だろう」
◇ ◇ ◇
目を開けることはなかった。
禁書の力が体を蝕み、リュゼルは深い眠りに落ちていく。
しかし竜族の血が、本能的に身を守ろうとしていた。
体の奥で熱が渦巻き、禁書の毒を中和しようと必死に働いている。
森の奥で、リュゼルは石のように動かなくなった。
竜族の本能による深い眠り——回復のための長い眠りに入ったのだ。
風が木々を揺らし、月が雲に隠れる。
森は静寂に包まれ、時だけが過ぎていく。
腕の奥に残る熱は消えず、何かが内側で目を覚ましたままうごめいている。
竜族の本能がそれを抑え込もうとするが、完全には防げない。
意識の奥で、何かが囁き続ける。
(晴歌の幸せのために、元の世界に帰してやりたい……)
本来の想いが、ゆっくりと形を変えていく。
——彼女を、どこか遠い場所に隠してしまえ。
——誰にも会わせるな。お前だけのものにしろ。
(違う……俺は、あいつが笑っていてくれれば……)
——笑顔も、お前だけに向けさせろ。
竜族の血が持つ一途さが、禁書の毒によって歪められていく。
愛情が、狂気じみた独占欲へと変わっていく。
リュゼル自身は気づかない。
それが自然な感情の変化だと、錯覚し始めている。
回復には、まだ時間がかかりそうだった。
そして回復した時、彼の想いは——もはや元の形ではないだろう。




