第16話『禁書が結ぶもの』
頭が重い。
目を開けると、見慣れない天井が視界に飛び込んできた。体の芯が冷えている。まるで氷水に漬かっていたような——
「……あの本は、何だったの?」
かすれた声が、静かな部屋に落ちる。隣の椅子で剣を抱いたまま眠るリュゼルの寝顔が、朝の光に照らされていた。
(ずっと、そばにいてくれたんだ……)
胸が、じんわりと温かくなる。
床がきしんだ瞬間、リュゼルがすぐに目を覚ました。
「……起きたか。体調は?」
「うん、大丈夫。ありがとう……リュゼル」
少しの沈黙。リュゼルが切り出しかけたが、晴歌は首を横に振った。
「今は……ちょっと、整理がつかなくて。ごめん」
「……わかった。無理に聞かない」
窓の外から朝の光が差し込んでいる。
「ギルド登録、まだだったよな」
「うん……行かなきゃ」
「なら、案内する。朝飯も食べてないだろ?」
リュゼルの気遣いに、晴歌は小さく笑った。
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宿の食堂で朝食をとりながら、リュゼルは王都での暮らし方を教えてくれた。
「通貨は三種類。銀貨が基本で、金貨はその十倍、銅貨はその十分の一」
「へぇ……昔のゲームみたい」
ギルドへの道すがら、昨日倒れていた図書館の前を通る。扉は固く閉ざされ、騎士が警戒していた。
(あの光……まだ体の奥に残ってる気がする)
ギルドの受付で名前と年齢を伝え、魔力を通すと、小さな金属プレートが青白く淡く光った。
「これが登録証です。大切に保管してくださいね」
手のひらに収まる薄い金属のプレート。自分の名前が、ゆらめくように浮かび上がる。
周囲では、傷だらけの剣を腰に下げた冒険者たちが依頼板を眺め、仲間と笑い合っている。皆、ここに"居場所"がある。当たり前のように、この世界に根を張って生きている。
プレートを握りしめる。冷たい金属の感触が、妙にリアルだった。
(ようやく、私にも……この世界での"居場所"ができた)
「最初の依頼は、何にする?」
リュゼルの質問に、晴歌は依頼板を見つめた。
「薬草採集がいいかな。一人でもできそうだし」
「……そうか。気をつけろよ」
リュゼルは少し名残惜しそうだったが、晴歌の決意を尊重してくれた。
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王都の門をくぐろうとした、その瞬間。
「見つけたぁ!」
風を切るような声と共に、人影が飛び込んできた。
「ちょ、待っ——」
両手を掴まれ、くるりと回される。
「やっぱりハルカだ! 間違いない!」
絹のような金髪が陽光に舞い、深紫の瞳が輝いている。
「フィ、フィアナ!?」
晴歌は驚きで立ち尽くした。なぜここに。なぜ森を出て。
フィアナはようやく手を離し、晴歌の戸惑った表情を見て、少し寂しそうに笑った。
「そんなに驚かなくても……会いに来ちゃダメだった?」
だが、その明るい笑顔の奥に、いつもとは違う真剣な光が宿っていた。
「どうしたの? 森を出るの珍しいって、ティオが言ってたのに」
「ちょっと気になることがあってね」
フィアナの視線が、晴歌の体をゆっくりと観察する。まるで何かを確かめるように。
「依頼?」
「うん。薬草採集なんだけど」
「私も行く! 護衛してあげるから!」
フィアナに腕を引っ張られ、晴歌は王都の外へと向かった。
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草原を歩きながら、フィアナがぽつりと呟いた。
「ねぇハルカ。最近、何か変なことなかった?」
「変なこと?」
「魔力が……前と違う感じがするの」
胸がどきりと跳ねた。
「……実は、王都で変な場所に入っちゃって」
「変な場所?」
「『黒の図書館』っていう、古い図書館。呼ばれてるような感じがして……扉を開けたら、本がいっぱいあって」
言いかけた瞬間、フィアナの表情が凍りついた。
「それで? 何があったの?」
「一冊の本が、空中に現れて。その名前が——リベル=マギア・オムニア……って」
空気が張り詰めた。
「リベル=マギア・オムニア!?」
木陰から、ティオが姿を現した。銀色の瞳が驚きで大きく見開かれている。
「ティオまで……なんでここに!?」
「待ってたんだよ。フィアナが『絶対ここを通るはず』って言うから」
「そんなことより! 本当にその名を見たのか?」
晴歌が頷くと、ティオの顔色が変わる。
「その本は"神が封じた原初の知識"だ。触れることすら、神が恐れたほどのものだ」
「え……」
晴歌の手が震えた。あの時、本から放たれた光。体を貫いた冷たさ。まるで存在そのものが否定されるような——
「魂ごと消されていてもおかしくなかった。晴歌が無事だったのは……奇跡に近い」
「っ……」
息が、詰まる。膝が震えて、その場に崩れ落ちそうになった。
フィアナが慌てて肩を支える。
「見た目は平然としてるけど……本当に、危ないことしたね」
ティオが晴歌の頬を軽くつねる。痛みと共に、現実感が戻ってくる。
「私、そんなつもりじゃ……ただ、気づいたら目の前にあって……」
「晴歌は禁書に"喚ばれた"のかもね」
フィアナの言葉に、晴歌は息を呑んだ。
「でも、それだけじゃない。君の魔力、明らかにおかしいよ」
ティオの視線が、晴歌の体を貫く。
沈黙が降りた。冷たい風が、三人の間を吹き抜けていく。
「教えてくれないか、晴歌」
ティオの声が、いつになく低く、重い。
「君は……本当は、どこから来たんだ?」
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空気が凍りついた。答えなければならない。でも、どう説明すれば——
その時。草むらがさらりと揺れた。
「……その話なら、俺も聞きたい」
低く、静かな声。晴歌の心臓が跳ねた。
銀髪が木漏れ日に光る。金色の瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。
「リュゼル……なんで……」
「……護衛はいらないって言ったけど」
リュゼルが視線をそらす。
「昨日、お前が倒れてるのを見たから。それで……一人で行かせるのは、心配だった」
言ってから、リュゼルは少し後悔したような顔をする。耳がかすかに赤い。
その言葉に、晴歌の胸が熱くなる。
でも、今はそれどころじゃない。
四人がそろった。運命の歯車が、音を立てて回り始める。
そして、誰もが晴歌の答えを待っている。
重い沈黙が流れる。三人の視線が、すべて晴歌に注がれている。
(言わなきゃ、いけないのかな……)
口を開きかけて、閉じる。何を言えばいい? どこから話せばいい?
(でも、信じてもらえる? 元の世界のこと、異世界から来たこと……)
言葉が、喉の奥で詰まっていた。
晴歌は必死に笑顔を作った。
「……せっかく四人そろったんだし、まずはご飯でも食べない?」
ティオとフィアナが顔を見合わせる。リュゼルは、じっと晴歌を見つめたまま何も言わなかった。
(逃げてる……私、逃げてる)
それでも、今はまだ——言葉にする勇気が、出なかった。




