第15話『その本を開いたのは、私だった』
商人夫婦と少年を見送った後、晴歌は一人で王都の大通りを歩いていた。
王都の門前は、まるで祭りのように賑わっていた。
荷馬車を引く商人、行商の呼び込みをする声、磨き上げられた鎧を身につけた兵士の列。
竜人が角を布で隠しながら歩き、獣人の子どもが屋台に並ぶ串焼きを指さして駆け回っている。
香辛料の刺激的な匂いに交じって、甘い蜜菓子の香りや焼きたてのパンの香ばしさが鼻をくすぐった。
耳を澄ませば、異国の言葉が飛び交い、金貨がじゃらりと数えられる音まで聞こえてくる。
(こんなに大きな街……これが、カレストラ……)
胸の奥が少し高鳴る。けれど、不安の方が勝っていた。
ティオからもらったメモ帳には、地図や魔法の詠唱は書かれていても、この街でどう暮らしていけばいいかまでは分からない。
(お金、少しはあるけど……この世界のお金の価値も、よく分からない)
(ギルドに行こうか。でも、登録ってお金かかるのかな……)
そんなことを考えながら歩いていると、不意に足が止まった。胸の奥がざわつく。
(……なに、この感じ)
まるで何かに呼ばれているようだった。ティオが言っていた「強い思いに反応する力」が、うずいている。
気がつけば、人混みを外れて路地裏へ。石畳は冷たく湿っており、古びた木製の扉が一つ、忘れられたように壁に寄り添っていた。
(ここ……なんだろう)
扉に手をかけると、驚くほどあっさりと開いた。中に広がっていたのは、誰もいない、静まり返った古びた図書館だった。
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中に入った瞬間、空気がひんやりと肌を撫でた。
鼻腔に広がるのは、乾いた紙とインク、そして積もった埃の匂い。
天井は高く、三階建ての吹き抜けになっており、無数の本棚がまるで壁のように立ち並んでいる。
光はほとんど差し込まず、静けさは耳鳴りのように重く感じられた。
「うわぁ……すごい。ゲームの世界みたい……」
小さく漏らした声は、すぐに闇に吸い込まれて消えていった。
けれど、どこか懐かしい匂いも混じっていた。学校の図書室で感じたインクと紙の香り。
それが胸を締めつける。
一階の中央には円卓と一脚の椅子。
その上だけが不自然に光に照らされ、まるで舞台の上のスポットライトのようだった。
引き寄せられるように歩み寄った瞬間、まばゆい光が弾け、一冊の本が空中に浮かび上がった。
「リベル=マギア・オムニア」
(……この名前、どこかで――)
頭の奥がちくちくと痛む。ティオの部屋で見かけた古文書? それとももっと前、日本にいた頃の夢の中?
(思い出せない……でも、知ってる気がする)
声に出すつもりはなかった。なのに、唇が勝手に動いていた。
「リベル=マギア・オムニア」
その瞬間、本が淡い光となり、粒子のように彼女の体へと静かに溶けていった。
光は細かな粒子となって指先から染み込み、血流に乗るように腕から胸、そして頭へと広がっていく。
心臓が大きく脈打ち、全身がじんわりと温かくなる。
だが同時に、背筋をひやりと撫でる感覚も走った。
(……なに、これ……怖い……でも……)
懐かしい。まるでずっと昔から知っていたような――。
ぞくりとする不安と、胸を満たす奇妙な安心感。その二つが混ざり合った瞬間、意識は闇に吸い込まれていった。
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「……大丈夫か?」
聞き慣れた低い声に、ゆっくりと瞼を開ける。視界の端に銀色が揺れ、リュゼルの顔が近くにあった。竜人特有の青い鱗が光を反射し、整った横顔がこちらを見下ろしている。
(……あれ、前にも……)
「リュゼル……なんで……」
「王都の騎士団から調査を頼まれていた。『黒の図書館』に妙な魔力反応があるって」
困ったように眉を寄せるリュゼル。その口調はいつもの冷静さを保っていたが、声の奥にはわずかな焦りがにじんでいた。
「まさかお前がここにいるとは思わなかった。ドアは開かないし、お前は倒れてるし……声をかけても起きないし」
「ここ……どこ?」
「王都の門のすぐそばの宿屋だ。近くで横になれる場所はそこしかなかった」
「……読んじゃいけない本だったのかな」
かすれた声で呟くと、まぶたが再び重くなり、眠気に抗えなくなった。
呼吸は浅く、眉間に小さな皺が寄る。リュゼルは思わず手を伸ばしかけたが、そのままそっと引いた。
「……疲れてるんだな」
彼は椅子に腰を下ろし、剣の柄に指をかけたまま少女を見つめる。
竜族の感覚が告げていた。
まだこの部屋には魔力の余韻が残っている。それは普通の魔道書から立ち上る残滓とは明らかに異質なものだった。
(……『リベル=マギア・オムニア』。あの本は確か……)
(ただの本じゃない。だが――なぜハルカの魔力が反応した?)
リュゼルの胸に重い疑念が沈む。少女はただの異邦の者のはず。だが、その存在はまるで、この世界の深部に触れているかのようだった。
眠る晴歌の横顔に、言葉にならない不安と期待が揺れていた。答えは、まだ闇の中に隠されている。




