第10話『その声は、どこから』
優しさの裏にあるものを、私はまだ知らなかった。
――それが“別れ”の形だなんて。
◇ ◇ ◇
《天空の宿り木》のロビーで、晴歌はリュゼルを見送っていた。
「騎士団の任務があるから、しばらく王都にも戻れそうにない」
リュゼルは少し申し訳なさそうに言った。昨夜の共闘を経て、二人の間には確かな信頼関係が生まれていた。
「そっか…私も王都に向かう予定だったから、また会えると思ったのに」
「王都に?」
「うん。ギルドの登録をしたいって話してたでしょ?」
リュゼルは少し考えるような表情を見せた後、頷いた。
「気をつけて。また、会えるよね?」
「ああ。必ず」
握手を交わし、リュゼルは同僚の騎士たちと共に馬車に乗り込んだ。その後ろ姿を見送りながら、晴歌は胸の奥に少しの寂しさを感じていた。
(一人に戻るのって、やっぱり寂しいな…)
部屋の鍵を返し、オーナーのエベルに丁寧に挨拶をした後、晴歌は再び旅路についた。
「王都でギルド登録しなくちゃ」
ティオのメモ帳に書かれていた情報を思い出しながら、王都近郊に向かって歩いていると、なぜか道に迷ってしまう。地図を見ながら歩いていたはずなのに、気がつけば見知らぬ場所に立っていた。
「……あれ? ここって……」
そこは、不気味なほど静かな場所だった。
風も、水音も、足音さえも吸い込まれていくような感覚。 まるで世界ごと、音という概念が欠落してしまったかのような沈黙。
後に《無音の祭壇》と呼ばれることになる、その不思議な場所。
なぜここに来たのか、自分でもよく分からなかった。
リュゼルと別れてから感じている寂しさが、無意識に安心できる場所を求めているのかもしれない。 まるで誰かに呼ばれたような気がして。
石柱と古びた彫刻が静かに立ち並び、中央には誰も座っていない玉座のような台座がぽつんとある。
◇ ◇ ◇
中に一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。
(……耳が、きこえない?)
自分の呼吸音さえも消えた。 声を出しても音にはならず、口を動かしているという感覚だけが残る。
それでも、晴歌は静かに奥へと歩みを進める。
(怖い……でも、進まなきゃ)
不意に、誰かの視線を感じた。 見られている。気配の正体はわからない。でも確かに、この空間には"誰か"がいる。
◇ ◇ ◇
やがて、祭壇の間へとたどり着く。 祭壇の間に入ると、不思議なことに音が戻ってきた。 だが、そこに座っていたのは——晴歌が出会った白い神とは正反対の感じだった。
黒ずくめの男。 髪も瞳も服も靴も黒。ただ、肌の白さと唇の赤だけが際立っていた。
彼の手元には、あの白い神と同じ金の腕輪が光っていた。
そのとき、彼が口を開いた。
「その手に宿る三つの力。壊し、癒し、戻す……君は、それらを何のために使う?」
「……誰?」
何か答えたかったが、言葉が出てこない。 どう答えて良いのか分からなくて、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
声を出しても音にならない。けれど、彼の言葉だけは、なぜか明確に聞こえてくる。
「器にしては、深すぎる。触れてはならぬものに、すでに触れたか」
(あの白い神とは違う...でも、同じような存在?)
この世界に来たときに話してた、白い男の子とはまったく違う雰囲気。 白が"凍った光"なら、この存在は"沈黙の闇"。 同じ神の仲間なのかもしれないけれど、なぜか大人びて見える。
(なぜ、今ここに……?)
年齢は20代半ばくらいに見えるが、そういうものではない気がした。
「言葉は交わせる。だが、この場所でのみ」
その声は、柔らかく、深く、どこか重くのしかかるような響きだった。彼の声だけが、この静寂を破って聞こえてくる。
◇ ◇ ◇
「壊す者には、責任が伴う。望まずとも、影は生まれる」
胸の奥がざわついた。
(……私が壊したダンジョン。その中に、誰かの想いが残っていたら? 助けたつもりで、実は大切なものを奪っていた?)
壊すことで誰かを助けていると信じていた。 でも──
「壊した後を、誰が守るのか」
その問いに、晴歌は何も返せなかった。
「この出会いは、偶然ではない。だが、それを知る者は、今はまだ少ない方が良い」
(……偶然じゃない?)
ふと、彼の瞳に一瞬だけ、何かへの不満のような影がよぎった気がした。まるで、誰かに対する怒りを抑えているような——。
◇ ◇ ◇
「いつか、その力が君を壊す」
その言葉が胸に突き刺さった瞬間、空間全体がざわめき出す。 足元から光が走り、世界が反転するように白が弾けた。
(……壊すだけじゃ、だめなの?)
(でも、帰るためには……)
(じゃあ私は……誰かの帰る場所を壊してきた?)
その葛藤を胸に抱えたまま、晴歌の体は外の世界へと押し戻される。
次の瞬間、草原に立ち尽くす自分に気づく。 空を見上げると、そこにあったはずの穴は、静かに消えていた。
「このダンジョンは...最初から私のためにあったの?」
誰かに問いかけるように呟いたが、答えは返ってこない。
このダンジョンは...壊していない。カウントにも含まれない。 一体何だったんだろう?
「……神って、なに? 私の力って、なんなんだろう」
問いかけだけが残された。 答えのない、重い問いが。
この手は何かを救うために、何かを壊してきた。 でも——本当にそれで良かったのだろうか。
遠くで鳥が鳴く。風が草を揺らす。 世界は何もなかったように続いている。
けれど晴歌の心の中に、新たな疑問が根を下ろし始めていた。




