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蝦蟇と水晶姫

作者: 網笠せい

 この世の果てには水晶でできた森があります。

 水晶には妖精たちが眠っていて、月夜に目覚め、魚の尾鰭のような長い袖をひらめかせて歌い踊ります。蝦蟇は木の脇からそっと水晶の妖精たちを眺めては両手を叩き、夢のような心地を味わうのでした。

 蝦蟇には特別に好きな妖精がいます。魔女に捕まって材料カゴから命からがら逃げ出したとき、水をくれた妖精です。彼は彼女のことを、水晶のお姫様と呼んでいました。蝦蟇にまだ尻尾が残っていた頃に干からびかけたときも、彼女は笑って水をかけてくれました。妖精からすればほんの戯れだったのかもしれませんが、蝦蟇は水晶のお姫様のことをますます好きになりました。

 彼はお姫様が歌い踊るのを遠くからもじもじと眺めているだけで十分でしたが、ある日一大決心をして、水晶の中で眠るお姫様に助けてもらったお礼を言いました。すると眠っているはずのお姫様のまつ毛が動いたのです。蝦蟇はおろおろして逃げ出してしまいましたが、次の月夜にそうっと水晶の森をのぞきました。すると水晶のお姫様はあっという間に蝦蟇を見つけ出して、視線を逸らさずにうれしそうに笑うのでした。ふわりとした繊細なお姫様の歌声も相まって、彼はすっかり天に昇るような気持ちになりました。

 昼の間、蝦蟇は水晶のお姫様にたくさん話しかけます。水晶の中でかすかに微笑んだり、まつ毛を震わせたり、唇を尖らせたりしながら寝たふりをしているお姫様を、蝦蟇はとても幸せな思いで見つめました。ずっと傍にいられたらいいのにと彼が伝えると、お姫様はきょとんと目を丸く開いてから、とても優しくはにかみました。

 水晶のお姫様は煌々と輝く月夜のたびに歌い、蝦蟇は太陽が燦々と輝く昼間にいろいろな話をして、星空の下でたくさんの約束をしました。


 森に乾季がやってきました。土が乾いてさらさらと蝦蟇の皮膚にまとわりつきます。水気が奪われるようで、蝦蟇はぶるぶると身体を震わせました。

 干からびてしまう前に池に飛び込まなければなりません。彼はできるだけ長く水晶のお姫様と一緒にいたかったものですから、乾季をなんとかやりすごせないかとあれやこれや試しましたが、どんどん元気はなくなるばかりです。お姫様はそんな蝦蟇に水をかけてくれましたが、彼は自分がカエルでなければよかったのにとしょぼくれて、ますます元気をなくしていきました。

 乾季を我慢できなくなって何度かお別れしようとしたこともあります。けれども蝦蟇は結局、水晶のお姫様が好きで離れたくないとわがままを言って、すぐに戻ってきてしまいます。そのたびにお姫様の水晶が曇っていくのがわかっていても、蝦蟇にとって乾燥は耐えがたく、同時にお姫様はあまりにも特別で離れがたかったのです。

 水晶のお姫様は業を煮やして約束を果たす期日を作りましたが、のろのろとした蝦蟇は叶えられず、ごめんなさいと何度も泣きました。お姫様が何度か期日を作るうち、彼はすっかり弱って小さく縮んでしまいました。

 水晶もすっかり曇ってしまって、彼の目からはもうほとんどお姫様の姿が見えません。蝦蟇は大好きなお姫様に誰よりも幸せになって欲しいのに、約束を叶えられないことで傷つけてしまうのをとても気に病みました。曇った水晶の向こうで、きっとお姫様は泣いているに違いありません。蝦蟇はつとめて明るい声で話しかけます。そうしないとお姫様がますます悲しむような気がしてならなかったのです。


 乾季が進んで日差しが厳しくなります。

 蝦蟇は大いに悩みました。このままではそう遠くないうちにカラカラに干からびてしまうでしょう。

ある夕焼けの綺麗な日に、蝦蟇は乾いた手足をぱきぱきと小枝のように鳴らしながら水晶に触れて、僕のことは忘れてくださいとしわがれ声を絞り出して言いました。水晶のお姫様は、お別れは仕方がないけれど、あなたのことは忘れないと首を横に振ります。そうしてせめて最後に口づけをさせて欲しいと言うのです。

 そんなことをすれば、余計に離れがたくなるに決まっています。蝦蟇は魔女にイボをひねり潰されたことが思い出されるので触られるのが大の苦手でしたが、愛する水晶のお姫様の望みとあらば叶えたいなと思いました。どんなに怖くて震え上がっても、足がすくんで跳び上がれなくても、どんなに苦しくて後で泡を吹くことになっても、隣にいなくなってしまったお姫様を想って悲しい気持ちになったとしても、愛した人が幸せになってくれるのであれば、それでいいと思ったのです。


「魔女から生き延びたあなただから、ここで干からびてはいけない。どんなときでも生きるのがあなたらしいあり方でしょう。少し行った場所に蓮の花の咲く綺麗な池があります。きっとそこであなたを幸せにしてくれるひとに出会えるからお行きなさい」


 水晶のお姫様がつづけた言葉に、彼は大きな目を白黒させました。そうして「僕らしいあり方も幸せも、お姫様が勝手に決めることじゃありません」と強張った声で言うと、夕焼けに染まってほんのり赤くなった水晶の上にちょこんとあごを乗せてすっかり目を閉じてしまいました。なんというふてぶてしい態度でしょう。

 蝦蟇は楽しいことと引き換えに悲しいことがすべてなくなればいいと考えるような偏屈なカエルでした。妖精たちの歌や踊りはとても楽しく美しいけれど、蝦蟇にとって水晶のお姫様に敵うひとは誰もいません。時に繊細に膨らんで揺れ、時に力強く空気を震わすお姫様の歌声は蝦蟇のささくれた心をそっと撫でてくれるのです。

 蝦蟇は水晶を曇らせてしまったことを心の底から後悔して、水分の足りない灰色の目をただ細くしました。


 そのとき、空を一匹の龍が駆けていきました。

 つづけて水晶の森に雨が降ります。ばらばらと降る雨は次第に音を大きくして、森の中に小さな川ができました。遠くを飛ぶ鳥の影が川の上を通り過ぎていきます。潤いをわずかに取り戻した蝦蟇はお姫様の水晶によろよろと近付いて、指先の吸盤できゅっと抱きつきました。


「あなたのことが大好きです。いつまでも傍にいたい」


 水晶のお姫様は「なんてわがままなカエルでしょう」と呆れながら蝦蟇のでこぼこした背中を撫でて、そっとやさしく口づけをしました。

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