地図
コヨリは汗の浮いたコップを置き、喉を鳴らした。アキホに兄弟がいるなんて初めて聞いた。いや、考えてみれば、家族の話をした覚えがない。小学校の話や、他の友達の話も――。
「えっと……ご、ご愁傷さま、だっけ?」
アキホは上目遣いでコヨリを見た。フォークで、増えたケーキの角を切り取る。銀色の歯が皿に当たり幽かに鳴った。
「何が?」
「……お、お兄ちゃん?」
「……小学校にあがってすぐだったかな。あの橋って不思議でしょ? 自由研究で調べたいって言って。低学年の頃は通るのも禁止されてて調べられなくて」
レアチーズケーキの一欠けを突き刺し、アキホは口に運んだ。下唇を湿らせ、アイスコーヒーのストローを咥える。黒い水面が高さを下げ、氷の山が崩れた。
「古い万歩計でしょ? 兄貴は三年生から準備を始めてさ。私も子供だったし、面白いことやってるって思ってて。実際に調べだしたのは四年生から。少しずつ、少しずつ、三年かけて調べてね」
コーヒーが半分ほどになると、ガムシロップ二つとミルク一つを入れて混ぜた。
「笑っちゃうけど、調べるのは夏休みの間だけで。三年かけても終わらなかったから私が引き継いだんだ」
アキホの声質のせいか、話が頭に入ってこなかい。地図帳をめくるも、古いボールペンの線や、数字の几帳面さや、材質や温度や欄外に書き込まれた印象や――、
目に映るすべてが、禍々しく思えた。
コヨリはノートを閉じ、伏し目がちに尋ねた。
「お兄さん、なんで死んじゃったの……?」
聞かなければならなかった。もしや、まさか、そんなはずが。内心で否定を重ねても正しい答えを得なければ落ち着けない。せめて事故や病気であってくれ。思った次の瞬間には、それらの遠因が橋にあるのではという不安が浮かぶ。
アキホがストローで氷を突いた。ガムシロップとミルクが混ざり木星の色をしていたコーヒーの底に氷が沈んだ。
しかし、すぐに白めいた顔を出した。
「……コヨリ」
「な、なに……?」
完全に声が震えてしまっていた。
アキホが、唇の片端を吊った。
「勝手に殺すなし。兄貴は留学中だよ」
沈黙。
コヨリが吠えた。
「は!? はあ!? 何!? 何なん!? ビビった! すごいビビった!」
涙目だった。
アキホは肩を揺すり、残り半分のレアチーズケーキをコヨリの前に押し出した。
「ごめんごめん、これお詫び」
「――んんんんぅ、カロリー……」
コヨリは身悶えしつつも、結局ケーキに手をつけた。
結構おいしかった。
鶏皮の唐揚げにチーズケーキにスペシャルドリンク。満腹感で頭は働かないし、場所も時間も相談に向かない。それに、
「それ、貸してあげるよ」
とアキホに言われては続行不可能。コヨリは正しく資料を拝借し、今日は解散となった。別れ際、アキホが橋を通って帰るならと番号を教えてくれたが、遠くに聳える黒い塊に入る気はせず、コヨリは腹ごなしに遠回りして帰った。
そして、夕飯いらないと言って怒られ、お風呂の順番を飛ばされ、ようやく髪を乾かし終えた頃、ふとケースが気になった。
スマホは、二十三時と表示していた。
「……寝ようよ。お肌に悪いよ」
我ながら年寄りくさいと思いつつ、ベッドに横たわり、しばらくして。
「だぁ! 存在感!」
コヨリは弾かれたように飛び起きケースを取った。A4サイズの、百均でも買えそうなクリアケースが、異様なほど重く感じる。
ぐぬぬぬぬ、とひとしきり唸り、ヨコリはケースを開いた。乾いた埃の匂いが鼻をつく。ファミレスでは気にならなかった泥に似た臭いも。とりあえず、ノートを手に取るが、
「……まあ、こっちだよね……」
お風呂に入る前にやるべきだったと後悔しつつ、コヨリは模造紙を出した。四つ折りでA4――つまり、Aゼロが二枚。破れないように注意して開き、余っていたドクロマークのマスキングテープで壁のポスターの上に貼ってみる。
「……うわあ」
一枚目の模造紙は階層ごとの平面図で、二枚目は北側から見た立面図。設計図はテロ防止で公開されていないとアキホは言っていたが、これがそうじゃんと思った。もちろん、小学生の仕事だから正しい書き方じゃないだろうけど。
「ほへー……」
感心と呆れ半々の息をつき、コヨリはベッドの上であぐらを組む。もうこのままレポートにしちゃえばいいんじゃ。さすがにアキホが許さないか。
「なら、これで模型を作っちゃうとか」
それじゃ図画工作か。コヨリは苦笑しながら横になり、立て肘に頭を乗せた。見れば見るほど凄い。歩道だけでも巨大な蟻の巣。または迷宮――。
「あ」
コヨリは呟く。
「そっか。これ、歩道だけなんだ」
下に川が、中心部に車道、上に高速、間に電車の高架があるはず。不自然な空白にそれらが収まる。
胸の奥で、ポツ、と興味が湧いた。スマホがある。水路も、道路も、電車の路線も描き加えられるのだ。
「……やっちゃう?」
自問にさしたる意味はない。
そんな時間かかんないっしょ、と考えていた。
大誤算だ。
それに気づくなんて。