帰れずの橋
コヨリの学校の近くには、帰れずの橋と呼ばれるスポットがあった。名前を聞くと誰もが怪談話を思い起こすが、いざ期待を胸に赴くとがっかりする。
当たり前だ。
その橋は、いわゆる橋の姿をしておらず、水路を跨ぐ橋と、直角あるいは斜めに交差する道路と、その上の高架と、さらに上で渦を描く高速道路群と、周辺に橋がないがために設置された歩道と、一切が一点に集中した立体交差路なのである。
「……でも、何で帰れずの橋?」
コヨリは級友のアキホに聞いた。毎日、帰れずの橋を通っているからだ。
「……不思議なんだよね、あの橋」
アキホは学校指定のタブレットに指先を下ろし、つまみ広げるようにして、課題を拡大した。地域の噂、伝承を調べるとあった。
「行きと帰りで、使う道が違うんだ」
「……一方通行があるとか?」
「うんにゃ」
パタン、とタブレットを机に倒し、アキホは訥々と言った。
「車道はそりゃ、いくらかあるかもしれんけど」
「歩道にあるわきゃないか」
「決められた一方通行はあるけどね」
「……は?」
「怪談を課題で出すとか、どうなん? なんか他の探さない?」
「いやいやいや、今めちゃくちゃ興味深い話がでたし」
鼻を鳴らし、アキホは諦めたように言った。
「あそこを渡る子はさ、みんな学校とかに言われんの。行きはココ、帰りはココを使うように、って」
「ホラあるじゃーん! 面白そうなのー!」
「それが、全っ然、面白くないんよ」
「そりゃ毎日つかってる人からすりゃそうだろうけどさー」
「そういうんじゃなくて……説明するのメンドイし、帰り、行ってみる?」
アキホの、心の底から嫌そうな瞳にコヨリは一瞬、鼻白んだが、
「じゃー、あれだ。ししゃも奢り」
「ししゃも」
ハッ、とアキホは頬を緩めた。
「家の近くに鶏皮の唐揚げ屋できたから、それがいいかな」
「カロリー……ま、いっか。じゃあ、それで」
二人は学校を出た。ブロック塀に囲まれた家々。点在する空き地に家庭菜園。木々が鬱蒼としげる広大な平屋の裏の細道の先、朽ちかけの木戸をくぐると、
「……う、お……」
一目で分かる異様。縦横無尽に走る道路の圧迫感。行き交う車や鉄道の、会話すら許さない騒音。アキホは、いつもこんな道を通っているのか。
「 !」
アキホが口をパクパク動かし、コヨリの手を取った。連れられて鉄階段を昇ると、薄暗い歩道の端にB7と赤ペンキで書かれていた。
「 !」
アキホはそれを指差し、何か言った。手の力が、少し強くなった。
これは、何だろう。
コヨリは級友のアキホに手を引かれ、橋の内側へと足を踏み入れた。上は車道、その上は鉄道の高架、さらに上に高速道路の複雑な螺旋。足の下には水路が伸びている――はずが。
音が、ない。
赤ペンキでB7と書き込まれた歩道に入り、下がり、上がり、また下がりして、いつのまにか地下道に居、音が消えていた。
くるり、とアキホが振り向く。
「 」
口を開閉した。声が聞こえないのだ。
コヨリは喉を鳴らした。ゴクンと鳴った。骨と肉が音を拾った。
「ここ、どうなってんの?」
尋ねたが、アキホは薄く笑ったまま、口をパクパク動かしただけだった。
また手を引かれ、仕方なく歩く。
蛍光灯に照らされ、通路が緑がかって見えた。チカチカと点滅しているのは震動のせいだろうか。生ぬるい空気が滞留し、進むたびにアキホの背中で渦を巻き、ぶつかってくる。
手が汗ばむのが恥ずかしく、コヨリはぐっと引き寄せた。
アキホが一歩のけ反った。でも振り向かなかった。
「 で」
一音だけ聞こえた。
アキホが、見えるように息を整えた。
「手 な 」
手……? な、で……。
コヨリは酷い頭痛をおぼえた。
「手を離さないで?」
コクン、と頷き、アキホが歩き出した。
奥へ、奥へと進む。今どこらへんだろう。コヨリは目眩に耐え、首を左右に巡らせる。いつの間にか、細い鉄柵が左右にあった。隙間の向こうは暗闇で、ごく幽かに、
ゴーーーーー、
と、水音がする。
ああ、水路の直上なのか、とコヨリは肩越しに歩いてきた道をみやる。
「……え?」
思わず、足を止めた。手がぬるりと滑った。離れる――と思った瞬間、強く握られた。前を向くと、アキホの後ろ頭があった。少し顎を引いていた。
もう一度――もう一度だけ、とコヨリは背後を見る。
「……何これ」
左右対称の通路。歩いて来たはずが、まったく見覚えのない風景。
ぐん、と強く手を引かれ、コヨリは仕方なしに歩いた。
やがて、頭痛が消えるのと引き換えに、忘れていた騒音が耳に戻った。気を抜けばよろめきそうな耳鳴りのなか、光の下に出ると、
「え」
河川敷にいた。
アキホが振り向き、汗まみれの額を拭った。
「後ろ、見てみ?」
振り向くと、
「E、6……?」
E6と青ペンキで書かれた、見た目には入ってきたB7とまるで同じ通路が伸びていた。アキホが明後日の方向を指差す。目をやると、
「どうなってんの、ここ……」
遠く離れた場所に交差道路があった。
真っ直ぐ入って、真っ直ぐ出てきたはずなのに。