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ALL YOU NEED IS HEAVEN   作者: 危山一八
2/6

ALL YOU NEED IS CHRISTMAS

挿絵(By みてみん)




I


12月18日──────


 幽合会の事務所には、しんしんと降り積もる雪を思わせる、静謐なピアノの旋律が満ちていた。


 ユーコ・那加毛なかげは、小さく溜息をつき、白金の髪を耳にかけた。スプーンでティラミスを掬い、口に運ぶ。その碧い瞳は、時折スマホの画面に向けられ、支払いの明細の山に、再び溜息を落とした。


 ガチャリ、とドアノブが回る音が響き、事務所の扉が開いた。幽合会唯一の社員、片田へんでんが戻ってきたのだ。


 左腕のメカニカルアームをメンテナンスし、黒いスーツの上に羽織っていたN3Bフライトジャケットコートを椅子に掛けると、艶やかな黒髪をポニーテールにまとめた。その鋭い視線は、ユーコの口に運ばれるティラミスを捉えていた。


「戻りました」


「おかえり。どうだった?」


「軽くて硬いですね、この腕」


 片田は、左手を握りしめ、ゆっくりと開いてみせた。


「ナノ何とかっていう素材らしいよ」


 ユーコは、スマホから目を離さず、気だるげに答えた。


「ユーコさん、もしかしてそのティラミス、冷蔵庫にありました?」


「そうだけど、それより藤部とうべさんに改良してもらったその新しい左腕、すっごいの」


 ユーコは、片田に視線を向け、ニヤニヤしながら続けた。


「エビモードって言ってみて」


「エビモード」


 片田のメカニカルアームが、エビの前腕のような鋏状に変形していく。


「すごい威力なの、その鋏。この前、藤部さんと飲んでる時に、鉄砲エビの話になってね…」


 片田は、無言で鋏状の左腕をユーコに向けた。


「ちょ、ちょっと、何?危ないって」


「ティラミスの恨みです」


「死ぬって、死ぬって、事務所が吹っ飛んじゃうから、やめてぇぇぇぇぇぇ」


 ユーコは、慌てて椅子から立ち上がり、事務所内を逃げ回った。


「不死身の再生者リジェネレーターでしょ?」


 片田は、鋏状の左腕を突き出したまま、ユーコを追う。その時、事務所の扉が開いた。公安四課の魚家うおいえが入ってきたのだ。


「すみません、え、何してるんですか、二人とも?」


 二人は動きを止め、冷酷な視線の片田と、狼狽するユーコの顔を、驚愕する魚家に向けた。


II


「リングネーム、ジ・アトランティスこと底川潮そこかわうしお。四ノ宮地下違法格闘技場、現チャンピオン。この底川を、何とかしていただきたい」


 応接セットのソファに腰を下ろした魚家は、向かいのソファに座るユーコに、資料を手渡しながら言った。


「違法地下格闘技場……ルール無用の、何でもありの?」


「その通りです」


 魚家は頷き、咥えた煙草に火を点けた。


「こいつ、何をしたの?」


「一般人とミュートを4名ずつ、それに潜入捜査官を二名。計10名を殺害しています」


「ふうん。ミュートも、強いんだ。チャンピオン。で、どうやって底川に接触するの?」


 煙草の灰を、片田が差し出した灰皿に落とすと、魚家はユーコの顔を、キリリとした表情で見つめて言った。


「お二人のどちらかに、24日に行われる地下格闘技に出ていただき、そこで……」


「チャンピオンに挑戦して、倒す」


 ユーコは、ニヤリと口角を上げ、魚家の言葉に重ねた。


「殺しだけで、公安が追っているわけじゃないでしょう。その違法格闘賭博、誰が仕切っているの?」


 眉間に皺を寄せ、少し間を置いて、魚家が口を開いた。


「剛王連合の仕切りです。ミュートとサイボーグの兵隊を持つ、武闘派の」


「なるほど。バレれば殺し合い必至ね」


 ユーコは、白い天井を仰ぎ、片田に剛王連合を調べるよう指示を出し、スマホの画面に目を移した。


「高くつくよ、この仕事」


 碧い瞳が、魚家の淀んだ目をじっと見つめた。煙草を吸い殻寸前まで吸い込み、灰皿に押し付けると、魚家は頷いた。


「決まりですね」


「試合のエントリー名は、どうしますか?」


 デスクでノートPCを叩く片田をチラリと見ると、ユーコはニチャアと口角を上げながら言った。


「エビマスクでお願い」


「エビマスク?はあ、はい」


 眉間に皺を寄せる魚家は、腑に落ちないまま、地下格闘技場の場所と入り方をユーコに説明した。ユーコは、スマホを操作しながら、魚家の話を聞いていた。


 片田が、剛王連合の資料をユーコのスマホに転送した。構成員約700名。シノギは、違法賭博格闘技と地上げ。組の代表は、塩村剛三しおむらごうぞうと記載されている。


「まあまあ、ヤバそうなヤクザね。私たちの目的は、底川だけだし、とにかくうちの片田が優勝すればいいんでしょ?」


「は?私がエビマスクで出場するんですか?」


「余裕でしょ、あなたなら。ボーナスチャンスよ!」


 深い溜息を吐いた片田は、また厄介な事になりそうな予感を感じ、肩を落とした。碧い瞳を輝かせるユーコをよそに、魚家は、すみませんと片田に会釈し、それでは、と事務所を出て行った。


「ユーコさんが、エビマスクで出場すればいいじゃないですか」


 不貞腐れた片田が、ユーコに不服そうに言うと、バキバキにキマッた碧い瞳を向け、


「あなたは、エビに、エビになるのよ!エビマスクに!」


 ダメだ。何か変なスイッチが入っている。そして、嫌がる片田に、ユーコはニヤニヤしながら近寄り、耳元で囁いた。その邪悪な囁きに、片田は目をカッと見開き、ユーコの顔を見返した。


「悪いようにはしないから。この凄腕プロモーター兼セコンドの私に、任せなさい」


 ユーコの口角が上がり、ニチャリと邪悪な微笑みを浮かべていた。



12月24日──────


 神解しんかい市は、表向きは煌びやかな光に満ちていたが、その裏側には、底なしの闇が広がっていた。四ノ宮の繁華街を抜け、迷路のように入り組んだ路地を奥へ進むと、古びた雑居ビルがひっそりと佇んでいる。


 その一階に、「小美人こびと」と古めかしい文字で記された看板を掲げた、時代に取り残されたような喫茶店があった。


 錆びついた看板の前に、普段はかけない黒縁メガネに黒いリュックを背負ったユーコと、片田が立ち尽くしていた。片田は、手渡されたエビの顔を模したマスクを、まるで罰ゲームのように渋々受け取った。


「このマスク、本当に必要なんですか?」


 片田の声には、隠しきれない戸惑いが滲んでいた。


「当たり前でしょ。あんたは今夜、エビマスクとして戦うの」


 ユーコの声は、有無を言わせぬ冷たさを含んでいた。片田は、ユーコの迷彩柄のスーツに視線を移した。派手な装いは、この場にそぐわない異様さを際立たせていた。


「その格好、目立ちすぎませんか?」


「私はプロモーター兼セコンドだから、これくらい派手な方が丁度いいでしょ?」


 ユーコは、微笑みながら言ったが、その笑顔はどこか張り付いたようだった。片田は、深い溜息を吐き、覚悟を決めたようにマスクを被った。


「中に入ったら、私のことをドン•キング、いや、ドン・クイーンと呼びなさい」


 ユーコは、片田を見据え、低い声で言った。片田は、再び溜息を吐き、ユーコの後ろ姿を見つめた。


「ユーコさん、聞こえますか?」


 骨伝導メガネから、魚家の声が微かに聞こえた。


「クリア。今から店内に入る」


 ユーコは、冷静に答えた。


「よろしくお願いします」


「了解」


 ユーコを先頭に、二人は軋むドアを開け、薄暗い店内へと足を踏み入れた。店内には、人気のない静寂だけが漂っていた。カウンターの奥に、黒い人影がぼんやりと浮かび上がっていた。


 ユーコが声をかけようとした時、カウンターの奥から、巨人のような人影が現れた。それは、二メートルを超える大柄な体躯に、不釣り合いな白いエプロンを纏った、白髪の老婆だった。


「すいません、年なもんで、お水をどうぞ」


 デカい老婆は、巨人のような手で、水の入ったコップを二人の前に置いた。


「婆さん、ちょっとその水、飲んでみな」


 真顔のユーコが置かれたコップを指差して、冷静に言った。迷彩柄スーツの金髪眼鏡っ子、リアルなエビを模した赤いマスクの黒スーツに、身長二メートル越えのデカいババア。違和感しかない異様な緊張感の中、三人の間に静寂が走った。


「嫌ですよ、年寄りをからかって、わ、わわ私は、さっき飲んだばかりで」


 露骨に狼狽しながら、デカいババアが額から滝の様な汗を流しながら恐る恐る言った。


「何故飲めん、毒でも入っているのか?どこの世界にお前みたいな髭の生えたデカいババアがいるんだ」


 真顔のユーコの言葉は、老婆の正体を暴き立てる鋭さを持っていた。


「キエエエエエエェェイ」


 わなわなと肩を震わし、奇声を発したデカいババアが、丸太の様に太い両腕でカウンター越しにユーコに掴みかかって来た。


「アタァ」


 その瞬間、すっと立ち上がった片田が、拳をデカいババアの顔面にめり込ませた。


「ぽみゅら」


 デカいババアは、奇妙な断末魔を上げ、壁に叩きつけられた。


「エントリー名は?」


 デカいババアは、鼻血を拭いながら、よろよろと立ち上がった。


「私がドン・クイーン、そしてこちらがエビマスクだ」


 ユーコは、冷たい声で言った。デカいババアは、慌てて出場者リストを確認し、二人を店の奥へと案内した。


「御武運を」


 デカいババアは、作り笑いを浮かべ、二人に告げた。二人が店の奥の扉を開けると、そこには、薄暗い地下へと続く長い階段があった。



 地下へと続く階段は、湿気を帯びた冷たい空気を運んできた。その先に待ち受けるであろう狂乱を、分厚い鉄扉が静かに予感させる。


「エントリー名は?」


 頭上のスピーカーから、無機質な声が響く。


「ドン・クイーンとエビマスク」


 ユーコの低い声が、薄暗い鉄扉の前でこだました。


「よし、入れ」


 再びスピーカーから声が聞こえ、重々しい鉄扉がゆっくりと横にスライドした。開かれた扉の向こうには、八角形のケージリングが中央に鎮座し、異様な熱気を放っている。チンピラ、金持ちそうな男とキャバ嬢、その他大勢の観客が、異様な興奮に包まれていた。


「さあ、今夜、三連勝を飾り、チャンピオンへの挑戦権を手にするのは誰だ?そして、無敗のチャンピオンを打ち破る者は現れるのか!」


 リング中央で、司会役の男がマイクを握りしめ、絶叫している。その声は、観客達の熱狂と混ざり合い、異様な轟音となって闘技場を満たしていた。


 ユーコと片田は、喧騒を縫って、バーカウンターの隣に設けられた「エントリー」と書かれた看板の受付へと向かった。


「エントリーですか?」


 スキンヘッドの厳つい男が、低い声で問いかける。


「私がプロモーター兼セコンドのドン・クイーンで、こちらが出場選手のエビマスク」


 ユーコは男の目をまっすぐに見据え、淀みなく答えた。男はユーコを一瞥すると、品定めをするように片田を値踏みするように睨みつけた。その時、観客達の間から、割れんばかりの歓声が沸き起こった。


「あれ、マードックじゃないか、殺し屋マードックだ!」


 観客達がざわめき、色めき立っている。ケージリングに現れたのは、大柄で筋骨隆々とした男だった。浅黒い肌に、左半身から顔にかけて彫られたトライバルのタトゥーが、異様な存在感を放っている。その姿は、まるで闘争のために鍛え上げられたマシンのようだった。


「さあ、薬物使用で表舞台から姿を消した殺し屋マードックが、今宵、この地に蘇った!この男に挑むのは、いったい誰だ!」


 司会者の男は、芝居がかった口調で観客たちを煽り立てる。その声は、欲望と興奮が渦巻く闘技場に、異様な熱狂を呼び起こした。


「では、お二人、リングへどうぞ」


 スキンヘッドの男が、ユーコたちをケージリングへと案内する。観客達のざわめきを縫ってリング際まで来ると、男はスタッフに何かを耳打ちし、片田を呼び込んだ。


「じゃあ、お願いします」


 どうぞ、と片田をリングの入り口に促すと、スキンヘッドの男は受付へと戻っていった。


「脇を締めて、明日に向かって、打つべし、打つべし、打つべし」


 ユーコは、まるで呪文のように、謎めいたアドバイスを口にする。片田は、そんなユーコを冷ややかな目で見た。


「黙っててください」


 片田は、背負っていたリュックをユーコに手渡した。


「ジョーぉぉぉぉ…….」


 ユーコは、眉を八の字に寄せ、悲しげに呟きながら黒いリュックを受け取った。


「エビマスクです」


 呆れた片田は、そう言い残し、ケージリングの中へと足を踏み入れた。


「さあ、殺し屋マードックに挑むのは、正体不明のマスクマン、初出場の~エビマスクだ!」


 司会者の男がそう叫ぶと、リングから降りていった。リングの中央で、マードックとエビマスクが睨み合う。その視殺線は、鋭く、冷たかった。観客達は、固唾をのんで、その光景を見守っている。静寂の中、闘いの始まりを告げるゴングが、今にも鳴り響こうとしていた。


「華奢なネーちゃんだな、悪いが手加減はしねえぞ」


 マードックは、ドスの効いた声で片田に言い放った。その目は、今から行われる暴力の嵐に、何の躊躇も感じさせない程、ギラギラとした光を放っていた。


「あなた、ミュートですか?それともサイボーグですか?」


 片田は、至って冷静な口調で問い返す。その声には、微塵の動揺も感じられない。


「は?機械でも化け物でもねえよ」


 マードックは、眉をひそめて答える。その言葉に、わずかな苛立ちが滲み出ていた。

片田は、両手をポケットに突っ込んだ。


「いつでもいいですよ」


 立ち話でもしているかのような余裕綽々とした態度で、マードックを挑発する。


「このアマエビが」


 その瞬間、マードックの頭に血が上った。右拳が、片田の顔面目掛けて振り抜かれる。

しかし、その拳は、空を切った。片田は、すっと右側に半身になり、攻撃をかわした。そして、左ポケットから一瞬だけ左拳を抜き、マードックの横っ面に叩き込んだ。


 重い衝撃が、マードックを襲う。それは、まるで金属バットで顔面を叩きつけられたような痛みだった。左ジャブ一発で、この破壊力。脳は揺れていない。だが、鼻の骨は確実に折れた。鈍い音が、マードックの左耳の中でまだ共鳴している。


「へへ、やるじゃねえかアマエビ」


 鼻血をだらだらと垂らしながら、マードックは凶悪な眼差しで片田を捉えた。片田は、半身になり拳を構え、軽くステップを踏み出した。


「拳闘か」


 マードックはそう呟き、誰が付き合うかと体勢を低くし、下段タックルを仕掛けた。片田の腰辺りに両手を伸ばした瞬間、無防備なマードックの顔面に、まるでスレッジハンマーで打ち砕くような左肘の一撃が振り下ろされた。マードックは失神し、その場にうつ伏せに倒れた。闘技場内は、割れんばかりの大歓声に包まれた。


「ヒュー、エビマスク、最強!」


 正体不明のエビマスクに誰も賭けておらず、一人勝ちしたユーコは、賭けの受付で大量の札束を受け取りながら叫んだ。札束をリュックに素早く詰め込み、歓喜を押し殺した奇妙な表情でケージリングの方へ駆け寄っていく。


「さあ、見事、殺し屋マードックを打ち倒したエビマスクに挑むのは~こいつだ!」


 司会者の男の雄叫びが、観客達の興奮を煽り立てる。闘技場のボルテージは、沸点に達しようとしていた。そして、ケージリングに現れたのは、マードックとは対照的な、痩身の男だった。


「現代に蘇りし切り裂きジャックこと、元死刑囚、殺人鬼、霧元きりもとだ!」


 観客達の歓声が、突如として消え失せた。マイクのハウリングが、闘技場を支配する異様な静寂を切り裂く。


「霧元、なんで娑婆にいるんだ?」


「ヤッバ、マジもんのシリアルキラーじゃん」


 観客達の間に、ざわめきが広がり始めた。ユーコの耳元で、魚家からの情報が囁かれると、ユーコは、ケージ越しに片田に近づき、低い声で告げる。


「あいつは、若い女ばかり二十人以上殺してる。手加減なしでいい」


「了解」


 片田の両眼が、鋭く細められた。黒い手袋が、丁寧に両手に装着される。霧元は、薄気味悪い笑みを浮かべ、長い黒髪を掻き上げながら、舐めるように片田を見つめていた。


「女か、いいねぇ、こりゃたまんねぇな、いい仕事じゃねぇかよ」


 霧元の鋭い視線を感じながら、片田はリングの中央へと歩みを進めた。その瞬間、にやにやと笑う霧元の左肩付近に、黒い右拳のジャブが飛んだ。確かに、当たった感触はあった。しかし、細い体からは想像もつかないほどの硬さ、まるで鋼鉄のような堅牢さが、片田の右拳に伝わった。


「だいたい皆、そうなんだ、見た目でよぉ、他人をよぉ、判断したなお前」


 独特の間合いで喋る霧元から、片田は距離を取るように後ずさった。


「さっきお前がやった奴、見るからに喧嘩上等みたいな奴、俺、嫌いなんだよなぁ」


 そう言いながら、霧元は両手を大きく広げた。すると、両手の指先が鋭利な刃物に変化した。


「ヒャハハ、いくら身体を鍛えてもよぉ、サイボーグにゃ勝てねぇよなぁ」


 奇声を上げながら、霧元は両手の尖った指先で片田に切りかかってきた。片田は、ステップを踏みながら半身に構え、鋭利な指先の斬撃をギリギリでかわしていく。


「ヤル気あんのかよぉ、ぴょんぴょん逃げやがってよぉ、眠てぇルールでやりやがってよぉ」


 ケージを背にした片田に苛立った霧元は、さらに激しく切りかかってきた。


「ごちゃごちゃ、うるさいんですよあなた」


 片田は、胸部中央目掛けて突き出された霧元の左腕を掴み、素早く飛びつくと、右脚を首にかけて腕ひしぎ十字固めに極め、床に倒れ込んだ。


「ぐ、は、離せよぉ、があ」


 両足をバタつかせながら叫び踠く霧元の左腕を、ぐりんと回し極め、へし折った。闘技場内は、観客達の悲鳴で埋め尽くされていく。


「私も眠たいルールでやってませんよ」


 へし折った左腕を離し、すっと体勢を起こした片田は、そのまま間髪入れずに霧元の顔面に渾身の拳を叩き込んだ。ドチャッという鈍い音が響き、真っ赤な血がリング上に広がっていく。


「エビマスク最強!」


観客達の大きな歓声を背に、賭けの受付で邪悪な笑みを浮かべたユーコは、儲けた札束をリュックにせっせと詰め込んでいた。



 霧元の肉片が運び出され、血痕が丹念に拭き清められたリングに、司会の男が再び立った。その声は、熱気を帯びた観衆の耳に、次なる狂宴の始まりを告げる。


「さあ、諸君! 次の勝者こそ、真の勇者! チャンピオンへの挑戦権を掴むのは誰だ!? 二連勝のエビマスク選手に挑むは……こいつだー!」


 割れんばかりの歓声が、闘技場を揺るがす。その中心、ケージの中に現れたのは、全身を刺青で覆い尽くした、見るからに只者ではない男だった。


「剛王連合所属……人斬り樫本かしもと!」


 司会の男が名を呼ぶと、観客席からは一層大きな歓声と、それと入り混じるざわめきが沸き起こった。


 樫本は、手に握った二本の日本刀のうち、一本を片田の足元に投げ捨てた。その刃は、鈍い光を放ち、床に吸い込まれるように転がった。黒いリュックを抱え、安堵の表情を浮かべていたユーコの耳元で、魚家の声が囁く。ユーコは片田の方へ近づいて告げる。


「あの男……只者じゃない。頭以外、全身をサイボーグ化しているようね。桐生ちゃん、油断しないで」


「エビマスクです」


 片田は、ケージ越しに冷静に訂正する。その様子に、ユーコは碧い瞳を丸くした。


「強いなぁあんた、だが、女相手に道具振りまして勝ってもダサいからなぁ、その刀、とりな、それで五分やろ?」


 樫本は、先ほど投げ捨てた日本刀を顎でしゃくった。片田はゆっくりと足元の刀を拾い上げ、鞘から抜き放つ。鈍く光る銀色の刀身が、照明を反射して妖しい輝きを放った。樫本もまた、自身の刀を抜き放ち、ニヤリと笑みを浮かべたかと思うと、その表情は一変し、鋭い眼光を片田に向けた。闘技場は、水を打ったように静まり返った。


「いざ、尋常に……勝負!」


 司会の男の叫びが、張り詰めた空気を切り裂き、轟々たる歓声が闘技場を揺るがした。樫本は、刀を八相に構え、摺り足でじりじりと間合いを詰めてくる。その眼には、冷酷な光が宿っていた。


(あんたに渡した刀は模造刀だ。勝つか死ぬかの修羅場を生きてきた俺の前に立った、あんたの運命を呪うんだな)


 樫本の思考が、刃のように研ぎ澄まされる。その刹那、樫本は怒涛の連撃を繰り出した。しかし、片田はそれを冷静に受け止める。だが、その度に片田の持つ刀は、まるで豆腐のように、先端から次々と削り取られていく。


(勝った……EPISODE II 完!)


 樫本の脳裏に、勝利の二文字が浮かび上がった。しかし、彼の身体は、まるで石のように動かない。ゆっくりと視線を横にずらすと、左耳に刀の鍔らしきものが見えた。それが、樫本が見た最後の光景だった。


 片田は、刀身が七割方失われた模造刀を、樫本の左側頭部に突き刺し、貫通させていた。樫本は、立ったまま動かなくなった。その死体を、闘技場のスタッフたちが運び出す。


「うおおおおぁぁぁ!」


 阿鼻叫喚の地獄絵図と化した闘技場を、賭け金で膨れ上がったリュックを背負ったユーコが、観客を掻き分けながら片田のもとへと戻ってくる。その表情は、興奮と安堵、そして僅かな畏怖が入り混じっていた。


「凄まじい決着!さあ、ついにチャンピオンが今宵、降臨だー!」


 闘技場の照明が落とされ、ケージリングが一点の光に浮かび上がる。その光は、観客の視線を一点に集めた。ケージの外側では、屈強なスタッフ達が、透明なアクリル板のような壁を運び込み、手際よく設置していく。そして、スポットライトに照らされたリングの中央に、ジ・アトランティス、こと底川潮が姿を現した。


「ちょ、ちょっと待ってよ! 何これ? セコンドも何もなし? 話がちがうじゃない!」


 ユーコの叫びは、アクリル板に遮られ、片田の耳には届かない。片田は、ただ静かに、ユーコに向かって黒い拳を突き出した。それは、言葉にならない、深い信頼の証だった。


「さあ、さあ、メインイベントは水槽デスマッチ! 今からリングに海水が注がれ、徐々に水位が上昇していきます!」


 緑色の皮膚に覆われた、モヒカン頭の底川が、不気味な笑みを浮かべる。観客席からは、狂乱にも似た歓声が沸き起こり、闘技場全体が異様な熱気に包まれていく。


「ケケケ、お前も運が悪いな。この水が顔の位置まで来た時が、お前の最期だ」


 余裕綽々の表情で片田を挑発する底川。その身体は、ゆっくりと人の形を歪ませ、異形へと変貌していく。耳まで裂けた大きな口からは、鋭い牙が覗き、緑色の手の指先には、尖った爪が伸びていく。


 混沌とした状況の中、先に仕掛けたのは片田だった。膝下まで迫る海水を跳ね上げ、底川に向かって拳を繰り出す。しかし、海水に足を取られ、本来のスピードが出ない。その隙を突き、底川は片田の拳を軽くいなし、反撃の爪で胸を切り裂いた。体勢を崩した片田に、底川は容赦なく蹴りを叩き込み、ケージに縫い付ける。


「焦っているな、ケケケ。ゆっくりと料理してやるぞ、エビマスク」


 高笑いを響かせる底川を、片田は睨みつける。ユーコは、透明な壁の外で何かを叫んでいる。その声は、闘技場の喧騒にかき消され、片田の耳には届かない。観客席は、圧倒的なチャンピオンに惜しみない歓声を送っていた。



 海水は片田の胸元まで迫り、底川は水中を縫うように突進してきた。自由を奪われた片田の身体を、鋭利な爪が容赦なく引き裂いていく。リングの外からは、血で濁った水面が、中の様子を曖昧に霞ませていた。


 水面が首元まで迫った時、片田は濡れたマスクと共に水面から顔を出した。その刹那、片田の視界に、ユーコが左手をチョキの形にして示す光景が飛び込んできた。それは、一瞬の、しかし鮮烈な閃光のように、片田の脳裏に焼き付いた。水中では、底川が縦横無尽に泳ぎ回り、容赦なく爪を突き立ててくる。


「ケケケ、そろそろ終わりにしてやる」


 底川は、水中で大きく口を開け、ギザギザの恐ろしい歯をカチカチと鳴らした。そして、水中で藻掻く片田に向かって、最後の突進を仕掛けた。


「エビモード」


 片田の呟きと共に、左腕が鋏の形に変形していく。勝利を確信した底川が、大きく開いた口で片田の首元に迫る。ユーコは、ポケットから耳栓を取り出し、両耳にねじ込むと、その場から走り出した。


 片田の左腕の鋏が、パチンと不気味な破裂音と共に重なった。その瞬間、リング内はまるで小型核爆発でも起こったかのような、強烈な閃光に包まれた。轟音? いや、それはもはや音というより、空間そのものが引き裂かれるような衝撃波だった。


 さて、ここで何が起こったのか、順を追って説明しよう。片田の鋏が重なった際、キャビテーション、つまり液体内で圧力差によって泡が発生し、それが崩壊する現象が起きた。この時、尋常ではないエネルギーが放出される。


 通常、キャビテーションは船のスクリューを傷つける程度のものだが、片田の鋏はそれを遥かに凌駕するエネルギーを叩き出した。鋏の周囲に発生した微細な泡、それが崩壊する際に水分子を水電解、つまり水素と酸素のイオンに分解した。そして、そのイオンたちが再び結合し、水分子を合成する際に、とんでもない熱エネルギーを放出した。


 その熱量は、なんと4400℃。これは、ロケットエンジンの燃焼室に匹敵する温度だ。この超高温のプラズマ熱波が、突進してきた底川を文字通り焼き尽くした。


 想像してみてほしい。リングの中心で、太陽の表面温度に匹敵する熱波が炸裂したのだ。


 透明な壁が破壊され、リングに溜まった海水が闘技場内に溢れ出した。ゼロ距離でプラズマを浴びた底川は、跡形もなく消滅し、アクリル板も粉々に砕け散った。闘技場内は、瞬時にして大混乱に陥った。


 観客達は、轟音に聴覚を奪われ、石のように固まっていた。そんな混乱の中、一人抜け出したユーコは、地下階段を駆け上がり、喫茶店の入り口に辿り着いた。背中に感じる札束の重み。ユーコが小さくガッツポーズをして歩き出そうとした瞬間、手のひらが肩に触れる違和感に襲われた。


「ユーコさん、そのお金は違法ですから、私を困らせないでくださいね」


 目が笑っていない魚家が、リュックを差し出すように手招きをしている。


「あ、ああ、これは……」


 天国から地獄へ突き落とされたような表情を浮かべたユーコは、渋々リュックを魚家に渡した。


「報酬は、いつも通り振り込んでおきますので、お疲れ様でした」


 リュックを受け取った魚家は、手を振って去っていく。


「あ、そうだ。メリークリスマス」


 少し歩いてから振り返った魚家が、笑顔で言った。ユーコの黒縁メガネが、膝から崩れ落ちた彼女と共に、寂しく歩道に転がった。


 しばらくして、真っ白に燃え尽きたユーコの肩を、誰かがぽんぽんと叩いた。


「MR作戦、無事、任務完了です」


 エビマスクを外した片田が、ずぶ濡れのスーツ姿に黒いリュックを背負って立っていた。白い粉雪が、二人の頭上にひらひらと舞い降りる。


「メリークリスマス、ミスターローレンス」


 ユーコは、片田が背負った黒いリュックに視線を向け、かすかに口角を上げた。



  Dedicated to Ryuichi Sakamoto

      1952-2023


──────

See you in the next heaven…

挿絵(By みてみん)


今回は、北斗の拳の名場面。

デカいババアが出て来た時のケンシロウとのやりとりです。


今回の挿入曲は、オアシスのFxxkin in the Bushes です。

闘技場内シーンのBGMにしてました。


今回のED曲は、坂本龍一の『戦場のメリー・クリスマス』(Merry Christmas Mr. Lawrence)です。

いやあ、メリークリスマス、ミスターローレンス!

武さんの怖い笑顔。


ほな。

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