午前二時 トイレに行く
注意!
ホラーなのでお化けはそれなりに出ます
「う~う~」という呻き声で目が覚めた。
呻いていたのは自分だった。
時刻は午前二時。
丑三つ時とも呼ばれる時間。
とっくに消灯時間を過ぎた入院病棟は、足元を照らす暗いライトの光と、キーンと耳鳴りがしそうな静寂に包まれていた。
「どいて」
重くはないが、うなされた原因であろう、半透明の髪の長い女性を胸の上からどかせて私は目を閉じた。
閉じているが・・・、ベッドの横にまだ女性が立っているのがわかる。
常人ではできない白目の剥き方で私をじーっと見ているのが。
目が冴えた。
女性の顔が私の顔から掌一枚の厚みまで近づいたと感じた時点で私は目を開け、何となく気になる尿意に押されて、トイレに行く事にしてベッドからおりた。
すかさず、ベッドの下から血まみれの手がスリッパを履こうとした私の足首を掴む。
「はい、はい」
私は強めに足を踏み出して、ぬるっとした感触を振り払った。
今日つかんできたのは跡を残さないタイプのようだ。私の足首に血の手形はついていない。
ここでベッドの下を覗いたりすると、ろくな事にならないだろう。
足を拭いたり、洗ったりする必要がないのはありがたいと思いながら、私は廊下に続く個室のドアのノブに手をかけた。
「キャァァァァァ」
後ろで遥か上から下に続く、徐々にか細くなっていく悲鳴が聞こえた。
その後でドスンともグチャリとも聞こえる水っぽい物が落ちる音が聞こえる。
「またか」
この音にも慣れた。
音だけで何も落ちてないんだよなと思いながら、一応確認する為に回れ右して、窓にかかったカーテンを開ける。
窓の外にいた、未練という未練を吐き出すかのように口と目を限界を越えて開けた、逆さまの老婆と目があった。
両手両足でイモリのように窓ガラスにへばり付いている。
カラカラカラとアルミサッシの軽快な開閉音を響かせながら、私はニタリと笑う老婆を左へと受け流した。
窓の下を除きこむ。
ここは二階。
一階下の地面は月の明かりでもよく見える。
やはり何も落ちてない。
事故や自殺では無いことに安堵しながら、またカラカラカラと音を立てて窓を閉めれば、ガラスと一緒に移動していた老婆が目の前に帰ってくる。
窓の鍵を閉めてカーテンをシャッと閉めれば、老婆は外の明かりでWとMが縦に重なったようなシルエットになるだけだ。
カサカサと音がしそうな動きで影が移動していく。
「トイレ、トイレ」
尿意を思い出した私は、少しだけ開いた状態になっていたドアから廊下に出る。
はて、私はドアを開けただろうか?
扉の隙間から横向きに血まみれの指がドア枠を掴んで、血走った目が覗いていたようだが、廊下には誰も居ないので気のせいだろう。
音をさせないようにそっとドアを閉めた私の前を何かが塞いでいる。
夜間の為暗くなった照明に浮かび上がったそれは顔だった。
数えきれない程、いろんな方向を向いた様々な大きさの目がギッチリ並んだ巨大な顔が、トイレやナースステーションに続く道を塞いでいる。
「退いてくんない?」
一応、声をかけて見たが、振り乱したような長いゴワゴワした髪の隙間から、全部の目で悲しげにまばたきをするだけだった。
「仕方ないな」
私は一階のトイレに行く事にした。
それほど切羽詰まってる訳ではない。
ペタペタとスリッパの足音だけが静かな夜の廊下に響く。
ペタ ペタ
ペタ ペタリ ペタ ペタリ
ペタ ペタリ ピチョン ペタ ペタリ ピチョン
ついてくる。
自分の物ではない足音に振り返ったが誰もいない。
足音だけかと思った瞬間、目の前に雫が落ちてくる。
廊下に血痕を残したそれの発生源は天井を歩く不揃いな足だった。
一本は足首、一本は脛。
何かに食いちぎられたような両足が廊下の天井に赤い、赤い、足跡を残している。
「真上にくるなよ」
さっき足首を掴んできた手とは違い、実際に血塗られそうな、足達から滴る血を避けて、私はふたたび歩き出した。
ペタ ペタリ ピッチャン ズル ズルリ
背後がなんか賑やかだ。
一階に降りる階段の踊り場の鏡で確認しようとしたら、白いワンピースをきた少女が映っていた。
平面の鏡面を同心円状に波立たせて、少女の痩せ細った両腕が、何かを求めるかのようにこちら側へと突き出されてくる。
「ヘーィ」
パァンと音をさせて少女とハイタッチした私は残りの階段を降りる。
ペタペタ
足達は階段から一階の天井に続く部分でついてこられなかったようだ。
軽くなった自分だけの足音をお供に私はロビーのトイレに向かう。
「キャハハハ」「キャッキャ」「ウフフ」
半透明の子供達が楽しそうに無人のロビーでボール遊びをしている。
着物というか就寝用の浴衣。
もう十年も前のヒーローのパジャマ。
せめてもの思いが感じられるフリル一杯なネグリジェ。
楽しそうに遊んでいる子供達を見ていると何か救われた気分になる。
「とって~」
幼い声と一緒に足元へコロコロとボールが転がってきた。
ハイハイと内心で返事をしながら拾い上げると。
生首だった。
しかも、見覚えがある。
私の、首だった。
目を閉じて深呼吸。
深呼吸できるなら私の首はある。
意を決して目を開ければ。
白い、白い、しゃれこうべ。
そこだけ新鮮な両目が、瞼もないのに私をイタズラっぽく笑っていた。
同情して、なんか損した。
「いっくぞー」
感情のこもらない平坦な棒読みで合図して、私は首のない着物のお子様に首を投げ返した。
「なんだかな~」
独り言ちて、首を在るところに据えて今度は鬼ごっこを始めた幽霊達を見送る。
いつの間にか鏡から抜け出した少女も一緒のようだ。
「おっとトイレ」
やっとこさたどり着いた憩いの地で用を済ませ、洗面台で手を洗うと鏡の中の一番近い個室の扉が開いた。
左右が反転した四角い世界の中。
ずるぅりと音がしそうな動きで。
黒い、赤黒い、皮を剥がされたのち、血が固まったような人影が這い出してくる。
キュッと音をさせて強めに蛇口を閉めた私は、手を拭きながら後ろを振り返る。
個室の扉は開いていない。
ここでもう一回鏡を見ないのが心臓を労る事になるよねと、鏡の上から下に落ちてくる様に映った黒い人影が、私を探してキョロキョロしているのを視界の端に捉えながらトイレを後にした。
トイレを出ると、ピチャッ、ピチャッと
水音が私を呼ぶ。
確かに蛇口は閉めた。
トイレ中に水音はしなかったから他の蛇口でも無い。
構うと朝まで部屋に帰れないんだよなと思いながら、私は出した分補給しようと紙コップをとって、薬を飲む用に設置されてるウォーターサーバーのコックをひねった。
びちゃびちゃびちゃ
・・・粘っこい。
水より粘着質な音を立てて鉄錆臭い液体が紙コップを満たした。
暗めの照明で見辛いが、ウォーターサーバーの透明な大きなボトルの中、心臓がドクンドクン、肺がゴボゴボと元気に蠢いていた。
「セコい事したバチかな?」
私は飲めない飲み物を始末して、煌々と明るい自販機の水のボタンを押した。
ゴロゴロと機械の中をペットボトルが転がる音がして。
ガシャンと取りだし口に落ちる音がしない。
みっちり。
みっちりとモノが取りだし口に詰まってる。
「金を出した以上、飲み物は貰う」
取りだし口から上目遣いで見てくるモノと暫し睨み合う。
キィと音がして取りだし口をカバーしているプラスチック板が手前に開くと、20センチはある指がついた薄っぺらい細長い手が、うっすらと結露したミネラルウオーターを渡してきた。
買った。いや、勝った。
フフンと私が鼻で笑えば、取りだし口に詰まったモノはゴソリゴソリと機械の中へ消えて行った。
「トイレに行くのも一苦労だな」
ベッド脇でウォーターサーバーから失敬してきた紙コップで水を飲んで、一息ついた私は残りをしまうべく個人用の冷蔵庫を開ける。
詰まってる。みっしりと。
フフンといいそうなモノを一睨みして、私はサイドテーブルにペットボトルを置く。
こう言う事もあろうかと。
ペットボトルには口を着けなかった。
雑菌が入って無いので明日も飲めるだろう。
ぬるいけどな。
なんか負けたような気分で冷蔵庫をコンと蹴飛ばした私はベッドを見る。
やっぱり盛り上がっている。
人形に。
溜め息をついて、掛け布団を捲り上げる。
誰もいない。
「シュウマイ弁当」
私は呟いて、掛け布団の裏もきちんと確認する。
大丈夫。
すっかり冷えてしまったベッドに潜り込んで私は仰向けになる。
天井の染みに見える顔とのにらめっこは今夜は無しだ。
時計の針は二時十三分。
何だかんだで疲れた私は朝までぐっすり眠りこんだ。
+++++
「もう問題無いですよ」
白衣の和やかなおじさんが太鼓判を押してくれたので、私は退院できる事になった。
「どうでした? 入院してみて」
荷物をまとめた私に担当医が聞いてくる。
「最初はビックリしたり怖かったりしたんですが、慣れるもんですね」
私はサイドテーブルに置きっぱなしのこの病院のパンフレットを見る。
・・・恐怖体験でのアドレナリン分泌が治癒を促す。これは当病院の前医院長が論文にまとめ発表した最新の・・・
「あまり慣れると効果が薄れるのかな。ちょっと入院長引きましたか」
「それでも短い方なんですよね。ありがたいです」
治療記録をめくる医者に私は感謝を伝える。
「恐怖体験? 驚かせ方も色々ありましたし。どうやってるんですか?」
ついでに気になっていた事も聞いてみた。
パンフレットには独自のAR技術とあったが、私には種も仕掛けも解らなかった。
「そ、それは企業秘密です」
私の前の先生は焦ったように唇に人差し指を当てた。
「まあ、そうですよね」
私も病気が治れば文句はない。
「退院ですか」「お大事に」
顔見知りの看護師さん達に見送られて私は病院を後にする。
振り向けば廃病院に見える建物の窓から窓、全ての窓で、明らかに人外とわかるヒョロリと長細い白い腕が私に向かって手を振っていた。
何本か招いているのは御愛嬌か。
「また、入院する事になったらここにしよう」
それなりに多い、マスクをした人や付き添いの人に支えられて病院に入っていく人とすれ違いながら、私は日常に戻るべく一歩を踏み出した。