8.虹とエリシャ
「あ、風神さま?」
しとしとと降る雨を窓際で見ながら、セリエは鈍色の空を見つめていました。雨はとおい南の国の香りで装われて、街を浮き立つような初夏の空気で包み込みます。セリエはその懐かしいニオイに、マオと出会った時のことを思い出していました。南風に乗って天界を後にしたときのあの心細くて寂しくて……泣いても泣いても悲しさがこみ上げてきて……そんな時に聞こえてきたあの声……セリエはそっと振り向くと、小さな声で呼んでみました。
「おにーちゃん……」
「ん……?」
レンズを掃除しているマオは顔をあげると、窓際にちょこんとすわり込んでるセリエを見ました。
「へへ……なんでもないよ」
セリエはくるッと背を向けてまた窓の方を向きました。あれあれ、なんだか口元がゆるんじゃって変な顔!なんだ、マオに見られるのが恥ずかしいの?セリエ。
「雨やまねえなぁ」
「……ウン……」
マオがふつうに話し掛けてくるのが、セリエにはとても幸せでした。ひとりぼっちじゃないって思わせてくれる優しい声、心をとろかすようなこのひとときがずっと続いてほしいと、セリエは願うのでした。
……神さま、おにーちゃんとずぅーっといっしょにいられますように……
セリエは空を見上げて、雲間から差し込む幾条かの光に向かって合掌しました。そして目を閉じて不思議なこと、何だかずぅっと前から知ってたような気がするひと……そして、心をつなぎ止めたあの歌……いろんなことを神さまに聞いてみました。でも地上からではあまりにもとおくて、セリエの声はなかなか神さまの耳には届かないようです。そんなセリエの頭に、ラファエルにくりかえし音読させられた書物の一節が浮かびました。
……求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう……
「ウン!そうだよね」
セリエは小さく、自分に納得させるように言いました。
地上の一点を照らす光はだんだんと明るさを増していき、いつしか雨も小降りになって来ました。セリエは明るくなって来た空に向かって大きく伸びをすると、窓を開けて外に顔を出しました。
「おにーちゃん!あめ、やんできたよっ」
セリエが振り向くと、突然閃光が走りました。雷?セリエはびっくりしてしまってぺたんと尻もちをついてしまいました。
「な〜に〜めのまえにぽわぽわがとんでるよ〜」
「ごめんごめん、光使わねえと顔が出ないんでね」
マオは構えたF4を胸元までおろすと、ストロボのスイッチを切りました。マオ君、セリエ撮ってたんだ……可愛く撮れた?
「今度はちゃんと写ってるといいけどな……」
マオはそう言うと、窓際のセリエのそばにやって来ました。そばにマオの体温を感じたセリエは照れくさそうな顔で、ちょっと寄っかかってみました。マオはそんなセリエの小さい肩や髪に手を添えてやりたい衝動に駆られましたが、恥ずかしいのか誤解を招くのがいやなのか、平然を装ってF4のレンズ越しに切り取る風景を探します。そんなマオの目に、おおきな七色の光の束が飛び込んできました。
「……虹だ……でかいな」
「に……じ?……にじってなあに?」
セリエは振り向くと、目をまんまるにして聞きました。マオは微妙にピントリングを回して合焦点を探しながら答えます。
「外に出てみりゃわかるさ」
「ウン!」
言うが早いか、セリエは庭の方へすっとんで行きました。ようやく離れてくれてホッとしたマオはファインダーから視線をそらすと、セリエの走っていった方を見つめて思うのでした。
「どこまで入り込んでいいのかな……僕は……」
雨上がりのしっとりした空気を貫いて、七色の光芒が空高く伸びています。あまりに大きくて反対側が見えないくらいのりっぱな虹は、マオたちの街をまたいで山のずぅっと向こうまで、まるで天まで届くかのように続いています。セリエは花壇の真ん中の、動かない時計の文字盤に立ってはち切れそうな笑顔で、
「すごーい!こんなおっきな天の橋はじめてみたよぉ!」
そういうと空に手を伸ばして虹をつかもうとしました。何度も何度も飛び上がって……でもやっぱり飛べないセリエ、けれど今のセリエは落ち込んだりはしません。
「う〜ん、やっぱりとどかないな!でもいいんだ!お空にかえれなくても……あ、そうだ!おにーちゃんよんでこようっと!」
セリエは時計のステップを軽やかに下ると、テラスの方へ駆け出そうとしました。その時、セリエの後で、何だか聞き覚えのある声がしました。
「まさか……あなた……セリエなの?」
セリエはハッとして立ち止まると、おそるおそる後をふり返りました。そこにはちょうどセリエと同じくらいの女の子……絹のようなつやつやしたローブに純白の羽根、そして頭には祝福の光を灯す輝く輪……
「……天使さん?……あ……エリシャだ!……すごい!天使のエリシャ!」
セリエは目をキラキラさせて、ゆるやかに降りてくるその子を見つめました。
「エリシャ……すごいな……天使になったんだ……きれいだなぁ……」
とても嬉しそうなセリエ、でもエリシャはちょっと遠慮がちに小声で話しかけました。
「セリエ!あなた天使じゃないのにこんなとこで……人間さまにまる見えじゃないの!」
「え?見えちゃダメなの?見えないとおはなしできないよ?」
エリシャはちょっとびっくりしましたが、セリエのいつものあっけらかんとした答えっぷりに軽く微笑みました。どうやら何か確信したようです。
「変わんないわね、セリエ……まああなたの羽根は目立たないからいいけど、そもそもなんであなたが下界にいるのよ?それに……」
セリエはそんなエリシャの詮索など耳に入らないようで、ローブの匂いを嗅いでみたり、白い羽根に顔を埋めてみたり、天使の輪に息を吹きかけてみたり……とにかく大忙しです。
「いいなっ、天使のわ!セリエもほしいなっ、天使のわ!」
「あちこちさわんないでよ!くすぐったいって!」
セリエはエリシャの手を取って、ぎゅっとにぎって話しかけました。
「うれしい!エリシャにまた会えるなんて……セリエのこと、おぼえててくれたんだね!」
「あ……うん、ほんとは私も心配だったの……元気そうでよかった!セリエ」
セリエの屈託のない愛情表現にちょっと面食らったエリシャですが、変わらないその姿に安心したのか、急に年相応な話しっぷりになりました。
「エリシャ、やっぱり天使っていろいろたいへんなの?」
「へへ、実はまだなったばっかりなんだ。とりあえず人間さまの守護をして徳を高めないといけないみたいなんだけど……だれかいないかなぁ……」
「とく?な〜にそれ?」
「そこまでは教えてくれなかったけど、たとえばステキな人とめぐりあわせたり、死の天使をおっぱらったりするといいって言ってた」
「死の天使!?こわいよー!そんな天使さんっているの?」
エリシャははっと思い出したように顔を上げると、セリエに向かってちょっとほおを染めて言いました。
「そう言えばここに来るときにね、私会ったんだ、死の天使」
「えーーーーーーー!?」
「何だか叫び声がしたから、私そこに降りていったの。そしたらね、建物の影にうずくまってたのよ、カレが」
「カレ?エリシャ……そーなんだ?」
「あーそこから先は言わない言わないっ!ふぅ……とにかくカレ、すごく疲れてるみたいで、わたし大丈夫ですかって聞いたの……そしたらね」
「ウンウン!」
「『お嬢さん……心配はいりません……見苦しいとこをお見せしてしまいましたね……』なーんて声がもう渋くてカコイイの!」
エリシャは心ココに在らずといった面持ちでセリエに話して聞かせました。セリエはそんなエリシャを見てニコニコ笑って言いました。
「よかった!いつものエリシャだ!ねえ、その人なんて名前なの?」
エリシャは調子に乗って渋い表情をつくると低い声で、
「『私はサリエル、あなた方に危害は加えませんが、あまり関わらない方が身の為でしょう』だって!サリエル様だよ!何だか不良っぽくなっちゃって、もう放っとけないッ!って感じなの!」
そういうと握った手をほおに当てて余韻にひたるのでした。
「サリエルさま?んー、どっかできいたような」
セリエはあまりそんなのには興味がないのか、ぜんぜん覚えてないようです。エリシャは小馬鹿にしたような顔をしてセリエに聞きました。
「覚えてないの?もう!前はラファエル様と同じ、神様に仕える六翼の天使だったのよ!」
「えー?じゃすごくエライんでしょ?なんで下界になんかいるの」
「それがよくわかんないけど、何か悪いことしたって訳ではないみたいなの。ラファエル様とはすごく仲がよかったのに……あ!そうだ!思い出した!」
エリシャは急に真顔になって、セリエの方を険しい表情で見ました。セリエはびっくりして思わず後ずさりしてしまいました。
「セリエ、あなた、大変なことをしてしまったんじゃないの?ラファエル様、かんかんに怒ってるよ!」
「えぇー?どうして?セリエなんにもしてないよっ!」
エリシャは大事にしまい込んだ袋を取り出して中にある光る物を手に取りました。そしてセリエの目の前に持って来てこう言いました。
「これ、あなたが刈り取った命なの?」