7.サクラサク
子供が上るには急な段差の非常階段を、セリエは今にもころびそうな足取りで駆け上がっていきます。下から追いかけてくる警部の足音は狭い回廊の中でこだましあって、その不気味な反響はセリエを否応なくあせらせるのでした。
「はぁ……はぁ……だれかくるんだ……はしって……セリエをつかまえるの?……ダメ……おにーちゃん……まにあわなくなっちゃう……あいたっ!」
さすがに疲れ果てたセリエは足がもつれて、踊り場の手前でころんでしまいました。どこか打ったのか、声も出せずにうずくまっています。セリエ!しっかりして!
「あいたた……いたいよぉ……」
下からの足音はどんどん大きく、たくさんになって来て、まるで大勢で上って来てるみたい!でもセリエは動けません。ただからだをちぢめて、痛みが消えるのを歯を食いしばって待っています。
「ダメなセリエ……飛べないから……天使じゃないから……バツなんだ……ラファエルさま……」
ちぢこまったセリエは、潤んだ目で動かなくなった自分の足を見つめました。上からの薄明かりに浮かんだ、お花のついた靴…マオが選んでくれました。あのこそばゆくって、心が舞い上がるような気持ち……あんなにうれしかった事って……
「……おにーちゃん……」
セリエは涙をふくと、ひざをがくがくさせながら立ち上がりました。そしてキッと四角い空を見据えると一歩、一歩と階段を上り始めました。
「はあはあはあ……ちくしょっ、やっぱり応えるな……」
いっぽう警部の方もさすがに疲れたようで、早足で上るのが精一杯になってきました。見上げればまだまだ高い天井の窓……警部はちょっと足を止めると、
「……ったく、何やってんだろうな俺は……」
とつぶやきながら無線のコールを試みました。しかし建物の中で電波が届かないのか、聞こえてくるのは雑音ばかりです。
「ヘリでもよこせればと思ったが……アマちゃんだな俺も……警官は身体で捜査が基本だってのに……情けねえよ」
警部はそう笑い飛ばすと、無線のスイッチを切ろうとしました。その時、警部は切なく、けれども優しい旋律を感じました。
「なんだ?この道……母さんの……?」
音のイメージはまるで雪のようにまわりを包み込み、警部は危うく無線マイクを落としそうになりました。
「これか?混信しやがって!」
警部はスイッチを切りましたが、やわらかな旋律は一向に消えません。貧血なのか幻影なのか、目の前には一本の白い道がずうっと遠くまで伸びています。警部は頭を激しく振って、
「くそっ!こんなとこで黄昏れてる段じゃねえんだ!」
と再び階段をかけ上がりました。天井の天窓から見える四角い空、それとは別にほのかな白い光がゆっくりと上って行くのが見えます。白い道みたいなのは、たぶんその光が通ったあとでしょう。
「歌だ……ハァ……あの光から聞こえてくるのか……ハァハァ……優しい歌だな……」
警部は不思議な懐かしさを感じさせる音色に惹かれるように、上へと向かっていきました。
「……おにーちゃん……まっててね……この歌……かならずとどけるから……」
セリエのくつは、何回もひっかかったからでしょうか、つま先が破れてしまいました。のぞいた指のつめは剥がれてしまってすごく痛そうです……それでもセリエは止まらずに階段を上っていきました。だんだんと四角い空が近づいてくるにつれ、足を引きずるように上がっていた階段を早足で、そして駆け足で……セリエの身体はそう、あの夜みたいにあたたかく輝き、まわりを取り囲んだ淡い光の粉がぽぅぽぅと、暗い回廊のすみずみまで明るく照らしています。軽やかに、まるで飛翔しているように駆け上がるセリエの目の前に青空がぐんぐんと近づいて来て、彼女の顔を明るく照らしました。そしてとうとうセリエは最後のステップに飛び上がりました。
「ついたッ!……はぁ……はぁ……おにーちゃんは?」
セリエは屋上をぐるっと見回しました。太陽は西に傾きかけていて、構造物の長い影が不思議な模様を描いています。明暗が交錯する風景は気まぐれに乱反射を起こして、セリエは目が眩んでしまいましたが、反対側のビルの強烈な逆光の中に浮かび上がるシルエットをセリエは見のがしませんでした。
「おにーちゃん……おにーちゃんっ!」
「……」
マオはF4を両手で大事そうに抱えて、落下防止用の手すりに寄りかかっていました。手すりと言っても腰くらいの高さしかなくて、ちょっと蹴りあげるだけですぐ向こう側……60階の高さの空中へと飛び込んでいけるのです。マオは目を閉じて何かを感じようとしていた様でしたが、人の気配を感じてそっと目をあけました。目の前にはぼろぼろの靴をはいた、でも優しい光に包まれたセリエが立っています。それを見たマオは、ちょっと残念そうな顔をして、
「何なんだろうな……こんな時に歌の歌詞が気になっちまって……できればお前に見つかる前に翔んでしまいたかったな……」
そう言うとマオは手すりにぐっと身体を持たれかけ、足に力を入れました。
「ま、まってぇ!」
「それ以上近付くな……僕は……翔ぶんだ……」
駆けよってこようとするセリエを、マオは目で制止しました。びくっとして立ち止まるセリエ、それでも涙をぽろぽろおとしながらマオに叫びました。
「ダメ!もうひとりぼっちはヤダ!……やっと……やっとあえたのに……」
「ゴメンな……ダメなお兄ちゃんで……」
マオはそう言うと、踵を返して一気に手すりを飛び越えました。
「おにーちゃんッ!」
……とおくまで つづく
このみちを ひとりで……
「あ、そうそう、そんな風に歌ってたな、母さんは……」
「たしか、2番には僕の名前がはいってたんだっけ……」
……かあさんの くらすくにでは
さくらの はなのしらべ……
「何だ、チビ、お前が歌ってたのか……」
「よく知ってたなぁ……僕も忘れてたのに……」
じゃあ、いっしょに歌おうよ!
いつかきいた かぜのなかで
「いつか聞いた 風の中で……」
おもいだす てとてつないで
「思い出す 手と手つないで……」
あるいた このみち
「歩いた この道……」
桜の舞い散る並木道を歌いながら歩いていく親子の姿は、春霞のようにあやうく消えてしまいそうで、マオは心の中で、何時までも消えないでと願うのでした。
「母さんッ!……」
マオは自分の声にハッとして我にかえると、あたりはもう夕暮れの空の色につつまれはじめています。焦点が合いはじめた彼の目に、遥か下の道路を走る車の列が映りました。足がすうっと軽くなって、うつ伏せのマオははじめて自分の身体が半分空中に飛び出している事に気がつきました。マオは血相を変えて手を突っぱねると、手すりの所まで座ったまま後ずさりしました。鼓動がどくどくと鼓膜を圧迫し、体中から冷たい汗が吹き出して来ました。
「はあっ……はあっ……ごくっ……んはあっ…」
「……おにーちゃん……」
息を荒立てて座っているマオのところに、セリエがゆっくり歩いてきました。傷ついた足でよろよろと、手を差し伸べながらマオへ近づいてきます。気持ちは先に行くのですが、もうどうにも足が動きません。手すりまでたどりついたセリエはへとへとで、マオの横へ倒れ込んでしまいました。
「……お……おい……大丈夫か……」
マオの声に、セリエはつっぷしたままうなずくと、力をふりしぼって上体を起こして、マオの顔を見つめました。
「……ウン……」
そう言って慈しむような表情で、荒い息をしている肩にそっと手を回しました。マオはちょっとぴくっとしましたが、もう抵抗する事はありません。セリエはほおに顔を近づけて、やさしくささやきました。
「マーちゃん……おぼえててくれたのね……」
マオは瞳に光がゆらめくのを感じました。肩にかかっている小さな手を握ると、セリエの方をふり返りました。そしてふわふわと光に囲まれているセリエの小さい身体をそっと両手で抱きました。
「……きもち……いい……な……」
セリエは笑顔のまますぅっと眠ってしまいました。よりかかったセリエの身体の重さを、マオは不思議と心地よく感じました。そして自分に完全に身を委ねているセリエがいとおしくて我慢出来なくなってくるのを、マオは無性におかしく思うのでした。
「……ほっとけねえな……こいつ……」
「だいたいなあ……歌だ歌!……なんでこんな……おい!カメラ見せろ……この子に何を……」
60階分の階段を上って来たは、しゃがみ込んでぜいぜい息をしていました。マオにいろいろ聞きたい事があるようなのですが、頭と口がうまく回らないようで訳の分かんない事ばかり言っています。
「ねえ、子供寝てんだけど。静かにできないんですか」
「やかましい!……はぁ……人間じゃないかもしれんのだ、この子はッ!」
マオの冷めた言葉にイラッと来た警部は、思わず捜査の目的を漏らしてしまいました。それは警部の、いや警察のセリエに対する認識を物語るものでした。確かにそうかもしれないけど…ダメだ!この子はひとりぼっちなんだ!だれかが……誰かが守ってやらないと……
「何言ってんですか、こいつは僕の従兄妹なんだ。つまらん言いがかりはやめてください」
マオは思わず、ありもしない事を言い放っていました。
「だ……だけどよ……さっきの……」
「先週親父がアメリカから連れて来たんです。そんなプライベートな事を言わなきゃなんないんですか!この国は」
警部はさらに追求しようと思い立ち上がりましたが、マオの真摯な眼差しと、セリエの幸せそうな寝顔をしげしげと覗き込むと、今日はこれ以上は無理と思ったのか、
「そ……そうか。すまんな……その……気をつけて帰れよ」
そういって、上着を背に階段を下りていきました。マオはその後ろ姿を見送ると、ビルの谷間に沈んでゆく夕日を見つめながら思いました。
「守れるのか……この僕に……」
セリエはマオの腕の中で小さい寝息を立てていました。その安らかな表情はマオの心の中に小さな、でも恒星のように輝く光を灯すのでした。