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6.天国への階段

「忘れてた……もう試験中だったんだな……」

 マオは自分のもの覚えの悪さをうらめしく思いながら店の外へ出ました。昼間の温度はもう長袖では暑いくらいに強くて、街行く人々もやってくる季節への期待で浮き足立って見えました。そんな輝いている人々をさけるようにマオは、元気のない足どりで駅前の雑踏から路地裏の細い通りにはいって行きました。面と向かってではないにしろああもひどい事を言われてしまったマオの目に光はなく、まるで作り物のようでした。セリエはそんなマオに話しかける勇気もなく、かといって放っとくこともできずにただ後ろをついて歩いて行きました。世の中のすべてに忘れ去られたような古びたアーケードや誰もいない書店、すかすかなゲームセンターのべたべたした匂い……マオは見覚えのあるスーパーの店鋪跡の前で、がらんとした店内のちらかった棚や安売りチラシを見つめながら、

「弱い奴は……か……」

おだやかな春の陽が救われない風景たちを暖かくつつんでも、どうにもならない事をマオは感じていました。それらは愛を受けることなくこのまま消えて行くのだ……マオはそんな風景に自分を重ねて、青空をうらめしそうに見上げるのでした。


「あー?姫野じゃねーか?」

 目を上げるとさびれたゲームセンターの表に一人の学生が立っていました。さっきの店でサツキと一緒にいた少年……宮武です。

「ひっさしぶりだなぁ。以外と元気そうじゃねえの」

マオの頭ひとつ分おおきな宮武は、慣れ慣れしくゆるりと近づいてくると、ポケットに手を入れて何やらごそごそと探り始めました。セリエは……あらら、本屋さんにひっかかってます。マオは宮武と目をあわせようとはせず、色あせたスーパーの看板をじっと見ていました。

「ほらよう、あとこんだけしかねえんだ。ちと貸してくんない?」

宮武はマオの顔の前にポケットの中身を突き出してみせました。大きな手のひらに小銭が5枚ほど、マオは一瞥もせず、横を向いたまま答えました。

「今日はねえよ」

「せっかく会えたのにつれねぇなあ。お前ガッコ来てた時はしょっちゅう貸してくれてたじゃん」

 宮武はニヤッと笑うと、いきなりマオのベストのポケットに手を突っ込んできました。マオは宮武の手を握って押さえ込もうとしましたが逆に関節をひねられて身動きが取れなくなってしまいました。

「イタタ……やめろよ……ぐっ!……」

「うわ、なにコレ?お前やっぱり変態かよ!キモすぎ!」

宮武の手には、ガンじいに焼いてもらった栗毛の女の子の写真……マオは手を伸ばし、顔を真っ赤にしてそれを掴もうともがきました。でも宮武は面白がってそうやすやすと離してはくれません。マオの届かない高さに写真を持ち上げ、奇声を上げてからかい続けます。

「か……返せよ!」

マオは宮武の足を思いっきり踏み付けました。ひるんだ拍子に押さえ込まれていた手が緩み、マオはようやくその写真を取り返しました。

「はあ……はあ……ちくしょう……」

「やってくれんじゃん……ぷッ、何だよ、お前も金ぜんぜんねーじゃん。」

いつの間にか宮武はマオの財布を取り上げていました。逆さまに振ってぱらぱらとこぼれ落ちた小銭をぎりっと握りしめると、後ずさりするマオに向かって、

「今日ちょっとよけいな出費があってね、お前見るとむしゃくしゃすんだよな」

宮武はマオのF4のストラップをつかむと、力まかせに引っぱりました。とっさにマオはカメラを抱えてかがみこみましたが、首から斜がけしたストラップはマオの首をしめあげます。マオはF4を抱いて小さくかがみこんだままつぶやきつづけました。

「これはだめだこれはだめだこれはだめだこれはだめだこれはだめだ……」

「ち、その不釣り合いな高級カメラで勘弁してやろうって言ってんのに、あー?女みたいな名前のくせに……大体うぜぇんだよお前はッ!」

貝のように堅くちぢこまっているマオに業を煮やした宮武は、今度は足でマオの脇腹をはげしく蹴りあげました。どすっとにぶい音がするたびに、マオの口の中に血の匂いが広がっていきます。息をするのも苦しくて、顔を上に持ち上げたマオの目に、走ってくる男とセリエの姿が見えました。

「おい!こら貴様!何をやってるんだ!」

「ち、やべえ」

宮武はひらりとマオを飛び越えると、持ち前の俊足であっという間に消えてしまいました。


「おい、大丈夫か?最近はひどい奴が多くてなぁ……」

駆け寄って来た男はコンクリの基礎に鮮血を散らして踞っているマオをそっと起こしました。肩で息をしているマオを涙目のセリエは心配そうに見ています。

「おにーちゃん……だいじょぶ?……わらってよ、セリエ、かなしいのヤダ……」

「そうか、どこかで会ったと思ったら、君たちはあの時の……」

そういえばこの男の人……前に噴水のところで会ったあの警部でした。セリエが泣きながらあそこまで戻って連れてきたみたいです。いい子ね、セリエ。

「大分やられたな、救急車を……ああ、乗らないんだったね、大丈夫か?」

心配そうな警部の声を聞いたマオは、F4を抱えたままよろよろ立ち上がると、何も言わずに一歩、一歩、倒れそうな足取りで歩き始めました。まだしゃくりあげているセリエはつられてついて行こうとしてはっと立ち止まると、戻って散らばった写真や財布をかき集めてる警部に言いました。

「だいじょぶ、おにーちゃん、セリエがたすけるよ」

「そうか、じゃ頼むな。私は犯人を捜索しないといけないんでな」

警部はそう言うと、マオの持ち物をセリエに渡しました。セリエはごしごしっと涙をふくと、マオのあとを追っかけていきました。警部はそんな二人を見送りながら前と同じ疑問を感じていました。

「あの二人、どこか変だ……調べてみる必要があるな……」


 マオは誰も遊ばなくなった古い公園のベンチで、ぼんやりと空を見上げていました。日に照らされた体はぽかぽかと暖まって、何だか蒸発して空に吸い込まれていきそうな感覚をマオは心地よく感じていました。いっそこのまま消えてしまったらいいのに……そうすればこんな苦しみだけの世界なんかと……

「おにーちゃん、もうかえろ?」

もう30分も横に座ってるセリエは、さすがに我慢できなくなって小さい声でマオに言いました。でもこのまま帰ったらサツキと鉢合わせになる事は目に見えてるし、こんなボロボロの格好で会って彼女の遠慮のない詮索を受けるのは、今のマオにはとても耐えられない事なのでした。

「おまえさ……いや…なんでもない……」

「え?なになに?」

突然話しかけて来たマオにセリエは明るい表情でこたえましたが、また黙りこくってしまったマオの横顔を見てがっかり……でもなんとか元気づけようと思ったのか、ハキハキした口調で話し始めました。

「ねえ、かえったらかだんの、あのお花たちげんきにしてあげるね!あの子と、あの子と、あの子はすごくきれいなんだ!だからね、そしたら、きっとおにーちゃんもニコニコだよ!」

「……あの雑草はどうした?」

マオは、表情ひとつ変えずにぼそっと言いました。そんな彼の素振りにセリエはちょっとくじけそうになりましたが、友だちから聞いた話をもとに、いかにも自分が一人前のような口ぶりで続けました。

「天使はね、タマシイを天のくににとどけるのがおしごとなの。だからみんなを祝福して、神さまのところへ連れてってもらったの。いつかわかんないけど、神さまにきれいなお花にしてもらえたら、またきっともどってきてくれるよ!」

それを聞いたマオは、初めてセリエの方を向いてぽつりと言いました。

「なあ、僕にそれ、やってくれよ」

セリエはよく意味が分かんなくてきょとんとしてしまいましたが、考えてるうちにだんだん笑顔が消えていって、

「おにーちゃんを?……ダメ…ダメだよ!おにーちゃん、べつのひとになっちゃうよ!もう会えなくなっちゃうよ!」

マオはセリエから視線をそらして小さなため息をつくと、我ながらバカなお願いをしてしまったとうすら笑いを浮かべました。

「だれが?誰が僕に会うっていうんだ?……ハハッ……お前、バカにしてんだろ」

それを聞いたセリエは悲しげな瞳でマオを見ています。同じ境遇だと思ってるのか、セリエは、マオの心の深くえぐられた傷跡を感じ取っているようです。

「おにーちゃん……イヤだよ。セリエ、きらわれていいよ……でもおにーちゃんがいなくなっちゃうなんて……絶対ヤダよ!」

マオはうっとしそうにセリエを見て

「フッ……天使ねぇ……とっとと天国に連れてってくれりゃよかったのに……あぁ、落ちこぼれじゃ無理か……だいたいお前なんかに好かれる理由なんてねえよ……僕は……もう放っといてくれ」

そういうとヨロヨロと立ち上がって、また来た道を戻り始めました。きらわれたセリエはもう悲しくて悲しくて……でも追いかける事もできずにその場に立ちすくんでいました。涙にゆらぐマオの姿がゆらゆらと遠ざかっていき、やがて陽炎にとけ込んで見えなくなりました。

セリエはまた、ひとりぼっちになってしまいました。

 

 暗くて、長くて、何回も折り返す階段を一歩、一歩、ともすれば時間の感覚がなくなるくらいのぼっていくと、やがて上の方にかすかに明るい空が見えて来ます。手を伸ばして、あの空に届くまで、やせっぽちの身体も、汚された想いも、みんなここに置いていこう。この闇、この虚構の世界は、僕の本来いる場所じゃないんだ。そうだろ?誰も僕を責めたりなんかできるもんか。母さんや、じいちゃんや……やさしい人はみんな旅立ってってしまった。僕だって、こんな所で生きていたくない……でも、僕にはお迎えがこないんだ。だから、こうやって頑張ってるんだ。すごいよね、見ててくれてるよね……今日は、きっと大丈夫だから……ああ、もう空がこんなに大きくなって来た……もうすぐ……もうすぐだからね……

 マオの上には、さえぎる物なく大きな空が広がっています。地上ではビルにせき止められていた小さな風も、ここでは大きなかたまりとなって空いっぱいに吹き渡っています。遠くの山々や田畑の緑とくらべて、人の暮らす街並みはくすんだ鼠色で、そこからはあらゆる高慢、嫉妬が絶えず吐き出されいるかのようにうす汚れて見えます。そんなくすんだ街並みの色彩の上を流れていく雲の影、そこから上はどこまでも透明な、どこまでも高い汚れなき蒼の世界。マオは大きく息を吸い込むと、その境界線に向かって歩き始めました。


「おや?どうしたの?おにいちゃんは?」

公園で立ったまま泣いてるセリエにの耳に、聞き覚えのある声が届きました。セリエが顔を上げると、さっきの警部が心配そうに顔をのぞきこんでいます。

「はぐれちゃったの?しょうがないなあ……とりあえず、交番までおいで」

セリエは無言でうなづくと、警部のあとをついていきました。セリエは気がつかなかったのですが、交番までの道中、警部はしきりに無線でどこかと連絡をとっていました。

「河森だ、何か判ったか?」

「あ、警部、少年の方は姫野真桜、13歳、中学1年ですが登校拒否中。父親は姫野護、人文学者、44歳、現在イギリスに長期出張中。母親は姫野茜、10年前に死去してます」

「そいつの調べはもういい、もう一人の子供のほうは?」

警部はちらっとセリエの方を見ると、小さな声で返答しました。

「戸籍に該当者なし、飲食店の食器からの指紋にも一致ありません」

「了解した」

警部はふっと息をはくと、セリエの方を見て、

「おじょうちゃん、ほら、あそこが交番だよ。お巡りさんがきっと見つけてあげるから、あそこで待ってようね」

と指さして誘いました。けれどセリエは道の向こうの高いビル……マオと初めて会ったあのビルの屋上をじっと見つめています。怪訝そうな顔の警部が近づいていったその時、

「おにいちゃん……ダメ……ダメだよッ!」

急に血相を変えたセリエは、青空を映し込んだ高いビルの方へ走り出しました。横断歩道!そんなの今のセリエにはぜんぜん関係ないもの!おかげで交差点は怒号とクラクションの嵐です。

「あのバカ!くそっ……あーあー、事件発生!一時的にここの交通を規制します。警官の指示に従ってください!」

警部はその場を取り繕うと、セリエを追ってビルの中に向かいました。ぜいぜいした息でロビーに飛び込んだ制服の警官にくつろいでいた人たちは色めき立ちましたが、警部さんはおかまいなくエレベーターに向かいました。上りのボタンを連打している警部に向かって掃除のおばさんが、

「あのねぇ、今の時間は定期点検中なんだよ。ほら、最近物騒じゃないのさ。あ、ボタンは1回押せばいいからね。それから……」

「ほかに上に昇る方法はないですか?」

おしゃべりを止められたおばさんは素っ気ない態度で、入り口横のカウンターを指さしました。

「あっちで聞いて」

警部はいそいでインフォメーションカウンターに向かいました。

「警察の方?なにか事件なんですか?」

「人を捜してる、4歳くらいの女の子だ……左右に髪を結んでる。ここへきたはずだが」

係のお姉さんは、慌てている警部さんとは対照的なおっとりとした物腰でにこやかに答えました。

「ああ、あの子ですね。何だかすごく慌ててて……」

「どっちへ行った?」

「あちらの階段をご案内しましたが……」

「了解、感謝する!」

警部は敬礼をすると、フロアの奥に向かいました。お手洗いの突き当たり、鉄の防火扉の横の小さなドアをくぐると、うす暗い全面コンクリートの空間があらわれました。天井が見えないくらい高くて見えない天井へ向けて非常階段が伸びています。耳を澄ますと、かすかに上の方でパタパタという足音が聞こえて来ます。警部はニヤッと笑うと、指で襟元のネクタイをゆるめました。そして、

「チビと競争かよ、年寄りには辛いな」

そう言うと、猛然と階段を上り始めました。60階……気の遠くなりそうな高さです。

「おにーちゃーん!」

セリエの悲痛な叫び声が高く、暗い回廊に響きます。

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