42.新しい絆
巌のような塊が頬骨を砕かんばかりにめり込み、その眼球の飛び出しそうな衝撃は一瞬視界をモノクロームにしてしまいます。何とか踏みとどまって視野に色彩が戻ってきたときはもう次の打撃がこめかみを穿ち、マオは目の横にに生暖かいものの流れを感じながら、それでも何とか倒れずに必死に宮武の目線を追い続けました。初めこそその予想外の攻勢にたじろいた宮武でしたが、その感情にまかせた拳が彼に届くことはなく、逆にマオは数えきれない程の打撃を身体中に受けてしまっていました。
「はっはは!驚いたよ、お前がこんな風に打ってくるなんて思わなかったぜ。さあ、チビの前で格好良いとこでも見せてみろ!もっともそれで目が覚めるかどうかは知らねーがな!」
「貴様……あれが……あれが何だか分かってんのか……あれがないとあいつは……セリエは……げほッ」
切れた口内に溢れた血が気管に流れ込んで、マオは大きくむせ返りました。その様を不敵に笑いながら見ていた宮武は、マオの髪をわし掴みにすると自分の方へと引き寄せ、憎悪にゆがんだ顔で睨み付けました。
「ああ、あれがなきゃバケモノも出てこないだろうしな。もう俺の晒した醜態が消えることはないが、お前みたいな変態に負けたという汚名だけは返上させてもらうぜ」
「くそっ……セリエを……セリエを元に戻しやがれ……」
「ふん、何寝ぼけてんだ?それはお前の役目だろうが!」
宮武はそう言うとマオの顎に強烈な一撃を突き上げました。一瞬まるでゴムの様に延びたマオの身体は、くしゃくしゃの布切れのように不規則に折れ曲がって地面へと落ちていきます。うつ伏せに倒れ、小刻みに震えているマオ……その頭を宮武は靴の底で思いっきり踏みつけて、地面にめり込ませるかのように体重をかけました。流れ出た血が土を赤黒く染めてゆき、それを見た宮武は急に大声を上げてその頭を蹴り飛ばしました。
「人間みたいに赤い血なんか流してんじゃねえよ!このバケモノ使いがぁ!」
ごろごろと2,3度転がって、ボロ布のようにセリエの隣へと投げ出された身体、正気を失いかけたマオの朦朧と開いた瞳孔は、目の前に同じように横たわるセリエの姿をとらえていました。何かを告げようとしたのか軽くひらいた口元、光なく見開かれた瞳にマオの姿が映ることはなく、その屍のように瞬きひとつ、息ひとつしないセリエにはもはや命というものは全く感じられません。もうあの鈴のような可憐な声を聞くことも、心までほころぶような笑顔を見ることも出来ないのか……マオの脳裏に去来するセリエとの日々……彼女が来てから本当にいろんな事があって、何度も諦めそうになった俺の心におおきな翼ををくれた、泣き虫で変で、可愛いチビ……それが今、目の前から消えていこうとしているのに!マオは悔しさと絶望感で泣きながら拳を地面に打ちつけました。
「畜生……こんな……こんな悔しいのは初めてだ……見てよ……こんなに涙が出てくるんだぜ……何やってんだよ……セリエが……セリエがいなくなってしまうっていうのに……俺は……俺はああああああァッ!」
どんなに叫んでも変わることのない現実、マオは何度も地面を叩いてはその行き場のない憤りを噴き出させていました。こんな……こんな大事な時に何も出来ない自分、ダメダメ、生きている意味なんてない……こんな事ならあの時いっそ……取り戻しかけた自分への自信を握りつぶすかのように立ちはだかる宮武は、そんなマオの襟首を掴んで無理矢理その場に立たせました。
「……地獄へ行きな、この変態野郎」
宮武はマオの身体をぽんと突き飛ばして、まだ足下のおぼつかない様子でようやく立っているその腫れ上がった顔面に猛然と襲いかかります。鉄板をも打ち抜くような彼の拳が起こす空を切る音が聞こえてももはや避ける事すら出来ないマオ、その意識は今やぼろぼろに崩壊して、暗い夜空へと拡散していきました。
「だ……めだ……もう……」
――終わらせるのか?――
「……え……だけど……もう……もういいんだ……眠らせて……くれ……」
――まおにーちゃん!まけちゃだめだ!セリエも……セリエもまだがんばってるんだから!――
「……セリエ?……セリエの声が聞こえる……どこから?……」
――我には見える、貴殿に架せられたその運命が……しかしここで終わらせるのも、輝かせるのも貴殿が決める事だ――
「終わらせる?誰が……誰がそんな事望むものか!……」
――セリエ、ずっと……ずっとまおにーちゃんといっしょにいたいの!だから……だから!――
「セリエ……そうか……そうだったな……俺たち、今までずっと……」
――終わりを拒むのならば、撃て!――
「……撃つ……」
――いけーっ!まおにーちゃん!――
「……撃つ!」
「おおぅううぐあああぁぁぁぁ!」
深く抉りこまれた小さな拳、歯はおろか顎までも砕かんばかりのその一撃は、完全に虚をつかれた宮武の顔面を陥没させ、変形した鼻と口からは大量に血液が噴き出しました。地面でのたうち、痛みに転げまわる宮武、その様子を呆然と見ていたマオはふと正気に返って、いつのまにかまっすぐに突き出された自分の拳を凝視しました。何だ……何で俺はこんな事を……宮武?あんなに血を流して……俺が……俺がやったのか?……マオは宮武の歯によって何本もの断裂が刻みこまれた自分の拳を凝視しました。その手にまとわりつく緑色の光の揺らめき……記憶の奥底からよみがえってくるその涼やかな輝きにマオははっと気がつくと、慌てたように左右を見回しながら声を上げました。
「おい!お前なのか?どこだ?どこにいる!」
――貴殿が天使の血筋とは思わなかった、それならばセリエ天小使と同じく、我が力をその身に纏う資格がある――
直接頭の中へと語りかけてくる声、マオはどこにいるとも知れぬその声の主に向かって叫びました。
「力?……そんなことよりお前!早くセリエに、セリエに戻ってやってくれ!」
――「あれ」の替わりが見つからない……我を封じ込めておけるだけの強力な結界石が――
「な……何だって?……」
――まだ猶予はある、それより彼の男に制裁を……我が主に対するかくの如き行為、万死に値する――
その者の力が満ちてきているのでしょうか?マオの胸は爆発しそうなくらい激しく鼓動を打ちならし、駆け巡る流れは指先に火が灯るくらいの熱さで疲弊した身体を解してゆきます。顎を押さえながら今の一撃が信じられないといった顔でよろよろと立ち上がった宮武は、腫れ上がった顔で近づいてくるマオの姿を認めて身体中に戦慄が走るのを覚えました。な……何だこいつ……あんだけ打たれてまだ立てるのか?あんな……あんな貧弱な男がッ!涙と血と埃にまみれて、ゆらゆらと定まらない足取りで一歩一歩自分との距離を縮めてくる……その不気味な圧迫感は宮武に今まで感じたことのない、得体の知れない恐れを感じさせるのでした。
「……てめえ……絶対ゆるさねえ……」
「く……来るな……こいつ……う……うおおおお!」
宮武の容赦のない連打がマオの顔をサンドバッグのように打ちのめします。けれどマオは倒れもせず、目の奥に不気味な光を宿しながらさらに迫ります。あまりの恐怖で冷静さを失った宮武の大振りの一打が空を切った次の瞬間、その口には研ぎ澄まされた、ずしりと重い拳が突き刺さっていました。
「ぐ……ぐが……ぐがあああ!」
「いや、ちょっと前に下校しましたが」
「え?じゃあ、どこかですれ違ったのかしら……」
中学校の職員室を訪ねてきた高橋先生は、西園寺の言葉に当惑しました。マオの消息を聞いて焦りを隠せないその表情は何やら不穏な空気を感じさせて、西園寺は心配そうに薄闇に覆われた窓の外をみているその背中に問いかけました。
「あの……姫野がどうかしましたか?」
「いえ、お預かりしている妹さんのお迎えになかなか来られないもので、もしかしたらと様子を見に来たのですが……」
「まだ来ない?あいつはもう15分くらい前にそちらに向かったはずなのに」
「おかしいわね……」
突然のことでまだ良く事態を掴みきれない西園寺でしたが、下校の遅くなったサツキを自宅まで送っていこうと思っていたこともあって、どうせ世話を焼くのなら一人も二人も同じとばかりに手早く机の上を片付けると、早足で自分の靴を持って生徒用の玄関へと向かいました。そこで待っていたサツキは何だかあわてた様子で階段を下りてくる西園寺を変なやつと思いながら、からかい気味に声をかけました。
「せんせっ、そんなに私と帰るのが嬉しいんですか〜」
「馬鹿か、それより姫野のやつが行方不明らしいんだ。お前知らんか?」
「真桜が?」
「まだ小学校に来てないらしい……ったく、何処で遊んでんだか」
サツキは妙な胸騒ぎを感じました。あんなに焦って部室を飛び出していった真桜、もしかして、途中で事故なんかに巻き込まれてるんじゃ……そう思うと居ても立ってもいられなくて、サツキは中学校の外へと駆け出していきました。緩い速度ですれ違う車の群れ、小学校との間を隔てる片側一車線の幹線は時間が過ぎたからなのかさして滞留することなく流れていて、サツキはその何事もない平時の風景に胸をなでおろしました。
「はあ……さすがにそんな無茶はしないか……」
「すまん湖川、送るのがちと遅くなりそうだ。とりあえず俺は小学校に行ってみる」
「私も行きます!」
「すまん、そうしてくれればこっちも安心だ」
歩行者用の信号が青に変わるのを待って、二人は競うように小学校の校門をくぐりました。雨こそ降ってはいないけれど、あの夏祭りの夜に酷似した校舎の陰影を刻んだ佇まいにサツキは胸が締め付けられるような嫌悪を覚えましたが、今日は先生と一緒だし、何よりマオのことが心配な今のサツキにはそんな事なんかどうでも良い事なのでした。校舎に人影がないのを見て取った二人は校庭に向かって、そこで暗がりに灯る水銀灯を一つずつ目で追っていましたが、不意に耳に飛び込んで来た聞き覚えのある高い声に、思わずその方向を注視しました。
「そこだーっ!やっちゃえー!あー!うん、だいじょぶ!」
「セリエちゃん?」
見ればブランコの側の明かりのもとでぴょんぴょん飛び跳ねている髪を結んだ女の子と、その向こうでなにやら絡み合っている二つの身体が青白く浮かび上がっていました。仰々しく拳を振るうシルエット、その大柄な体躯は閃光の中で襲いかかってきたあの姿とだぶって見えて、サツキは思わず声を上げてしまいました。
「み……宮武君!」
驚いて後ずさりしたサツキの足元にひっかかる黒い塊……これは?荒らされたように蓋が開かれた鞄、そこらじゅうに散乱している書籍の中に今日部室で見せてもらった散開星雲の掲載された雑誌を見かけたサツキはびっくりしてその鞄の持ち主の名を呼びました。
「真桜!どうして……宮武君!真桜に酷いことするのはやめて!」
今にも掴みかからんばかりに宮武へと駆け出そうとしたサツキの肩を、西園寺はぐっと押さえ込みました。サツキは火がついたように彼の手首を握って暴れます。
「離して!真桜が……私みたいな思いはもう……もうたくさんよ!」
「落ち着け!……見ろ、姫野の方が優勢だ」
「え?まさか……」
サツキは弾む息を飲み込みながら対峙している二人の姿を凝視しました。明らかに体格の違う二人、でも前後に揺らぎ、今にも崩れそうな宮武に対して、小柄ながら隙のない構えの少年……確かに、マオには違いないけれど、その視線は今まで見たこともない光で宮武を圧倒していて、サツキはその姿に、今まで胸を締め続けて来た自分の心の闇を託すのでした。
「すごい……真桜……がんばって……私を……私を解き放って……」
宮武の体重に任せた打ち下ろしの一打がマオの耳元をかすめた時、伸びきったその身体はまるで弾丸に撃ち抜かれたように急激に捻れ、頭から地面へと叩きつけられました。
「真桜!?」
「やたぁ!まおにーちゃーん!」
地に倒れ、痙攣している宮武の姿を確かめてがっくりと膝をついたマオにセリエが飛びついていきます。それを見たサツキと西園寺もあわてて二人の元へと駆け寄りました。しゃがみこんで、肩で息をしているマオは正面でぺちゃくちゃ喋っている少女の存在に気がついて、汗と血でよく見えない自分の目をそっと拭いました。
「キャハハ!まおにーちゃん!やっぱりにーちゃんはつよいや!」
「ハハ……お前の……お前の王子様のおかげだよ……」
「そんなことないよ!だってマルルーはここにいるもん!」
「……?」
マオはそういえば何でセリエが目の前で元気に喋ってるのかを疑うのを忘れていました。息絶えてしまったかのように目の前に哀れな姿を晒していたセリエ、それを見た俺は頭の中が真っ白になって、何が何だかわかんなくなって……気がついたら宮武の顔面に凄いやつを食らわせていた……けどそれはあの緑色の……
「ホラッ!ここだよ、ちょっと狭いけどがまんしてもらってるんだ!」
セリエが目に前に突き出した左手、その中指にはめられたリングの刻印の間が透き通るような緑に光っているのを見て、マオはすべてを理解しました。そうか、そこにいるんだ……ああよかった……これで、これでセリエと別れずにすむんだ……安堵が刺々しかった心をやんわりと包み込んで、マオはすっかり力が抜けてしまいました。と同時に宮武を弾き飛ばした自分の拳のことが信じられなくて、じっとその傷ついた手の甲を見つめるのでした。
「……まさか……じゃあ今のは……今のは俺の……?」」
「うれしいな!まおにーちゃん、セリエのことすきでいてくれたんだ!つよくなってくれたんだ!」
「好きって……あんなの見せられて平気なはずないだろ!」
「まおにーちゃん、やっとむかえにきてくれたね……セリエ、さみしかった……」
「あ……ああ、遅くなってごめんな」
ようやくゆっくりと立ち上がったマオの身体を、サツキがそっと支えます。こんなボロボロな……でもこんな男の子な真桜、はじめて見るなぁ……サツキは自分の目に狂いがないことを嬉しく思いながら、足を引きずるように歩くマオに肩を貸すのでした。
「ほら、つかまって」
「よせよ……格好悪いだろ……」
「……ありがと……真桜……」
経緯は良くわかんないけれど、今、目の前で、あの日よりずっと心を蝕んでいた宮武の幻影を跡形もなく消し去ってくれた真桜、サツキの心は今、マオへの想いではちきれんばかりに膨らんで、よろけて寄っかかってきたその身体を思わずぎゅっと抱きしめてしまいました。あ……どうしよう……私、私が止まらないよ!
「……痛て……いててっ!」
「あ……ご、ごめん真桜!痛かった?」
「お前ら、暗くなったからっていちゃいちゃしてんじゃねえ!こいつもいつ襲ってくるかわからんぞ!ハハハッ」
「な……何よ!」
せっかく甘味な世界に入りかけた所へ割り込んできた遠慮のない言葉に、サツキはかぁっと赤面してゆくのを感じながらその声のほうを振り向きました。そこには防犯の腕章とタスキをかけた河森と携帯電話を手にした高橋先生が何とも含みのありそうな笑みを浮かべて立っていて、サツキは思わずマオを突き飛ばして知らん振りしたくなる衝動にかられましたが、脱力して思いっきり頼られている彼から手を離すわけにもいかなくて、しどろもどろに言い訳をはじめるしかありません。
「いやあの……ほら、ほんとに馬鹿よね男子って……アハ、アハハ……」
「ふふっ、やはり彼の証言のほうが正しかったらしいな、な、宮武君、今日はバケモノは出てこなかったのか?」
「……くそったれが」
サツキの下手くそなごまかしを乾いた笑顔で通り過ぎた河森は口から胃液を垂らした、未だに立てないでいる宮武のそばでそう言い捨てました。今や完全にマオにしてやられた彼には、河森の突きつけた常識を受け入れるしかないという重い鎖が幾重にも巻き付いていて、もはや一言も語ることは出来ません。その破壊されっぷりをしげしげと観察し終えた河森は、あらためてマオが内包している特別な力の存在をはっきりと確信するのでした。一方高橋先生は無事なセリエの姿を確認できてとても嬉しそう。
「セリエちゃん、よかったね!お兄ちゃん、ちゃんとお迎えにきてくれたんだ」
「ウン!それにね、わるいおにーちゃんもやっつけちゃったんだよ!」
「あの姫野君がねぇ……男の子って、知らないうちにどんどん大きくなっていくのね……」
見守るようなまなざしの向こうに映るマオとサツキの姿を見て微笑んでいる高橋先生に、西園寺がちょっとばつが悪そうに尋ねました。
「あの……警察……呼んじゃったんですか?」
「え?ああ、今日は地域パトロールを一緒にやってくれてたの、別に通報したわけじゃないのよ」
「はあ……それならよかった……」
西園寺は赴任してからというもの、ただでさえ繰り返される生徒の警察沙汰に振り回されて、これに又今回の事を立件させられたら正直擁護できる自信がなかったのでほっと胸を撫で下ろしました。そんな西園寺に河森が思い出したようにおおきな声で尋ねます。
「忘れてた!先生!」
「うっうわなななんですかっ!」
「以前、先生と姫野君で朝方写真を撮っていましたよね」
「え……ええ……それが何か?……」
せっかく犯罪の呪縛から逃れたと思っていたところに突っ込まれた河森の言葉に、西園寺は嫌な予感を感じました。こいつ……まだ俺たちを脳内被疑者扱いにしてるのか……余計なことは話すまいと警戒を強めてゆく西園寺、でもマオはそんな事など気にもとめず、サツキの手をそっとどけると河森の前に歩み出て、その言葉に食いつくように口を開きました。
「あ……あのフィルム……俺、まだ見てないんです……確認させてくれませんか?」
河森は焦りの色を表している西園寺の方を一瞥すると、マオの目の奥に滾る情熱の揺らぎにニヤッと笑いました。
「それなんだが、その時の君たちのフィルム、特に姫野君の撮影した方に不可解なものが多数映りこんでいるのが解ってね、それについて意見を聞こうと思ってたんだ」
「不可解なものって……まさか!?」




