41.happyのつくりかた
校舎のあちこちで手描きのポスターやスローガンを見かけるようになった涼やかな風の日、マオはセリエを迎えにゆく前に少し時間をとって、久しぶりに活動中の天文部の部室へと向かいました。途中の教室からは何度も同じ所を繰り返す演劇や室内楽の練習の音が競うように聞こえて来て、マオは心なしか浮き立つ思いをこそばゆく感じていました。そうだよ、学校って、こんなんだったっけ……授業中はそうは感じなかったけれど、思い思いに自分を磨いている放課後の生徒達を目にするにつれ、マオにはいつしか彼らのように何かに打ち込めたら……仲間と共に目標に向かって進んでいけたら……そんな望みが心に芽生えていたのです。化学実験室のとなり、いろんな薬品や機材でいつもは入れない準備室の扉からちらと中をのぞいたマオは、中で何かを囲んでぐだぐだとたむろしている部員達の様子に変な安心感を感じながら、それでもどこか気が引けるのか、なるべく音を立てないように慎重に扉を開けました。
「……あ、開かない」
「おい、あいつ、姫野じゃないか?」
「ああ、何か久しぶりに見るな」
無理矢理開けようとしてギシギシと軋んだ音に気がついて、中の部員達が一斉に扉の方に顔を上げました。その好奇のまなざしにマオはちょっと萎縮しかけましたが、真ん中に座っていた部長の腕をまわすようなゼスチャーに気がつくと、相づちをうって実験室の方へまわりました。
「そっか、先生来るまではこっちは開かないんだ」
そんな些細な事を思い出すたび、取り戻してゆくここにいた自分。マオは初めに感じていた疎外感が徐々に薄れてゆくのを感じることで自信を取り戻しかけてはいましたが、それでもまだ緊張気味に彼らのいる準備室へと通じる部屋の扉を開けました。
「こ……こんちは」
「おぅ!姫野か。見てみろ。お前の撮った奴が金賞だぜ」
「お……俺の?」
マオは部長の声に誘われて、遠慮がちに車座になって座っている部員達の間から顔を出しました。開かれた中とじの雑誌、天文誌か何かでしょうか?そのページ一面を鮮やかに彩る散開星雲の煌めく光芒……マオはファインダーから見た瞬くM8の美しさを思い出してハッとしました。これは、あの夜の……?
「まだ明るい夜空にもかかわらずこれだけの色彩を描き出せる事に驚き。卓越した技量が伺える作品だ……だってよ、お前もしかして、ほんとうは凄い奴?」
「いや……そんな……それにしても、大きくプリントされると感じが変わりますね」
「掲載料5000円か……あ、部長!これ、自分の名前で出してるじゃん!」
「あー、ネコババする気だろー?」
「おい姫野、心配するな、俺が部長から奪い取ってやっから」
「え……はぁ……」
サツキの変な気回しや宮武のプレッシャーにまだ気疲れする授業中とは違って、もともと嫌いではなかった部活の、以前と全く変わりない雰囲気にマオの心はしっとりと落ち着いたもので満たされてゆきました。ただ来るときに見て来た他の部の研鑽を積んでいる姿に比べて、あまりに動きのないここの活動がちょっと不満で、マオは部長に問いただしました。
「あの……学園祭、何かやるんですか?」
「んー、それなんだけど、まだ何も決まってないんだ」
「またやる?プラネタリウム」
「あの段ボールのドーム?かまくらと間違われたじゃん、去年さ」
「そんならいっそお茶サービスしようぜ?茶道部呼んでさ」
「じょ……女子呼ぶんですか〜!」
「しかも着物だぞ」
「おおおー!もうその娘達だけでイイって感じ」
「おい、乗っ取られてどうするよ!……あ、こんちわーす」
こっそり現れて、意見交換とも思えない雑談を密かに後ろで聞いていた西園寺に気がついて部長がわざとらしく挨拶をします。それを見た部員達は何とも気まずそうに笑うと、軽く頭を下げてわさわさと散っていきました。
「……ったくこいつらは……おい、学祭でなにやるか決まったのか?いい加減準備しないと今年もスカるぞ」
「あー、そーなんですけどねー……」
西園寺の飛ばす檄に対しての、そのゆるい部員達の反応にマオは少なからず失望しました。ああ何か、よそと気概が違う……西園寺はそんなマオの不満の表情を見て取ると、手に持ったバインダーを開いて皆を呼びました。
「すまんがちょっと聞いててくれ……今回の学園祭から当部は「写真部」として活動することになった。今後当部は天体撮影もだが、それ以外にも学校の行事の撮影やいろいろなイベント、コンテストに参加してもらう事になるだろう。これは「記録」という大切な役割を果たす事により社会貢献の喜びを分かち合うとともに、切磋琢磨によってスキルの向上を成し遂げるという達成感を経験して欲しいという私の趣旨によるものだが、賛同しかねるものは退部してもらって構わない」
「写真部……」
マオは信じられない思いがしました。なぜって、マオ自身写真趣味というものは極めて偏執したものであって、仮にそれを口にしようものなら「変態」というありがたい称号で呼ばれるものだと思っていたから……今までだってそうだった……それが学校公認の部活動としてここに名を列ねることになるなど、マオにとっては夢のような出来事なのでした。
「そ、それじゃ……」
「写真ったって、俺、カメラなんかもってねえよ」
「あ……あの!モデル撮影とかあるんすか?」
「隠しカメラは俺に任せろ」
ああ……こんなんだから写真趣味は……期待が膨らみかけたマオでしたが、それをを殺ぐような部員たちの後ろ向きな言動に再び失望してしまいました。やっぱり、コイツらの認識はその程度なのか……たく、そんな活動ならしない方がマシじゃねぇか?思わずそう口に出して反論しそうになったとき、マオは部室に訪ねてきた一人の少女に気がつきました。
「あの、写真部はこちらでしょうか?」
「ん?……ああ、湖川か、入部希望だったな。この願書に名前を書いてくれ」
「はい!」
……サツキ!?……
部員達は色めきました。もともとどちらかといえば野郎趣味系ということもあって、当然今まで一度たりとも、見学さえもなかったこの部に初めて訪れた女子の部員に、急に態度を爽やか系にしてゆく先輩たちの様がマオは可笑しくて、でもそれよりもやっと解放されたと思っていた所に押し掛けて来た彼女の行動力に、マオは思わず失笑するのでした。
「サツキの奴……マジかよ」
「写真部創設に当たり入部希望者を募ったところ、この湖川より希望があった。なんでも結婚式の写真を撮る仕事をするのが夢だそうだ。初めての女子部員だけど、異存はないな?部長」
「え?あ、ああ、オッケーっす」
「じゃあ決まりだ、先輩方、いろいろ教えてやってくれよな」
「湖川皐月といいます!夢はカメラマンになってきれいな花嫁さんを撮ってあげる事です!先輩方、ご指導よろしくおねがいします!」
「あ……こちらこそ……」
「ほえ〜」
「い……意外と男まさりなのかな……」
何とも歯切れの悪い先輩達、でもマオはいたって平然と応えます。
「歓迎するけど、いちいち手取り足取りなんてしないから。覚えたきゃ勝手に盗んで」
「はい!」
サツキは満面の笑みを浮かべて答えます。その様を色ボケした部員達は目を丸くして見守るのでした。
「何かあいつ、雰囲気変わったよな……」
日没前の空を焦がすような夕焼けが、小学校の校庭を走り回る子供達に帰宅の時間を告げています。秋分も過ぎてめっきり日暮れの早くなった街を包む橙色の光、校舎に反射するその燃えるような色彩は、やがて訪れる闇の世界を歓迎する篝火のように揺らめき、子供達は忍び寄るその気配から逃れるように次々と手を振って家路を急ぎます。そんな落日の校庭のブランコで、セリエはひとりマオの帰りを待っていました。
「まーだかな〜。にーちゃんまーだかな〜」
朱に染まった空を見上げながら、セリエはかるく地面を蹴ってブランコを揺らしました。繰り返す細い金属音が静かな空に吸い込まれて、その寂しげな音はセリエの孤独感を煽ってゆきます。だんだん光を失ってくる西の空、セリエは遠くをゆく鳥の群れを目で追いながらつぶやきました。
「とりさんもおうちにかえるのね……セリエも……はやくかえりたいな……」
「あれ?まだお迎えにこないの?」
先生が心配してセリエのもとを訪れます。セリエはこくんと頷くと、また小さくブランコをこぎ始めました。暗くなり始めるとあっという間のこの時期、いつまでもこんなところで待ってると危ないと思った先生は、セリエを中学校のマオのところへ連れて行こうと声をかけました。
「セリエちゃん、いっしょにおにーちゃん、むかえにいこうか?」
「うん……でも、まだだいじょぶ。じゃましちゃいけないもん……」
「じゃま?」
「な……なんでもないんだ……ゆうやけ、もうちょっとみていたいの」
先生はセリエの真意がよくわからなくて、でも自分もいつまでも学校に残っているわけにも行かなくて、とりあえず周囲を見回すとセリエに向かって言いました
「じゃあ先生が呼んで来るから待ってて、知らない人についてっちゃだめよ。すぐ帰って来るからね」
「うん、セリエ、ここでまってる」
先生は一抹の不安を抱きつつも、小走りで向かいの中学校の方へと向かいました。見送る瞳からその姿が薄暮へととけ込んで見えなくなって、セリエはぐるりと薄暗くなった校庭を見回しました。もう誰も遊んでいない鉄棒、ブランコの側にある街灯に灯がともり、青白い光がその形状を地面へと描きはじめた時、セリエは自分の影のとなりに近づいてくるもうひとつの長い影に気がついて顔を上げました。
「まおにーちゃん?」
次の瞬間、セリエは不意に首に下げたペンダントの紐を引っ張られて後ろに仰け反ってしまいました。仰ぎ見る薄暮の空、身動きの出来ないセリエは思わず声を上げました。
「あいたっ!もう!とっちゃだめだよぉ!」
セリエは昼間に友達からふざけてひっぱられた時と同じように、輝く球を両手でしっかりと押さえこみました。またあのときのこがイジワルしてるんだ!そう思ったセリエでしたが、その強さはは子供の力では押さえきれないくらいのもので、ペンダントを下げていた紐は引きちぎられ、そのまま光る球ごと奪い取られてしまいました。
「あーん!かえしてよーっ!」
びっくりして振り向いたセリエの目にその球を振り上げて、何度も支柱のコンクリに叩き付けている男の姿が映りました。鬼気迫るその姿にセリエは怖くなってしまって、でも何とか奪い返そうとブランコから立ち上がってその男に組み付こうとしました。
「おねがい!やめて!やめ……」
小さい手でその男の腕を握って押さえようとした時、セリエは目の前で砕け散る無数に煌めく水晶の輝きを見て息が止まってしまいました。え……まさか……マルルーが?……粉々になってしまったペンダントの輝く球、そこに宿っていた命の火を失ったセリエは気が遠くなったかのように力を失って、崩れるようにその場に倒れ込みました。
「マルルー……まおにーちゃん……」
「……やっぱり、思った通りだな」
起き上がろうと地面に突いた腕も萎え、とうとう動かなくなってしまったセリエの傍らで、その男は先端を失ったペンダントの紐をぶんぶん振り回しながら、中学の校門の方を見据えてほくそ笑むのでした。
「ドレスを着せて、だって?」
下にも置かない扱いでサツキの話に耳を傾けている礼儀正しい写真部員は、彼女の提案に驚きの色を隠せない風で聞き返しました。
「うん、私の母がブライダルの貸衣装やっててね、予定がなければ何着か貸してもらえると思うんだ」
「ウエディングドレスで写真撮影か、こりゃ女の子にはたまらんな」
「き……着替えとかどうする?俺らがやる?」
「バカ!んな事できるわけないだろ!」
「基本的にかぶるだけのしか持ってこないよ。そういうのって野暮ったいからあんまり借り手がないし」
「ポートレートか、野外で自然光でやるほうが……って、何だよ!もう真っ暗じゃないか!」
サツキの参入で何時になく活発な意見の飛び交う新生写真部のミーティングは思いのほか長引いて、すでに夕闇の迫る窓の外の風景に気がついたマオはびっくりして席を立ちました。
「ごめん、チビ迎えに行かないと……続きはまた明日、じゃ、お先します!」
マオは慌てて鞄を取って部屋を飛び出しました。まずいな、つい話し込んじまって……セリエ、怒ってるだろうな……靴を履くのももどかしく中学校の門を飛び出したマオは、横断歩道を横切ろうとした所でやって来た車に猛烈なクラクションを浴びました。ちっ、こんな時に限って赤信号だ……帰宅の車でごった返している小学校との間の道はなかなか渡るのもむずかしくて、マオは歩行者用信号のボタンを連打しながら焦る気持ちをなんとか押さえ込んでいました。
「くっそー、早く変われってんだ!」
程なくして信号が切り替わり、ようやく横断歩道を渡りおえたマオは一目散で小学校の校舎へと向かいました。しかし窓の明りは全て消えていて、部屋の中に人の気配は全くないようです。焦って左右を見回すマオの視界の端に閃く金属質の光……それがこちらへ向けて投げられた物だと気付いたマオは咄嗟に身を翻しました。シャツの胸に当って地面へと落ちたそれはどこかで見覚えのあるストライプの紐……何かを固定していたと思われるひしゃげた金具が、校庭の水銀灯の光に鈍く光っています。マオはそのちぎれた紐を拾うと飛んで来た方をキッと見据えました。
「遅かったじゃねェか……あまりに来ないんでお前んとこの嬢ちゃん、寝てしまったぞ」
「宮武……?」
マオは10メートル程離れた所に立つ男の足下に何かが蹲っているのを見つけて、ゆっくりと彼の立つブランコの方へと歩き始めました。一歩、一歩近づくにつれ、マオは戦慄で冷や汗が噴き出してくるのを感じました。溢れ出る唾を飲み込んで凝視したそれは、横たわり身動きひとつしない虚ろな目のセリエの姿……マオは手にした紐の金具にこびり着いている砕けた水晶の欠片を見て頭の中が真っ白になってしまいました。セリエ?……そんな……あいつが……あいつがいない……目の奥が熱く滾って、怒りと悲しみのこもった涙は容赦なくマオの瞳を曇らせていきます。
「……お前……一体何をした……」
「ふん、こいつのおかげで臭いメシ食わされたしな。ちとお礼しとかないと俺のメンツが立たねェんだよ」
「な……なんて事をッ!」
感情が爆発したマオは、両の拳をぎりりと固めて宮武の懐に飛び込みました。