40.フレンズ
「まおにーちゃん!サツキねーちゃん、きたよっ」
「ちぇっ、早すぎだって!」
屋上から外を見下ろしていたセリエが急いで階段を下りて来て、タンスをひっくり返してようやく制服を探しだしたマオへ知らせます。長らく着ていなかったズボンはヨレヨレで折り目も消えかかっていて、マオは片付けるときにちゃんと畳んどけば良かったと少し後悔しました。まさかな……もう二度と履く事なんか無いと思っていたのに……足を通す時のさわっとした感触はまだ入学したての頃をふと思い出させて、でもマオの足首はズボンの裾からすっかりと飛び出してしまっていました。
「何だ……短いな?」
「はやくはやくっ!えっと……ちこくちこくぅ!」
ヨレヨレで丈の足りないズボンのベルトをきゅっと絞めたマオは、忙しなく走り回るセリエの声にせかされるように玄関の扉を開けて庭へと出てきました。夏の急激に温度の上がる朝とは違ってあくまで澄んだひんやりとした空気、それを抜けてくる朝日はいくぶん長い影を地表へと描き出します。マオはそろそろ花びらを落しはじめた花壇の様をちょっと寂し気に横目で見ながら、表で待つサツキのもとへと歩いていきました。
「真桜、おはよっ!」
「あ?……ああ」
「あれ?真桜、ズボン短くない?」
「うるせーな」
相変わらず朝から耳にキンキンくるサツキの声に鬱陶しそうに答えながら、マオはそそくさと彼女の目の前を横切って先に歩き出しました。ニッと笑いながらその後をついてゆくサツキ、マオはその気配を内心満更でもなく感じながらも、何食わぬ顔で隣でにまにましているセリエに向かって言いました。
「セリエ、行くぞ」
「はーいっ!」
セリエはぱたぱたと走って行ってサツキの手をとると、そのまま彼女をぐいぐいとマオの所まで引っ張ってきました。そしてもう片方の手でマオの手をぎゅっと握ると、二人の間にぶら下がりながら言いました。
「ねえ、たかいたかいして!」
「へ?」
「いいよ!ほら真桜、1、2の、さーん!」
「たく……なんなんだよ」
両手をつないでもらったセリエが、2度、3度と高く舞いあがります。そのどこからみても普通の女の子にしか見えないはしゃぎように、マオは少し安堵するのでした。
「ねえ真桜、私達が学校行ってる間、セリエちゃんはどうするの?」
「ああ、隣の小学校にある外国人のクラスで面倒見てもらえることになったよ」
「へえ……でも、大丈夫かな、一人で」
「あんな事の後だし、家においとく訳にもいかねぇよ……それにあの様子ならよそのチビともすぐに馴染むだろ」
「まあ、人目があった方がいいか……っとと、濡れててすべるね、この階段」
大通りを避けて斜面にはりつくような狭い林の中の道を降りてゆきながら、サツキはこんな裏道を通るマオの行動が彼のさりげない思いやりに感じてられてしまって何だか落ち着きません。私って自意識過剰?でも、こっちの道をわざわざ通るってことは、ひょっとして私に気を使ってくれてる?なーんて、単に二人でいるのを人に見られるのが嫌なだけかな……たくさんの想像が頭の中をくるくる回って、つい無言になってしまったサツキとマオとの間を埋めるようにセリエが話しかけます。
「ねえ、ほんとにせんせい、こわくない?ひがらな、おしえてくれる?」
「はは、ちゃんと言う事聞いてればやさしいよ。ひらがなだって、すぐ覚えられるさ」
「ウン!セリエ、いっぱいおぼえるよ!そしてね、みんなにおてがみ、たくさんかくんだ!」
「セリエちゃんなら、おともだちもすぐできるよ!同じくらいの年の子もおおぜいいるから」
「ホント?いこいこ!はやくいこーよ!」
「バカ待て、引っ張るな!転けちまうだろ」
セリエに引きずられるように林を抜けて、立ち並ぶ住宅地の外れまでやって来た3人は登校する子供達の賑やかな列に出会いました。楽し気に喋りながら歩いてゆく先に、陽に照らされて白く浮かび上がる青空を映す建物……先日の夏祭りの会場にもなったこの街の小学校の校舎はあの日の人に知られたくない出来事を思い起こさせて、サツキはちょっと中に入る気にはれないようです。
「あ!おまつりやさんだ!セリエ、すごーくいきたかったの!」
「ああ、今度は一緒に行こうな」
「ウン!」
「真桜……私、ここで待ってるね」
「?……ああ、じゃこいつ、ちょっと預けてくる」
マオはサツキの様子に彼女の心の傷の深さを感じました。そうか、あの夜の事を……さすがに恐かったんだ……二人が雨を凌いでいた張り出しのある校舎の角……さすがに今日は明るいからでしょうか、あの夜のような殺気は感じられないようです。マオはセリエの手を引いて懐かしい生徒入り口から校舎内に入って職員室へと向かいました。そして入り口のドアをノックすると彼女の担任の先生を呼びました。
「あの、4組の先生、いますか?」
「あら?姫野君じゃない?。でしょ?久しぶり〜、大きくなったわね」
「あ……あはは……先生だったの、こいつのクラスの……」
「ちゃんと中学行ってるみたいね、安心したわ」
「え……ま……まぁ……]
マオは思いがけない昔の担任の先生との再会に何とも照れくさくて、でも胸にトクトクとわいてくる温かなものに懐かしさにも似た安らぎを感じました。母親がいなくて、些細な事にすぐ立ち止まってしまっていた自分に何かと世話をやいてくれた先生……マオは、この人なら安心してセリエをまかせられる、そう思いました。
「この子ね、お名前は?」
「わたしセリエ!」
「まあ、元気なおへんじ!はじめまして。私が先生の高橋です。さ、おともだちに紹介してあげましょう」
「よ……よろしくお願いします。じゃあセリエ、夕方迎えに来るから、ちゃんと言う事聞くんだぞ」
「ウン!セリエ、ひがらないっぱいおぼえてくるね!」
先生に連れられて、セリエは奥の教室へと入っていきました。突然こんな所に一人で置いていかれて、泣き叫んで別れを拒むんじゃないかと心配していたマオは、なんともあっけなくついていってしまったセリエに一抹の寂しさを感じつつも、慌ただしく校舎を出て校門にあるハトの像の所まで戻ってきました。
「あれ?早いね、泣かなかった?セリエちゃん」
「ああ、何か悟ってやがるな、あのチビ」
「よかった……さってと、ほら!真桜!ボケっとしてると遅刻だよ!」
「バカ!引っ張るな!って何手なんかつないでんだよ!」
「やたっ」
「?」
教室に聞こえるくらい大きな声で騒ぎ立てながら、マオとサツキは校門を出てゆきます。その姿を、自己紹介も終わって窓際の席へと案内されたセリエは寂しげな眼差しで見送るのでした。
……うん、せっかくまおにーちゃんとサツキねーちゃんがスキスキになれたんだもん、セリエがいちゃじゃまだよね……だってセリエ、まおにーちゃんとは……
「ねえねえ、あれ、姫野君じゃない?」
「あっれー?学校出て来てるよ」
「へー、もう退学しちゃったかと思ってた。結構酷い事されてたからねぇ……」
もうずいぶんと久しぶりに2階の教室へと足を踏み入れたマオは、周囲から漏れ出て来るこそこそした囁きの間を無言で抜けて、机いっぱいに落書きの書き込まれた自分の席へと向かいました。不快な蔑語の羅列は以前よりも多くなったように見えて、マオはそれをニヤッとして見ると、椅子の上に目をやりました。
「ふん、さすがに画鋲は置いてないか」
真ん中より少し後ろよりの席からは教室の全体がよく見渡せて、マオは暫し懐かしいその風景に心を委ねます。以前の辛い出来事がそこかしこに浮かんで来るこの部屋で、マオはその光景がなんだか随分前の事のように感じられてちょっと不思議な思いがすると同時に、何も出来なかった当時の自分の存在を記憶から消し去ってしまいたい衝動にかられるのでした。
「……ねえ、姫野君さ、今までと雰囲気違わない?」
「うん……何かこう、怖いっていうか……」
「おはよ!あれ?姫野君って今日からだっけ?」
さりげなくマオの後から教室に入ったサツキは目立たないように姿勢を低くして、顔を寄せ合ってひそひそ話に興じている仲良し3人組に何食わぬ顔をして割ってはいりました。一応本人はマオとの関係を隠してるつもりなので、ほんとは心臓バクバクなんだけど何とか悟られないように話題をあわせます。
「うん、宮武君も出て来てるよ」
「二人とも久しぶりだよね……なんで休んでたんだろ」
「?」
「あっれー?サツキ、知らないの?」
真桜、と思わず言いそうになるのを注意深く押さえながら、何も知らない振りをして聞いて来るサツキに3人はちょっと可笑しさを感じながらも、とりあえずいつもの調子で話を続けます。
「何か夏休みにヤバい事やらかしたみたいよ」
「ヤバいこと?」
「うん、それがね、どうも女の子に悪さしたらしいの」
「……姫野君が?」
「うん、始めはそう聞いたの、だけどね、本当は襲ったのは宮武君だったみたいで……その子を助けに来た姫野君に怪我させられた腹いせに適当な供述したんだって」
「じゃあ二人とも今までけーむしょに入ってたのかなぁ!ひゃあ、ワルだワルだ」
「怪我って……彼、そんなに強そうには見えないけどぉ?」
「うん……あ、先生きた!」
いつの間にか始業時間になっていた教室に入って来た西園寺は教室のドアを開けた所で立ち止まり、窓の外をそしらぬ振りをして見ているマオと宮武を見つけてニヤッとすると、いつもと変わらない風で教卓へと歩みよって朝礼の合図を促しました。
「ほぅ、二人とも出て来たか。これで久しぶりに全員の顔が揃ったわけだ、宮武、姫野、号令をかけろ」
「!」
「なんで俺がだよ」
「久しぶりに出て来たのに知らん振りもないだろ。少しはみんなに顔でも見せてみろ」
「るせーな」
「……起立」
嫌々ながらも、ぼそっと声を上げたのはマオの方でした。その斜に構えながらもひとり立ち上がるマオの姿に教室中の、とりわけ最前列に座らされている宮武の射るような視線が集中しましたが、マオはただ西園寺のにやけた顔に不適な笑いを返すだけです。生温く凍りついた空気の中、サツキがごろごろと椅子を引きずる音を立てながら立ち上がりました。マオ……すごいよ!全然負けてない……ほら!みんな!早く立ちなさいよ!サツキが周りを見回す中、教室の生徒達はばらばらと、こみ上げる違和感に顔を見合わせながら立ちあがりました。
「宮武、お前も立たんか」
「なんであいつの言う事聞かなきゃいけねーんだよ」
「ふん……なら好きにしろ、だがな、お前の態度次第だって事を忘れるな」
「ちっ……保護司のクソ野郎が……」
しぶしぶ立ち上がった宮武を後ろから確認したマオは、その不敵な表情のままぼそっと号令をかけるのでした。
「……礼……げほげほ」
「んー?よく聞こえないな……あぁ、声変わりか」
マオは最近のどの奥に蟠る粘液に遮られてむせてしまうことが多くて、てっきり風邪かなんかだと思い込んでいましたが、そう言われればなるほど西園寺の判断が当てはまるのかもしれないと思い、そのさりげない物腰に潜む観察力に少し信頼感を覚えました。へぇ……あの先生もそうだったのか?……ふん、なかなか上手い心理戦だぜ……
「ああみんな座ってくれ、見ての通り、今日から長期欠席していた姫野、それからちょっと臭いところに行っていた宮武が登校する。勉強や学園祭の準備とか解んない所も多いと思うから皆で教えてやってくれな。この時間は湖川、姫野の隣の席に行ってヘルプしてやれ。宮武は……近いから俺が教えてやる」
「いらねーよ」
「え?は……はい!……」
サツキは急にマオのそばに行くように言われて、ちょうど無防備だった心からは純粋な喜びが勢いよく全身へと行き渡ってしまいました。紅潮した頬はそれと解るくらい彼女の心情を表していて、意識して見ている例の3人組は笑いをこらえるのに必死なのでした。
「ね、ね、サツキさ、あれじゃもう見え見えって」
「意外と純情だからねあの子……さっきもわざとらしくて、もう、見てらんないって感じ」
「でもいいなぁ……彼氏といっしょに登校できるなんて……ぽっ」
マオはそそくさと隣に座って来たサツキを横目でちらと見ると、頭をがしがしと掻いて軽くため息をつきました。
「……またお守り付きかよ……」
「へへー真桜、解んないとこあったら聞いてね」
「あのな、あんまり引っ付くな、ハズいだろ」
その微笑ましい言い合いを肩越しに見ていた宮武の目には、以前とは比べ物にならないくらいに燃えたぎるマオに対する憎悪がありました。全ての真相を知っていて、しかも連れていたチビから現れた、あの緑の奴に受けた傷がいつの間にかマオの功績になってしまっている今の状況は宮武にとっては到底許す事の出来ない侮辱であり、その憤りがマオに徹底的な制裁を与えることを決心させるのでした。
「……あの野郎……ぶっ殺してやる」
「あ、まおにーちゃんだ!まーおーにーちゃーん!」
授業が終わるやいなや、教室から駆け出して道の向こうの小学校へと向かったマオは、校庭で遊んでいるセリエの姿をみてほっと胸をなでおろしました。大声で女の子の名前を呼ぶのが恥ずかしいのか、高く振るマオの手に気付いて駆け寄って来たセリエはその場にしゃがみこむと、指で地面に何か書き始めました。
「ね、みてみて!」
「セリエ、ごはんはちゃんと食べた?いじめられたりしなかった?」
「ウン!みんなすぐになかよくしてくれたよ!セリエ、こんなにおともだちができたの、はじめて」
セリエはそう言いながら一心不乱に何かを書き続けています。それが自分の名前であることがマオにはすぐにわかりましたが、セリエのニコニコしている表情を見ているとあえて大げさに驚いてやろうという気持ちになるのがおかしくて、マオはそんな変化をしてゆく自分にちょっと不思議な感情を抱くのでした。
「できたっ!ほら!なんてかいてあるかわかる?」
「えーと……まおにいちあん…だいす…き?……」
「わーい!よめたよめた!セリエ、おてがみかけるね!えへへ、うれしいな!」
マオはしゃがみ込んでセリエの顔に笑いかけました。その翠玉色の瞳はくりくりと嬉しそうに輝いて、マオの心にあったわざとらしく誉めようといった考えはその光の前にすっかり影を潜めてしまいました。
「セリエ……すごいな、お前はなんだって叶えてしまうんだ」
「だってね……へへへー、はずかしくていえないキモチ、つたえられるって、いいな」
「ふ……ませた事言いやがって」
マオはセリエの頭に手を置いて、そのつやつやとした髪を撫でてあげました。胸のペンダントに輝く緑の光はなおいっそうのまぶしさで二人を包み込んで、マオは彼女の存在の特別さをあらためて思いおこすのでした。
「お前が、ほんとに俺の従妹だったらな……」
「え?イトトってなあに?」
「はは、なんでもないさ。さあ、途中で何か旨いもん買って帰ろうぜ」
「ウン!セリエ、せんせいにさよならいってくるね!」
走ってゆくセリエを見つめながら、マオは彼女のこれからの事を案じました。天使の子……それも今の彼女はかりそめの命の火によってその姿を保っているにすぎないという現実は、自分とセリエの間に見えないけど深い隔たりのあることを否応なく突き付けてきます。天使として成就しない限り、彼女も母さんのように人として成長していって、そして……いや、そんなことは!マオは頭を振ってその悲観的な妄想を振り払うと、走って帰って来たセリエの手を取って校門を後にしました。
「あのね、セリエ、たまごさんたべたいな!」
「はは、またですか……それとハムっていうんだろ」
「あったりー!」
「たまには重く食べようぜ、カレーとか」
「カレー?なんだろ、もしかして、きいろくてから〜いの?」
談笑しながら駅前の商店街へ向かう二人を追う眼差し……それは薄暗くなった夕方の雑踏のなかでもひときわギラリと輝いて見えて、冷たい反射光はまるで獲物を狙う銃口のように二人の像を真ん中に捉え続けています。宮武はまだ良く動かない指先をぎりぎりと握りしめながら低くつぶやきました。
「フン、あのチビさえ眠らせりゃ……姫野……血ヘドを吐かせてやるぜ」




