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38.青空バンケット

「まおにーちゃん……」

この声を聞かなくなってもう何日経ったんだろう……マオは幻聴のように繰り返されるそのフレーズに幾度も胸を躍らせ、その度ごとに目の前に突きつけられる現実の不条理さに疲弊しきっていました。俺……もう二度と、セリエには会えないのかもしれないな……単調に続いてゆく無為な日々、マオはうつろな瞳で胸ポケットに入れている白い羽を服の上からそっと押さえながら、今日も昼とも夜とも知れぬ混濁の時間の中に溶けてゆくのでした。

――ふふ、帰って来たんだな……セリエ……まってたよ――

「まおにーちゃん、ただいまっ!」

――おかえりセリエ……はは、一体どこへ行ってたんだ、心配したぞ――

「へへへー、パパとあさごはんたべてたの!」

――朝ごはんか、ふーん……!?――

繰り返される幻覚にも似た浮遊感の中に現れるセリエとの時間……おや、今日はいつもと洋服が違うみたい……ライトブルーのエプロンドレスに、髪にはレースのリボンが結んであります。何だろう……こんな服着たセリエ、俺、初めて見るな……不思議に思って問いかけようとしたマオの目の前に、今度は見なれた中学の制服を着たちょっとお姉さんっぽいセリエが現れました。

「よ、おはようマーちゃん、あーあ、また朝まで起きてたんだ……ねえ、いいかげんにそろそろ学校行ったら?」

――だ……だれ?……君は……セリエがもう一人?――

「マオ様、いつもセリエを可愛がってくれてありがとう。ラファエルには、すごく心配をかけてしまって申し訳ないと思っている……」

――え……そんな……セリエが……セリエが何人も?――

今度はギリシャのヒマティオンに身を包んだ神々しい出で立ちのセリエ、気がつけばマオは数えきれないほどの同じ表情にすっかり囲まれていました。自分に向けられた見た事も無いような様々な姿をした同じ表情、マオは驚いてその同時に瞬く幾つもの瞳を見回しました。

「な……なんだ?どうしてセリエがこんなに沢山いるんだ……?」

「くす、いっぱいいすぎてわかんないよね!」

大勢の様々な姿形のセリエ達が同時に口を開いて話す様にマオはたじろぎました。その声は幾重にも共鳴して耳から離れる事は無く、マオは手のひらがじっとりと汗ばむのを感じました。思わず後ずさりした背中に触る柔らかな感触……びくっとして振り向いたマオは飛び込んで来た白い光にたまらず目を覆いました。

「何だっ……眩しくて……これは……人……?」

直視できない程の輝きを放つそれはおおきな人物なのか、かろうじて見る事のできる天を指す翼からはおびただしい数の光の羽根が舞い散っていて、辺りは何時しかその淡い色彩の中に飲み込まれていきました。目覚めたかのように飛び交いはじめるセリエ達からあふれる光のコトバ……白光と共にマオのまわりを満たすそれは以前どこかで見た光景のように懐かしく、マオの心をほんのりととろかせてゆきました。

――そうか……セリエの中には……たくさんのセリエがいるんだね――

「ウン!みんなのキモチ、いつもはきがつかないけど、ずっといっしょにいるんだよ!」

――俺の……俺の中にも誰かいるのかな?――

「いるよ!まおにーちゃんのなかにはね……わぁ、すごい!天使さんがいるんだ!」

――て……天使だって?――

「そっかあ、だからセリエ、まおにーちゃんがすきなんだ!へへっ」

――セリエ……そこにいるんだよね!ほら……こっちへおいで――

確かに目の前にいるに違いないセリエの存在、その日だまりのような心地よさにあふれ出す願いは、幾重にも交差してゆく意志のカケラに触れさせようと切り離されたマオの肉体へと流れ込んでいきます。朧に感じられる心象へとのばした震える手が彼女に届いて、マオが自分の求めている何かを掴みかけたとき、その指先は硬く冷たい現の門に触れてしまいました。一瞬にして消え去る光のコトバの舞い、大勢のセリエ達のあどけない瞳……不意に白熱灯に照らされた黄ばんだ世界に戻って来てしまったマオは、檻に触れている自分の指先を見つめながら小さくため息をつきました。

「……なわけないよな」

マオは暫し呆然とその指先を見つめていましたが、やがてやるせなく笑うと床の上へと寝転びました。両手で頭を抱えて踞ってみても、もうさっきのセリエは戻ってはきません。惰眠をむさぼろうにももう充足しすぎていてとても寝つけないマオには、ただ募る想いを露にしたまま過ぎ行く時に曝されている事しか出来ないのでした。頭を投げ捨ててしまいたいくらい冴えてゆく妄想、そしてまた訪れる定時取調べの時刻……いつものように上ってくる忙しない足音と解錠する音が静寂を破って、マオは条件反射的に起きあがってしまう自分に嫌悪感を覚えながら、これから訪れるであろう罵倒と詮索の予感に心を硬くしていきました。看守の「出ろ」の指示を受けてふてくされ気味に檻を出て来たマオの前に立つ河森、見れば今日はなんだかいつもにも増して表情が険しくて、マオはその苦虫を噛み潰したような顔を無言で睨み返しました。

「……」

「釈放だ」

「……?」

「勘違いするな、家裁には行ってもらうからな」

呆気にとられた表情を一瞥して、河森は歩き始めました。マオはなんだか分からずにそれを見送っていましたが、看守に背中をどんと突かれてつんのめってしまいました。突然の乱暴にむっとした表情で後ろを振り向く瞳、そこに小さく手を振る看守の姿を見た事で、マオは初めてここから出るという事の意味を悟りました。

「よかったな、気が変わらんうちに早く行け」

「え……はい……どうも……」

看守の言葉に軽く会釈をすると、マオはざわめく感情を押し殺しながら河森の後をついて階下へと降りてゆきました。そういえば手錠、今日はかけないんだ……ほんとに……ほんとに出られるのか……直角のステップを降りた先の重い扉を開けたとたん目に飛び込んで来る外光の白い光、久しぶりに人々が行き交う事務所のあるフロアへと出てきたマオは、おおきな窓に写っている外の景色が眩しくて嬉しくて、ちょっと立ち止まって風に揺れる外の木々の緑を見つめました。

「……何か、別世界って感じ……きれいだな……」

「おい、こっちだ」

河森の呼ぶままに受付の奥の幾つにも区切られた応接室のひとつへ足を踏み入れたマオは、その部屋の正面の椅子に腰掛けている男の姿を見て一瞬立ち止まってしまいました。スーツを着ている茶色かかった髪の眼鏡の男……マオはとうの昔に忘れてしまった、でも思い出す必要もないほどに身近な者との突然の遭遇に気が動転してしまって、無意識にうわずった声でその男の名を呼びました。

「……お……親父?」


 かすれた蝉の声に包まれた、まだまだ暑さが滞留する街の中心部、その官公庁の建ち並ぶ一角から走り出たタクシーは陽炎の立つ大通りを駅前の方向へ曲がっていきます。その車内で、無言のまま後部シートに座っているマオは隣で足を組んでいる父親の気配を重苦しく感じながらも、今しがた出頭して来た家裁での護の言動や態度から受けた違和感のわけを考えていました。いきなりこんな形で再会して、判事の保護者に対しての厳重注意にひとつひとつ頭を下げる護の姿は、他人としてしか認識のないマオにとっては俄に信じがたいもので、ここへきて保護者面をぶら下げて歩み寄って来る護の存在をマオは最初は鬱陶しく思っていました。ただ不起訴処分とはいえ交通違反をしてしまった事は疑いようのない事実で、その犯した罪が自分の父親、護により厳しい叱咤を招いてしまったという責任は、マオの護への考え方を気づかぬうちに変化させていったのでした。母を置き去りにしてその命を燃え尽きさせてしまった父親、聞きたい事に何一つ答えてくれなかった父親……およそ護に対して憎悪しか思い浮かばない自分に対して、この事件にかかわる説教や追求の言葉など一言もなく、ただ無言で事態を収拾していった護の姿は無愛想ながらも信頼に足るものとしてマオの瞳にくっきりと刻まれて、その横顔に宿るおおいなる安心感は、確かに幼いときに感じていた父親の強さそのものだったのでした。

「そこ、右ね」

護のちょっと偉そうな指示で大通りから急な坂道に入ったタクシーは空に吸い込まれるように目の前の蒼に向かって加速していきます。マオは窓越しに流れる見慣れた景色に、セリエと二人乗りでここを降っていった日の事を思い出さずにはいられません。そういえば、親父は知ってるんだろうか……俺が、セリエと暮らしてたってこと……

「あの……父さん……」

「……ん?」

「いや……」

セリエの消息を確かめたくて仕方ないマオは意を決して護に彼女のことを話そうと思いましたが、でもとてもそんなこと信じてはもらえないような気がして問いかけのまま言葉を止めてしまいました。そんなマオの気持ちを知ってか知らずか、高台の邸宅の前で止まったタクシーから降りた護は入り口のセキュリティに声高に帰宅を告げました。

「おまたせ、おにーちゃん、帰って来たぞっ」

「……父さん?」

重いドアを押しあけるのももどかしく、マオは庭園へと駆け込みました。目に飛び込んでくる夢に見た光景……様々な想いをのせて時を刻む花時計、違う品種の開花が始まって新鮮な色合いを見せる花壇の花々、そして、ちょうどテラスの前当たりに出されたテーブルの上にお皿やコップを並べている少女を見つけて、マオはその愛しい名前を大声で呼びました。

「セ……セリエっ!」

「あ……」

呼ぶ声に顔を上げたセリエは、その深い翠玉色の瞳にマオを認めたとたんころがり出てきた大粒の涙を輝かせて、胸にこみ上げてくる思慕にたまらずそのもとへ駆け出しました。

「ま……まおにーちゃあああん!」

「セリエ!よく……よく無事で……」

「やっと……やっとあえたよおぉぉえぇぇぇぇ……」

膝を落したマオの胸に飛び込んだセリエは、小さい手で力一杯マオを抱きしめました。マオにはその強さがたまらなくいじらしくて、思わず同じように強く抱いてしまいました、結んだ髪がゆらゆらとゆれてマオの鼻先をくすぐります。ああ、セリエだ……本当にセリエなんだ……

「……ゴホゴホ」

「あ、ああ、ごめん、強く抱き過ぎちゃった」

「ううん……うれしい……まおにーちゃん……もっと……もっとぎゅうっとして」

「ぐす……セリエ……よかったね……みんな無事で……」

二人の再会に隣のエリシャももらい泣き、そうね、あなたが一番心配していたものね。いつもなら目の前でこれだけべたべたやられるとすぐにケンカになっちゃうけど、今日は特別!エリシャは二人を羽根で包み込むように覆うと、目を閉じて天に願いました。聖なる光が祝福をもたらしますように、この幸せが、ずーっと続きますように……

「ねえセリエ、顔、見せて」

「すん……うん、へへへ……なみだでびしょびしょだよ……あ!」

「?」

「あのね、パーティーするんだ!サツキねーちゃんとおいしいもの、たくさんつくったよ!ねえ、いこいこ!」

「サツキ?……あいつ、来てんのか……」

マオは少しばかり不快な気分になりました。なぜって、あの祭の日の出来事はマオにとってサツキの「女性」を強烈に認識させられた事件で、もとより隔たっていた彼女との距離が完全に離れてしまったと感じる今となっては、マオはどんどん先へ、大人の社会へ行ってしまうサツキに対してより一層自分の稚拙さを恥ずかしく思っているのでした。料理を持って玄関から出て来たサツキを見て、忘れていたその感情がふつふつと甦ってきたマオは思わず身を隠してしまいたくなりましたが、ニコニコ顔のセリエに引っ張られるように食卓へと連れてこられて、否応なく顔をあわせる事になってしまいました。

「……真桜?」

「来てたのか……」

「よかった!心配したよ!身体、何ともない?」

「ふん……相変わらず人ん家の内情にずけずけと入ってきやがるんだな……」

「真桜……」

マオのつっけんどんな言葉にサツキはちょっと寂しさを感じました。はぁ……私もセリエみたいに素直に真桜を抱きにいけたらどんなにいいだろう……でも、でもいいんだ!真桜がこうして無事に戻って来れたんだから……そして、それに少しだけ、力になれたんだから……サツキは笑顔を浮かべてマオに席を示しました。

「真桜はこっちに座ってね」

「あ……ああ」

どういうつもりなのか後ではっきり聞かせてもらおうと思いつつ、マオは取りあえずサツキの言う通り食卓の椅子へと腰掛けました。軽やかな色彩のテーブルクロスの上には様々なオードブルや飲み物が賑々しく並んでいて、マオは以前西園寺の家で呼ばれたあの朝食のことをふと思い出しました。

「なんだ……またセリエの奴の趣味なのか?」

「よう!戻ってたか!すまんすまん遅くなって!」

「……先生!……ガンじいも?」

風に揺れる花弁に覆われた花時計の向こうに見覚えのある二人の影を見つけて、マオは立ち上がって声を上げました。西園寺とガンじいは両手にビールや肴を持ちきれないくらいにぶら下げていて、それを可笑しく思ったマオは思わず例の不敵な笑いを浮かべてしまいました。

「ふふ、何やってんだ、いい大人がよ……」

「おう!姫野、無事生還おめでとう!まあ、一杯やろうや」

「バカもんが!生徒に酒をすすめる教員がどこにおるか!」

「いやいや、これノンアルコールだって。俺らも車なんだし」

食卓に役者がそろって、席に着いた皆のグラスにあやしい発泡液がそそがれます。最新の技術の賜物なのかいかにもビール然とした香りはさすがに子供には無理と思ったのか、セリエには冷たいアイスティーが用意されています。マオは目の前でぷつぷつ弾ける泡を見つめながら調子に乗って酌をしている西園寺に言いました。

「あの……俺らもこれ、飲むんですか?」

「あん?お前らの無事を神に感謝する大切な儀式だぞ。パンは主の肉、酒は主の血なんだ」

「それって……ほんとはワインなんじゃ……」

サツキのぼそっとしたつっこみも聞こえないふりの西園寺が、グラスを片手に掲げて乾杯の口上を述べ始めるのをマオは何とも照れくさく、でも仄かに嬉しく感じました。久しぶりだ……家にこんなに大勢のお客さんを呼ぶのって……マオは反対側に座って西園寺を冷やかしている護の姿をちょっと馴れ馴れしいなあと思いながらも、目の前のグラスを手に取って音頭を待ちました。

「えーこの宴は、いわれなき罪に問われて勾留されていた姫野君の無実がここにおられるセリエちゃんと護氏によって証明され、本日ここに晴れて自由を得ることができた喜びを分かち合う為に設けたものであります。なおその過程において、湖川さんの献身的な協力が真相解明の有力な一助になりました事を申し伝えておきますとともに、彼ら若い3人の将来に幸多からん事を願って、ここに乾杯の音頭をとらせて頂きます」

「いいぞー、この芸人教師!」

「それでは、乾杯!」

「乾杯ー!」

「かんぱーい!」

「もう……よけいな事言わなくてもいいのに……」

グラスの触れる音が交錯する中、マオはその中に紛れてしまいそうな隣の席のサツキのつぶやきを耳にしました。お互いに合わせたグラスの向こうでマオの視線に気がついたサツキは何故かほほを赤らめていて、泳ぐ視線は彼女の動揺をあからさまに体現しているようです。マオは何とも気持ちの悪いそのサツキの態度が気になって、不躾な口調で彼女に問いました。


「あのさ……俺のいない間に何があった?」

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