37.邂逅
「ふふ……まさか、時間が戻っているとはな……」
時を刻みゆく大造りなムーブメントが起こす低いうなりが地中へと拡散してゆく薄暗い小部屋で、護はそこに満ちる清々しい空気に違和感と安堵を同時に感じていました。出産を間近に控えた茜を連れて、人目を避けるように訪れた欧州の片田舎の小さな教会……春の光の中で、庭園を彩る可憐な花時計をいつも窓越しに微笑んで見ていた横顔……軽やかな運針を感じさせる機関の回転は地上の、その想い出の風景を模して造られた贈り物の姿をありありと眼前に思い起こさせて、護は消え始めた命の火を繋ぎ止める為に手を尽くした苦悩の日々がつい最近の事のように感じられるのでした。四季の花で色合いを失う事のない、永遠を刻み続ける時の輪舞……真桜が生まれて、帰国した茜の身体に訪れた変調、治療さえ拒んで、ただひたすら運命を受け入れようとする茜が打ち明けた真実、そしてついに人のものでない業を用いるに至った自分を思い出すとき、護は背負った十字架の重さにあらためて自らの原罪を悟るのでした。
「破戒の徒を助けようなんて、今思えば恐れおおいにも程があるってもんさ……それでもお前は、あの術書を俺に託してくれた……」
一度は自分の気持ちを汲んでくれて、自ら時系術の中にその身を封印した茜……その想いを確かめるように護は、灰色に沈んだロッキングチェアーの上の写真の入った小さな額を手に取りました。そして息を吹きかけて埃を飛ばすと、その蝕まれた身体で健気に笑う茜の表情を認めて小さくため息をつきました。
「おかげで俺は自分の仮説を裏付ける方法を得た。信仰の根幹といえる"奇跡"という現象の解明は、死へ向かって刻まれてゆくお前の時を凍結する事でその糸口を掴んだはずだった……しかし、俺は肝心な事に気がついてなかった……」
暗がりに浮かぶいくつもの記憶の残像……別れゆく母と子、葬送の参列、睨みつけるようなマオの濡れた眼差し……見た事もないその光景を鮮明に呼び起こすこの聖域で、いつしか護は彼女の面影に心を重ねていくのでした。
「有頂天だった……新しい学説の定義を記す事に俺は我を忘れた……時を止めても、人の心まで凍てつかせることは出来ないことなど考えもせずに……」
――あなたの夢が叶うのならば、私は喜んで……もう、いつ果てるとも知れない命だから――
「お前が思慕のあまり方陣を抜けてきたとき、そしてその運命を全うして逝くとき、俺は側にいてやれなかった……いや、自らの意思で側にいなかったんだ……認めたくなかったんだ……」
――真桜は強い子……ええ、あなたと私の願いで出来てるんだから、きっと大丈夫、何があっても――
「すまんな……あんな跳ねっ返りにしちまったのは俺の責任だ……研究への影響を恐れて真実が言えなかったばかりに、あいつに憎しみの心を植え付けてしまった……母親を死に追いやった元凶……"奇跡"の研究に没頭していた俺にはその誤解を解くための時間さえ惜しくて、気がついたら他人よりも遠い存在になってしまっていた……今じゃ何考えてるのか全くわからなくて苛立つばかりさ……」
――くす、あなたらしいわ……学生の頃からちっとも変わってないのね――
「……!?」
今までのリフレインとは違う、現実味のある声に護はハッとして顔を上げました。まさに目の前で自分に向けられたかのような瑞々しい言葉……見上げれば周囲の壁には幾何学的な模様がうっすらと白く浮かび上がっていて、たくさんの子供たちの歌声が幻聴のように飛び交っています。護は左右を見渡しながら必死にさっきの声の主を捜しました。
「茜!いるのか?……どこにいる?……」
突然、フラッシュのような白い閃光が一瞬部屋を包み込み、護は思わず目を覆いました。暗がりになれていた目にあまりにも強烈なその光は、暫くの間護の視力を完全に奪ってしまいました。
「な……なんだ今のは……何かが弾けた?……」
「はくちょん!」
「……茜?」
「あれ……パパ?パパなの?」
「誰だ……誰が俺を呼んでるんだ……くっ、何も、見えねえ……」
「……なんだ、パパかとおもった……そっか、パパは神さまのところへいったんだっけ!」
「子供の声?……」
突然目の前にころころしゃべり出た幼い言葉に護はその声の主の姿を見ようと目を見開きました。幻惑された視野にぼんやりと結像してゆく少女の姿、その眼差しに心まで照らされるような光を感じながら、護は問いかけました。
「き……君は……?」
「あっ、ここ、とけいのおへやだ!すごいすごーい!まおにーちゃん!セリエ、かえってきたよっ!」
「……セリエ……?」
午前の取り調べが終わって、マオは看守に連れられて殺風景な檻の中へと戻されました。複数の刑事による強引な追求の言葉、容赦のない脅しや誘導尋問の応酬をもってしても一言も口を割らないマオ、そして未だに行方のわからないセリエ……拘留期限が迫っている事もあって河森は捜査の行き詰まりに焦燥を隠せないでいました。なぜ……何故あいつはここまで平静でいられるのだ……普通のガキなら嘘でも自分の非を認めて楽になる道を選びそうなものだが……頭を抱えてデスクに伏している河森は、さっきから無視し続けている電話の呼び出し音に怒りを露にしながら、荒っぽくその受話器を取りました。
「ちっ、少しは静かに考えさせろってんだ……はい、河森だ」
「あ、警部、面会の方が来庁されてますが……」
「面会?そんな約束はしてないぞ」
「それが任意出頭を求めていた参考人……あの、被疑者に襲われたって言う少女で」
「……何だと」
事務所の隅にあるパーテーションで区切られた一室に案内された河森は、その部屋のソファに小じんまりと座っている少女に瞠目しました。この娘は……強制捜査の日にあの少年の家の前で出会った……一瞬顔を上げて河森の顔を認めた少女は、再び目線をテーブルの上に戻します。その恥じらいを感じさせる仕草に罪悪感を感じながらも、河森は向側の席に座って注意深く話し始めました。
「事情が事情だから無理強いするのもどうかとは思うんだけど、因果な商売なんでね……でも、こうやって話しに来てくれて感謝してるよ。湖川……皐月ちゃんだったっけ?君があの暴行事件の被害者なんだね……」
「……はい」
膝においた両手をぎゅうと握りしめて、サツキは小さい声で答えました。本当ならこんな汚れた、自分達の私利私欲のためには手段を選ばない大人のやり方にはけたたましく反論するところなのですが、さすがのサツキもこれから醜態を、それも見ず知らずの男性に曝すという羞恥に覚悟が揺らいでしまいそうで、河森はそんな彼女の素振りに真相の存在をひしひしと感じながら、はやる心を抑えつつ言葉を続けました。
「言いづらい事だとは思うけど、いくつか質問に答えてもらえるかな。もちろん秘密は厳守するよ」
「……」
「あの日、時間は何時ぐらいだったか覚えてる?」
「……」
「犯人の声とか着ていた服とか、何か思い出せるものはないかな?」
「……」
「君が襲われてるのを助けてくれた人が大怪我をしてるんだ。早く立件してあげないと治療費が出ないそうなんだよ。だからね、どんな小さな事でもいいから……」
「!」
黙って河森の要求を聞いていたサツキはそれを聞いて脳裏に電光が走りました。そうか……真桜を陥れたのは……!今まで畏縮していた心に熱いものが滾って来て、それはみるみる胸を焦がす炎になりました。早まる鼓動が全身を麻痺させ、沸騰した自我の聳立を伴って突き出した強い意志、そう、私は知ってる……私だけが真実を知ってるんだ……だから!……サツキは立ち上がると、手に持った封筒から数枚の写真を取り出して河森に差し出しました。
「……怪我した人って、この人じゃないですか」
「モノクロ写真?……こっ……これは君か……!?」
「!……私なんか見なくていいよっ!この……」
「あ……!」
河森は目を疑いました。そこに写っているのは身を固くして必死に浴衣を押さえつけているサツキと、それを荒々しく剥ぎ取ろうとしている少年……宮武の姿なのでした。河森は言葉もなく、ただ目の前に供された一連の写真を食い入るように交互に見つめました。
「この……この写真は一体……?」
河森はうわずった声で聞きました。何で……何であの少年がここに……これが……これが真実だとすれば今までの捜査は……震える手からぱらぱらと抜け落ちた印画紙……テーブルに舞い降りたその臨場感に溢れた構図の写真たちは、撮られた本人でさえ目を奪われるような訴求力に満ちていてとても自分とは思えないほど。無言で説明を求めるかのごとく自分を見つめる河森と目が合ったサツキは、ちょっと得意げに言ってやりました。
「どんな時でも沈着冷静にシャッターを切るの……すごいでしょ、真桜って……」
「真桜……ということはこれを撮ったのは……」
「普通、こんな時は先に助けるよね……しかもこんなに写真集ばりに気合い入れて撮らなくても……ふふ……」
サツキの一点の曇りもない眼差しに河森は動揺しました。これは間違いだ……何かの間違いに違いない……そうだ……どうせ調べれば解る事だ……河森はそう自分に言い聞かせると、平静を装ってサツキに頼みました。
「こ……これ……ちょっと預かってもいいかな……その、そう言う訳じゃないんだけどさ」
「ええ、まだ要るようだったら焼き増しできますよ。ネガ、ありますから」
「!?……あ、ああ、その時は……」
聴取は終わり、会釈をして部屋を出て行くサツキを河森は事務所の入り口まで見送りました。彼女の提示した写真……これが本当にネガからのものだとしたら、証拠としての重要度は決定的だ……その事を理解している河森はサツキの証言に確固とした法的根拠のある事を暗に示されたような気がして、自らの主張に重大な選択を迫られる事になったのでした。
――セリエを……セリエを早く見つけなければ!――
「えー!まおにーちゃん、どうしてつかまってるの?ねえ、どうして?」
マオが今ここにはいない事実を聞かされたセリエは、不満そうな顔で護につっかかりました。怒ってるのにどこかのんきな表情、胸の前で手を握って、束ねた髪をゆらしながら話すセリエ……護はえも言われぬ寛ぎを感じながらその見覚えのあるような表情を見つめました。
「え?……ああ、ちょっと悪い事をしちゃってね」
「まおにーちゃんはわるいことなんかしてないよ!みーんなあかいめのおにがいけないんだから!」
「赤い目の鬼?」
ぷーとふくれているセリエの手元に、白く輝くものがあるのを護は見つけました。こんな小さい子がつけるのにはちょっとオーバーな程立派なリング、そこに精緻に刻まれた紋章を認めた護は、今自分が感じている疑問がいっぺんにつながってゆくのに軽い寒気を覚えました。突然十年前の方陣から現れたこの子……セリエという名、癖のないブロンドの髪……そしてリングの紋章……まさか……無言で凝視されているのに気がついて目をぱちくりしているセリエに、護はおそるおそる自分との接点を問いかけました。
「セリエ……だったっけ?ひとり?パパと一緒だった?」
「うん、パパ、えっと、ブライトンさんはね、神さまのところへいったの」
「ブライトン……そうか……」
「あれ?おじさん、セリエのパパしってるの?」
ブライトン……文字どおり輝けるその名は由緒ある貴族の名門、敬虔なクリスチャンであり、それ故に神学の根底を揺るがしかねない護の研究に大変な興味を示していた……ここまで研究を続けて来られたのもブライトン卿の援助があったからこそで、それ故に護は頻繁に身寄りの無い彼を訪れてはその経過報告と感謝の意をあらわして来たのでした。卿との会話の端々に出てくる少女、セリエ。辛い出来事なのでこちらから追求する事はしなかったけれど、写真や似顔絵、なによりブライトン卿の語る思い出の数々から、護の中にも確固としたイメージが存在していたセリエ。その像はまさに今目の前で小首を傾げている少女と不思議なくらい合致していて、護にはこの出会いが偶然とはとても思えなくなってくるのでした。
「ああ、ずいぶんお世話になってね……あっ、セリエ、そのリング、きれいだね」
「ウン!パパがね、おたんじょうびのプレゼントにって……あのね、こするとヘンなにおいするんだよ!ヘヘッ」
紋章の刻まれたプラチナのリングはまさにブライトン卿がつけていたものと全く同じもので、護は図らずも自分の研究の正当性を目の当たりにする事になりました。導きだされる答えはひとつ、時を超えてあらわれたこの子は、間違いなくブライトン家の正当な後継者、セリエ・ブライトンという事……もしそうならば、彼女は不法滞在者どころかりっぱなVIPだ。下手すると国際問題に発展しかねない……そうか!
「ねえ!まおにーちゃん、どこにつかまってるの?セリエ、たすけにいくよ!」
「ああ……そうだな……」
護はセリエの手を取ると彼女の目線までしゃがみ込みました。その瞳から伝わってくる光が心の曇りをゆっくりと消し去っていくのを心地よく享受した護は、殻に閉じ込めていた自分の役割を今一度思い出すのでした。
「セリエ……君も天使の子なんだね」
「ウン!そうだよ。はやくまおにーちゃんたすけて、こんどは天使にしてもらうんだ!」
「わかった、案内するよ。セリエ、一緒に来て」
「ホント?いこいこ、はやくいこ!」
ぎゅうぎゅうと手を引っ張られながら、護は機械室から玄関へと駆け上がっていきました。庭園に出て来た二人の前で悠然と時を刻む花時計、セリエは得意げな顔で護に言います。
「きれいになったでしょ!まおにーちゃんとわたしでやったんだよ!おかーさんもすごくよろこんでくれたの!」
「……そうだろうな」
護は抜けるような深紅の花弁を見つめながら、この子を遣わした天の意思を感じていました。降り注ぐ陽の彼方に想う愛するものの存在……セリエの言葉は息子を守る母のように、恋人を想う女性のようにあたたかく届いて、護はその願いをしっかりと受け止めるのでした。
「茜……君のこころは確かに預かった、後は俺にまかせてくれ」




