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36.パパ・ブライトン

「しろいみち……たくさんのひかるこえ……みんな、どこへながれていくの?……」

夥しい自我と記憶を束ねて天空を折り返す魂の大河、駆け巡る無数の意志の柱によって形づくられた大樹は天地を貫き、幹から枝わかれした軌跡は時間をも飛び超えて幾つもの放射点を描き出していきます。深淵へと遡るセリエはダァアトの門を往く光のコトバたちの雪崩のような奔流にもみくちゃになりながら、周りを飛び交う沢山の思念のよびかけに翻弄されていました。

……イタイノ……モウナイノ……カラダ……モウナイノ……

「どこ?わぁ、こんなにいっぱい!ちょっとまってよ!みんなでいっぺんにいわれたらわかんない!」

……ピカピカ……ココハドコ?……アレ……ワタシガイナイ……

「え?セリエにはみえるよ!だいじょぶ!みんなすてきにかわれるから!」

……ホント?……

「ほんとだよ!ホラ!セリエもかわれたんだから!」

……ネエ、アソボ?

……ボクモ!

……ワタシモ!

「あっあっあのね、セリエ、いかなくちゃいけないところがあるの!だから……うん、しんぱいないってば!」

およそ形というものが存在しないこの空間に放り込まれたセリエの姿が珍しいのでしょうか?溢れかえる光のコトバたちは我先に彼女の身体へとまとわりついてきては弾けるようなささやきを残していきます。その尽きる事の無い記憶たちの往来にさすがのおしゃべりのセリエもちょっと疲れてしまいました。

「ほえぇ……みんなのおはなしきいてたらおなかすいちゃった……ぐうぅ」

気がつくとセリエは深淵を目指す光たちの群から外れて、先の見えない灰色の空間へと流されていました。忙しない囁きの声が遠ざかってホッとしていたセリエは、今まで自分のいた流れがはるか上方に離れてしまったのを見て少し不安になってきました。

「あれ?セリエ、あのこたちといっしょにいかなきゃいけなかったのかな……」

まるで海底から明るい水面を見るように波うつ光芒はもうとてもすぐには届かなくて、かわりに背中を冷ややかに撫でる虚無の気配……もし、このまま沈んでしまったら、もう二度とまおにーちゃんと会えなくなってしまうかも……

「ねえ!まってよ!セリエもいっしょにいくぅ!おいてかないでよー!」

心配になったセリエはあわてて手足を漕いで上へと昇ろうとしましたがまるで前に進みません。今まさに見えなくなろうとしている淡い残照をつかもうともがくセリエの耳に届く年老いた声……疲れ果てたセリエがその呼び掛けに気付いた時、あたりは何も見えない霞んだ灰色の霧に包まれていました。

「はあ……いっちゃった……ぐす……セリエ、あのこたちといっしょにいきたいよ……」

「セリエ……セリエや……こっちだよ」

「?」

「待ってたよ、セリエ、さあ、朝ごはんにしよう」

「……なんだろう?」

振り向いたセリエの目に、けむる霧にしっとりと濡れた緑の芝生がぼんやりと映りました。花曇りの淡い輝きの空、由緒ある佇まいのおおきな邸宅、さえずる鳥の声とあたたかな風……きれいに刈り込まれた芝生の上にはたくさんの乗り物やおもちゃ、それから白いテーブルと向かい合わせに置かれた椅子がやわらかい陽に彩られて輝いています。セリエは突然目の前に現れた風景が夢なのか現実なのか良く解らなくて、でも何だかとても懐かしい感じがするその光の世界に吸い寄せられるようにふらふらと足を踏み入れました。

「さあ、こっちに座って」

「うん……え?だれ?」

引かれた椅子に腰掛けようとしたセリエはあれっと思って声のする方に振り向きました。いつの間に現れたのか、そこには端正な出で立ちの老紳士が穏やかな表情で立っていました。セリエはやっぱり何だか解らなくて、しばらくじっとその老紳士の青い瞳を見つめていました。

「ふふ、どうしたの?私の顔に何かついてるのかな?」

「え、えっと……おじいさん、だれだっけ?」

「いい葉っぱが手に入ったからね、それと今朝は目玉焼きにしたよ。セリエ、大好きだろう?」

セリエは自分の問いかけには耳もくれず、紅茶の葉に注意深くお湯を注いでいる老紳士の姿をちょっと訝しげに見つめていましたが、さっきから鼻をくすぐる卓上の料理のおいしそうな匂いにおなかがぐるぐると鳴って、もうがまん出来なくなってきました。セリエは上目使いで老紳士の顔をちらっと見ると、小さな声で聞きました。

「あの……あのね……あさごはん……たべていい?……」

「あぁ、ごめんごめんお茶が間に合わなくて、セリエ、お腹ペコペコなんだね、うん、お行儀悪いけど今日は特別!さ、たくさん食べて」

「!……ホント?」

「そうそう、まだ熱いから気を付けてね」

「ウン!われらがしゅよ、きょうもごちそうをありがとうございます。たべるものがないひともたすけてください。いただきまーす!」

セリエはパッと明るい笑顔を浮かべると、お祈りもそこそこに料理をほおばり始めました。その姿を見た老紳士は目を細めて微笑むと、二つのカップに交互に紅茶をつぎ分けました。

「お待たせ、さあ、お茶をどうぞ」

「わぁ!あかいおちゃだ!いいにおい……でものんだらはがギシギシいうの、へへっ」

「ではいただきましょう」

食卓には明るい話し声と笑顔が踊り、その歓声はどこまでも高いかすんだ青空へと吸い込まれていきます。すっかり緊張の解けたセリエの話す言葉ひとつひとつに、老紳士は包み込むようなまなざしで頷くのでした。朗らかなひとときが愛情と信頼でこころをいっぱいにしていって、セリエは何時の間にかすっかりその老紳士の娘になりきっているのでした。

「こらこら、そんなにあわてなくても……まだたくさんあるから」

「ううん、いっぱいたべてはやくおおきくなるんだ!そしてね、パパとけっこんするの」

「ははは、それは嬉しいな。じゃあパパも長生きしないといけないね」

不思議に心安らぐ景色の中で、セリエは老紳士との逢瀬に胸をときめかせていました。霞んで見えない彼方にはここと同じような風景の記憶がいくつも霧に包まれて浮かんでいて、それは深淵の周りに淀むように漂いながら、剥がれ落ちた迷える魂を招き入れているのでした。


「はっはは、そうか、一発廃車か、はははは」

昼なお暗い店内の暗室で何やら薬品を調合しているガンじいの予想外の大笑いに、西園寺はやれやれと言った顔で煙草に火をつけました。いくらマオに譲ったとはいえ極上のコンディションを維持していた思い出のマシンを早々にスクラップにされたと言うのに、ガンじいはまるで気にはしてない様子です。

「よく平気だねぇ爺さんは……あれだって売りゃあ好き者が高く買ってくれるって言うのによぅ」

「バカもん、金にしたきゃとっくに売っとるわ!それよりな、ひとりの男に生涯忘れられない輝きを刻み込みやがったんだよ。老いさらばえて、もう朽ちるだけかと思っていた老兵がな」

「そりゃそうだけど……あれ?また動かすの?その自現機」

煙をくゆらせながらカウンター越しに歓談していた西園寺は、液層に新しい薬剤を投入しているガンじいを見て身を乗り出して聞きました。

「確保する為とはいえまだ少年のあいつにあそこまで罪を着せるとは言語道断!自分達が無能である事を公表してるようなものだってのにいい気なもんじゃ!」

「ああ、確かにあいつは何かを掴んでいるようだからな……しかし檻の中となると容易に手が出せないな」

「何ならお前がやるか?まだ30本はあるぞ、TX400」

捜査が入って以来止めていたD-76現像液の鼻をつく匂いが店内に立ちこめて、西園寺はいやがおうにも気持ちが昂ってくるのに因縁めいたものを感じていました。目の前にほうり出された段ボール箱の中に整列した生フィルムはカメラに装填されるのを今や遅しと待っているようで、西園寺はそれがマガジンに込められた弾帯のように思えてくるのでした。

「まるで戦争だな……まあ、俺に出来るかはわかんねぇが……」

「やってみせるのが大人ってもんだろう。それより、護の奴はどうしてるんだ?ちょうど帰って来てんだろうに」

「相変わらずだ、論文を発表しに来ただけなんだと……ふん、お立場上邪魔なんだろうよ、奇病で死んだ助手とその息子は」

「研究の素材にされたっていうアレか、つまらん噂立てられおって……ったく、初めから事実を明らかにしていれば良かったものを……!?」

「それ……本当なの?……」

鋭く会話に割り込んでくる声、一瞬静寂に包まれた店内……開け放たれた店の入り口に立つシルエットにガンじいは目を向けました。その反応におもむろに振り向いた西園寺はそこに立つ少女がサツキである事を認めて少し意外に思いましたが、その疑惑の表情を見て取ると煙草を揉み消して立ち上がりました。

「あれ?湖川、姫野の家じゃなかったのか?」

「……助手って……真桜のお母さんの事……だよね……」

サツキの眼差しに宿る憤りは見せかけの婉曲や虚構など何の意味もない事を強く主張していて、西園寺は彼女がここにきた訳をおおよそ察することが出来ました。自分の言った事に解答を求められていると悟ったガンじいは手を拭きながらカウンターへと出てくると、サツキに向かって言いました。

「真相はともかく、原因不明の病だったのは事実なんだ、そしてそれがあの男によってもたらされたって事もな……」

「もたらされた……って、それ、真桜のお父さんがお母さんに……?」

「おおっと待った、そっから先は子供の聞くような話じゃないぜ、爺さん」

一応教育者としての責務でも感じているのでしょうか、西園寺は忌まわしい事実を語ろうとするガンじいをやんわりと制止しました。その不自然な行動は余計に隠蔽されたものへの猜疑心を駆り立てて、サツキはまるで不浄な物でも見るかのような蔑んだ視線を西園寺に向けました。

「子供?だから何だって言うの?大人はいつもそう!偉そうにしてるくせに子供が本気でぶつかって来たら適当にごまかして!」

「おい待て湖川、俺の言ったのはそう言う意味じゃないんだ」

「ねえ、心配じゃないの?真桜が捕まってんだよ!それなのにだれも助けようとしない!口だけは格好良い事言ってるけど動こうとはしないよね!大人は!結局みんな自分の事しか考えないんだ!傷付いてまで誰かを守ろうって人が何処にいるっていうの?……そんな……そんな大人のほうがよっぽど屑だよッ!」

サツキはその激情にたじたじになってしまって返す言葉もない西園寺を一瞥すると、カウンターのガンじいに向かって一本のフィルムを差し出しました。

「これ、現像して下さい。せめて、私だけでも真桜の力になりたいから……」


 うららかな光の降り注ぐ芝生の上で、セリエは寝転んで薄曇りの空を見上げていました。満腹になるとつい横になってしまうのがセリエの悪いくせなのですが、傍らで本を読んでいる老紳士はそれを咎める訳でもなく、ただときおりその姿を確かめては満足そうに微笑んでいるのでした。全ての苦悩や不安を忘れてしまいそうなあたたかさに包まれた至福の世界で伸びやかに解き放たれていく心……そう、セリエ、おもいだしたよ、ほんとうのわたし……わたしはここにいたんだ……このひろいおにわのいえで、パパになってくれたブライトンさんとくらしてたんだ……断雲のつくる影が幾度も二人の上を横切って、それを目で追っていったセリエは老紳士の齢を重ねた皺だらけの横顔を見てふと疑問が湧いて来ました。

「でも……パパって、こんなにおじいちゃんだったかな……」

呼び覚まされた記憶とは掛け離れた目の前の父親像にセリエは戸惑いました。いっぱい走って、いっぱい抱っこしてくれて、いつも遊んでくれたパパ……セリエは気になって、上体を起こすと老紳士の方を向いて訊ねました。

「ねえパパ?」

「うん?」

「パパはどうして……どうしておじいちゃんになっちゃったの?」

「ははは、セリエのいない間に年をとっちゃったんだよ。もうあれから40年も経つからねぇ」

「よんじゅうねん……って、どのくらい?」

老紳士は本を閉じてセリエの方に顔を向けると、静かに話しはじめました。

「そうさな……パパの寿命が終わるくらい長い時間だったよ」

「じゅみぅ……?」

「うん……魂の世界ってわかるかな……いきものが生まれ出てゆき、天命を全うしてまた戻ってくる……パパがこうしてまたセリエと会えたというのはそう言う事なんだよ」

老紳士の言葉に、セリエは目をぱちくりしました。そっか、パパ、神さまのところへいくとちゅうなんだ……漠然とながらこの深淵の意味を理解したセリエは、でもそんな世界に自分がいる事が何だかすごく不自然な気がして老紳士に確かめました。

「でも……でもセリエはまだ神さまにめされてないよ」

「いや、私も今気がつきましたよ……そうですか、セリエ、あなたは主の神子なのですね」

「しゅにょ……?もう!パパのいうことっていっぱいムズカシイ!」

「そう……天使のお迎えですね……わかりました……」

老紳士は席を立つと、小首を傾げて難しい顔をしているセリエを慈しむような眼差しで見つめました。そして節くれ立った手でその髪のような羽をなでると、そのほほに額をあてて小さくつぶやきました。

「主よ、私の願いをお聞き届け頂いてありがとうございます。セリエに……生涯愛したセリエにこうやって会わせて頂けて……今こそ、主の御元へと参りましょう……」

「パパ……ないてるの?だいじょぶ!セリエがずっとそばにいてあげるよ」

「……ありがとう……セリエ。お前が元気でいてくれた事が一番うれしい……おかげで私はもう充分に満たされました。さあ、行きなさい……」

「いくって?いやだよ、パパをおいてはいけないよ!」

美しい邸宅のまわりの緑の草原が、彼方から来る霧に少しづつ包まれていきます。かすんだその先は来るときに垣間みた虚無によって飲み込まれ、何処へと消え去ってしまいました。だんだん狭まってくるその霧の包囲を見たセリエはなんだか怖くなってきて、老紳士の手を引っ張って言いました。

「パパ!いっしょにいこうよ!このままじゃきえちゃうよ!」

「セリエ、お前にはやることがあるはずです……あなたを……天使を待っている人のところへいってあげなさい」

「でもパパが……パパが……!」

「はは、心配はいらないよ、もうここに縋る必要がなくなったからね、それで消えてゆくだけだから……私にも、次の時間を生きるときがきたようだ……いつかまた、一緒に暮らせるといいね」

そういうと老紳士は、ポケットから小さな箱を取り出しました。

「5歳の誕生日にね、これをあげようと思ってたんだ……よっぽどセリエの棺に納めようかと思ったんだけど、私には死んでしまったなんて信じられなくてね……」

小箱の中には、紋章の入った小さなリングが輝いていました。老紳士はそれを手に取ると、セリエの左手の中指にそっとはめてあげました。

「これでお前は正式にブライトンの名を継ぐ者になるんだ……もう、思い残す事は何もない……主よ、慈悲深きお導きに感謝しています……願わくば我が章がセリエの力となり、その業を成す一助とならん事を……主よ、どうぞセリエをお護りください」

「パパ……」

寄り添う二人の周りに迫り来る霧はいつの間にか眼前にまで迫ってきていて、立派な邸宅や色踊る庭園を飲み込みはじめていました。虚無の支配するこの深淵の中で、やがてこの風景の記憶はすっかりと消えてしまうでしょう。老紳士はセリエの手をとって天空を見上げました。

「途中まで一緒にいこう、大丈夫、私が守りますよ、セリエ」

「うん……きっと、きっとまたあえるよね!」

天空に翳した二人の手に、一条の光芒がさっと差し込みました。その光のコトバたちの残す軌跡に触れた周囲の霧は瞬時に蒸発して、そこへ集まってくる無数の意識はやがておおきな柱となって白い回廊を描き出しました。天の国へと至る途……二人は固く手をつないだまま、その光の中を上へ上へと昇っていきました。


「まっててまおにーちゃん……セリエ……すぐいくよ!」

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