35.Stand by me
照りつける陽は狭い河原の岩稜を白く輝かせ、せせらぎの音が軽やかに流れる街外れの小さな集落、山腹を高架で跨ぐバイパスが出来た事で川沿いに軒を連ねる商店や食堂から客足が遠のいて久しい寂れた町内は、昨日から訪れている警察関係の一団のもたらす騒然とした空気に包まれていました。無線や口頭での指示の飛び交う中、マーカーで記された河原の単車落下場所を中心に大勢の捜査官が岩の間や茂る雑草、それから川の底に至るまで執拗に捜査をくり返しているのを、ポプラの木に腰掛けたエリシャはただ呆然と見守っていました。
「……さがしてるの?……みんなで一生懸命に……優しさから?ううん、そんなあたたかなものは感じない……でも無駄だわ、絶対見つかりっこない……だって、私でさえ……」
昨晩の天空へと消えていった光を目の当たりにしたエリシャは、セリエの運命を知ってしまうのが怖くてとても天界に確かめに行く勇気がありません。もし本当に、マオを庇ってあの死の天使に……と思うともう悲しくて、居たたまれなくなったエリシャは喧噪の続くふたりの墜落現場にそっと別れを告げると、カーネーションの咲き乱れる高台の邸宅のほうへ力なく羽ばたきました。明快な陰影を刻む俯瞰の景色の中でもその新鮮な色彩はひときわ生々しく目について、エリシャにはそれがまるでセリエの流した血のような気がしてとても忌まわしく思えてしまうのでした。
「……せめてあの花をマオくんに……ね、セリエ……」
潤んだ向こう側に揺れる花時計、そっと手を指しのべてその彩を抱こうと花壇へ降りていくエリシャは、不意に異様な怨気が喉元に突きつけられているのを感じてびくっと立ち止まりました。
「失敬……どうやら違いますね……君はまだ守護者には程遠いようですから」
硬直した首筋から殺気が遠ざかってゆき、おそるおそる振り向いたエリシャはそこに長鎌を斜に構えたサリエルの姿を見るのでした。
「あ……あなたは……!」
一瞬だけだけど冷たく差し向けられた殺意……今まさに自分を殺めようとしていた黒翼の天使を目の前にしてエリシャは身が竦んでしまいましたが、鈍く光る長鎌の纏うどろどろした怨恨、蠢く禍々しい彫刻の間を流れる悲しみの脈動を見つめているうちに、その心は押さえきれないほどの憤りであふれて来るのでした。
「おや、誰かと思えばあの時の……そうですか、君もあの子を……」
「サリエル様……セリエを……セリエをどうして!」
いつもなら羨望と恐怖で声も出せないエリシャですが、沸き上がる憤怒の感情は荒ぶる言葉となり、目の前の不敵なる刺客へとぶつけられました。サリエルはそんな彼女の心中を察したのか携えた長鎌の刃先を下方へと向けると、腑に落ちない風で小首を傾げました。
「セリエ?……さあ、私があの子に何かしたのでしょうか……お恥ずかしい話、昨日の事はよく覚えて無いのですよ」
「覚えて無い……って何よ!まさかあなたが昇天させたんじゃないって言うの?そんなの信じられない!じゃあセリエはどこ?どこにいるのよッ!」
曖昧で思わせぶりな返答がエリシャの気持ちを更に昂らせます。サリエルへの憎しみは恐さよりも強く彼女を駆り立てて、エリシャはその黒いローブを掴んでぐいぐいと引っ張りました。
「ねえ!セリエをかえして!かえしてよぉぉぉぉぉ!」
「だから……知らないと言っているだろ!」
サリエルは苛立った口調でそう言うとエリシャの手を無造作に払い除けようとしました。翻る袖から覗いたその右腕は驚いた事にどす黒く焼けこげていて、まるで枯れ木の皮のようにささくれ立っていました。エリシャは慌てて掴んだ手を離すと、思わず後ずさりしてしまいました。
「……手が……!?」
サリエルはエリシャの驚いた顔を胡散臭そうに思いながら、肩に回したローブを手繰って黒焦げの右腕を覆い隠しました。そして小さく息を吐くと自らに問うように答えました。
「……覚えていないと言いましたね……けれど、何が起こったかはわかりますよ……この痛み、前にも感じた事がありますから……ね」
「痛み……?」
サリエルの鈍色の瞳に凝視されたエリシャは、その心に入り込んでくるような視線に過去の自分の様々な記憶が呼び覚まされていくのを感じました。うん……そう言えば私、前にもこんな姿のサリエル様を見た事がある……半身を焼かれて、物陰に踞っていたあなたを見た事が……あれはセリエと再会するちょっと前の、駈ける風薫る春の日……
「……ふふ……そう……あの時も現れた……潔の翼の守護者が……」
サリエルは振り向いて駅前にそびえ立つ、端正な形状の高層ビルを見つめました。夏空を映し込む壁面をゆく雲の流れ、その胸を焦がすように熱い白さはサリエルに今まで感じた事の無い畏怖の念を抱かせるのでした。
「あの少年……放っておけばやがて私の重大な障害となるだろう……彼の真の守護者……一度ならず、私をこれほどまでに追い込む白光の天使……誰だ……」
黒翼に身を包み、物陰の闇にとけ込んで何処へと姿を消してゆくサリエル。それを固唾を飲んで見送ったエリシャは、ここへ来て急に押し寄せてきた恐怖と安堵で急に力が抜けてしまって、マオの家のカーネーションの花壇の中へ落っこちてしまいました。
「きゃっ!……あたた……あ、お花さんごめんね!」
エリシャは慌てて立ち上がりました。ああよかった、もしこれがセリエだったら……羽根のように軽いエリシャのしりもちくらいでは、カーネーションはぺちゃんこにならずにすんだみたいです。いつもと変わらない、風に吹かれて微笑みかけるように揺れる一面の花たちの暖かい色彩を見ているうち、エリシャはさっきのサリエルに対する怒りや悲しみがすーっと消えてゆくのを感じました。確かに、さっきのサリエルの持っていた長鎌にセリエの意識は感じられなかった……カーネーションたちも、まるでセリエが帰ってくるのを待っているかのように空を見上げて笑っている……うん、誰かが……きっと誰かが二人を護ってくれてる……そう、いつだってあの子は!エリシャは馥郁とした空気を胸いっぱい吸いこむと、層雲のながれる空に両手を挙げました。
「セリエ!さあ、戻っておいで!」
蒼空にそびえる鐘楼の最上階で、アナエルは四方の壁面に張り巡らされた方陣をひとつひとつ調節していました。固い石でできた床の中央には全ての時を司る大時計の文様が刻み込まれていて、その上にしゃがみこんでは読み方も解らない文字を眺めてにまにま笑っているセリエに、アナエルはもう一度問いただしました。
「お前、本当にいいのか?人間様の身体が無事に通れる保証なんて無いんだぞ」
「うん、マルルーもいっしょにきてくれるし、だいじょぶ!でも、なんでこんなややこしいことするの?」
「ややこしいって……お前天使になるの断わっちゃったじゃないか!せっかくの機会だったのに……だいたい大きな羽根も無いお前が天使みたいに飛び降りて下界になんて無理だよ、潰れちゃうって」
セリエはアナエルの言葉を聞いてるのか聞いてないのか、同心円上に描かれた床の象形に指でお目目とか口とか描いてはくすくす笑っています。やがて風を意味する渦巻き状の図形を見かけたセリエは、はっと気がついてアナエルのほうを振り向いて答えました。
「だってセリエね、はじめは風神さまにとばされてしたへいったんだよ!だから……あれ?でも、そのあとどうなったんだったっけ?」
「お前自分で話してたろ、人間様に追っかけられてるって……今の姿で彼らの世界に行ってみろ、無事に着いたとしてもすぐ捕まっちゃうぞ」
「あ、そっか、ハハハハ……どうしよう?」
「お前なあ……」
相変わらずのセリエにアナエルは何とも先行き不安で、よくこんな奴が今まで無事に生きてこられたものだと会うたびに感心しているのですが、いつまでも純朴で素直な心を失わない彼女に感じるたとえようのない安らぎ、触れるごとに伸びやかに包まれてゆくあたたかさは前にもまして大きく感じられて、アナエルは漠然とだけど、きっとセリエの願いが遂げられるであろう事を確信するのでした。
「まあ、心配するな、お前ならきっとうまくいくから」
「ほんと?でもどうやるの?」
「こことあの下界の花時計の家にある方陣とを繋ぐんだ。セフィラの深淵を辿って直接向こう側へと抜けられる!」
「えー!すごいすごい!」
「普段は熾天使様達しか使わないけど……何たって、主のおわす法界を通るんだから……って一寸待てよ」
「?」
アナエルは意気揚々とここまで説明して、自分が今施している時系術には大きな障害が存在する事を思い出しました。
「……この途はダァアトの門をくぐる事になるんだ。主の御許だから恐らくいろいろな物を見る事になるだろう。もしそこで自分を見失ってしまったら、永遠に外へは出られない……それどころか、自分が誰だったかさえ解らない異型の族に転生してしまうかもしれないんだ……」
「いけい?あのくらいあなにいたへんなやつかな?」
「う……なんて言ったらいいか……とにかく、お前みたいなチビが一人であそこへ行ったらどうなるか解らないってことだよ」
「ふうん」
「アナエル!カリヨンはどうしました?」
鐘楼の階下から呼ぶ声に二人はドキッとしました。そう言えばアナエル君、セリエの相手に熱中しすぎてカリヨンを鳴らすのを忘れてたようです!塔の階段を上ってくる足音を聞いたアナエルは急に真摯な眼差しでセリエを見つめました。
「ラファエル様だ!どうする?行くなら今しかないぞ!」
「え?でもアナエルくんが……」
「心配するな、それよりお前、覚悟はいいか?ここから先は一人なんだ」
「うん!セリエだいじょぶ!まおにーちゃんにあえるならなんでもがまんする!」
「そ……そうか……よし、真ん中に立って!」
アナエルは一抹の寂しさを感じながらも早口で吟唱を始めました。ほどなくセリエのまわりを輝く光のコトバが弾けながら幾重にも取り囲んで、足元の次元は崩落しておおきな口を開けはじめました。
「アナエルくん!アリガト!いってくるね!バイバーイ!」
「ああ!しっかりな!」
次の瞬間、セリエを取り囲んでいた光のコトバたちが目もくらむような輝きを放ち、ひとつのおおきな光の球となって砕け散りました。勢い良く四方八方に飛び散った光の粉の軌跡がほんのりと消えたあと、もうそこにはセリエの姿はどこにもありませんでした。すべての方陣は普段あるべき姿へと収まって、途を開いた痕跡は何処にも残っていません。アナエルはしてやったりとほっと息をつきました。
「ばいばい……だってさ……まるで人間様みたいだな、セリエ……」
「アナエル!聞こえなかったのですか?もう知の刻はとうに過ぎていますよ!」
「あ……はいはいはい、これからすぐに……」
風にのって流れるカリヨンの澄み切った響き……願わくばこの音色がセリエに届いて、そしてその行く先を照らし続けてくれる事を願って、アナエルは心を込めて繊細な和音を奏でるのでした。
「はあぁ、好き勝手やってくれちゃって……」
強制捜査のおかげで雑然と散らかった寝室、執拗なまでに調べ尽くされた戸棚や机の引き出しは、捜査員の物的証拠に対する異様なまでの執念を感じさせます。朝からマオの家の片付けを手伝っているサツキは、散乱しているネガフォルダやプリントを年度ごとにまとめて判りやすいように茶封筒によりわけながら、そこに垣間見られる過ぎし日々の断片……彼の今まで見て来た風景を辿っていました。10年前のあの日、病に伏せっていた母親が亡くなってから家をあける事が多くなった真桜の父さん……かわりにおじいちゃんが面倒見ていたけど、もう前みたいな笑顔は見せてくれなくて、学校から帰ってもずっと家の中でカメラをいじっていたあの頃……それでも、写真の話をする時の真桜はとても輝いてて、それでしょっちゅうお邪魔していたっけ……あ、これ、小学校の卒業式の写真だ!真桜、よそ向いてるよ……そういえば、真桜は自分が写真に撮られるのがすごく嫌いなんだ。私は嬉しかったけど……
感傷にふけっているサツキの耳に、玄関の戸の開く乾いた金属音が聞こえて来ました。あ、帰って来た!サツキはベッドの上に見ていた写真をまとめると、廊下へと走り出て声を上げました。
「お帰りなさいっ!」
「ああ、ただいま……早くから手伝わせてすまんな。飲み物買ってきたから少し休憩してよ」
「う……うん……あの……真桜は?……」
期待にうわずるサツキの声を背中で受けながら、護は玄関に腰掛けて靴を脱ぎはじめました。
「……元気だったよ。憎たらしいくらいにね」
「え?」
「無免許運転、強制猥褻、不法入国者蔵匿罪……とても面倒見切れねえよ、あのバカ」
「……な……なにそれ……?」
「ふん……あいつはブタ箱行きだよ……ったく、どこまでワルやりゃ気が済むんだ」
サツキはてっきりマオと二人で帰ってくるものと思っていたので、護の言葉を聞いて声を失ってしまいました。まさか、あのまま捕まっているなんて……真桜にそんな……そんな重い罪が科せられているなんて……絶対、絶対おかしい!そんなの警察の……あの警部の陰謀に違いないよ!真桜はただセリエちゃんを守りたかっただけなのに!……気持ちが爆発しそうなサツキは思わず護に問いただしました。
「おじさん!警察の言う事なんて全部嘘だよ!真桜はそんなことしない!私、ずっと見て来たからわかる!」
「……例えそうだとしても、その事が証明出来なきゃただの推論、希望的観測に過ぎない。正直、俺は今回の事件はあいつを矯正させるいい機会だと思っているんだ」
「矯正って……真桜は何も悪いこと……」
「学校は行かない、無免許でバイクは乗りまくる、あげくの果てにレイプだぁ?これのどこが悪くないって言うんだ!この際はっきり言うけど、今後真桜とはつき合わない方がいい。最早あいつは屑に成り下がった駄目な奴だ」
「!」
サツキは久しぶりに会った護の、マオに対する理解の無さに愕然としてしまいました。様々な研究で成果を上げてそれなりの地位のある人だとは思えない短絡的な、一番身近な真実が全く見えていない護の言葉は到底理解できない理不尽さで満ちていて、憤懣やるかたないサツキは頭の中が真っ白になってしまいました。私、もう我慢できない!
「そんなの……おじさんは真桜の事、全然わかってない!これじゃ真桜が……真桜が可哀想だよッ!」
サツキは行き場の無い心の叫びを護へと叩きつけると、踵を返して庭園へと出ました。目の前に広がる鮮やかな庭園の光景……どうしてわかんないの?……こんなきれいな花咲かせたんだよ……あの真桜が!……多感な少女の激情に満ちた言動に面喰らっている護を玄関に残して、サツキは高台の家を飛び出しました。私が今感じている悔しさ、これってきっと真桜の気持ちなんだよね……それを……それを!
「真桜、助けるよ!私が……だから……」
サツキはポケットの中の金属製の筒を確かめると、駅前への坂道を駆け下りてゆきました。
 




