32.明日なき暴走
夜でも交通量の多い幹線、赤と白の2色の鮮やかなコントラストで分かたれた、途切れなく流れて行く車両の灯火の列の間を鋭く貫いてゆく一条の光がありました。鋭い光を投げ返すガードレール上の反射器をかすめ、ラジエターからの熱気でゆらめく車間の空気を切り裂いてゆく金属質の煌めき、二人を乗せた銀輪の鉄馬はまるで取り憑かれたかのような危険なステップで数珠つなぎに連なる車両の鼻先を切り返し、がむしゃらに前へ前へとすり抜けてゆきます。ときおり鳴らされる大型トラックの地鳴りのような威嚇のエアホーンの度に、セリエは両耳を押さえてタンクへと突っ伏して負けずに大声を上げました。
「うるさーい!みみがとんでっちゃうよーっ!」
「我慢して!こうやってすり抜けていられるうちは追い付かれないから!」
「まだおうちにはつかないのー?セリエ、こわいよー!」
「もうすぐだ!だから……」
耳にまとわりつくサイレンと拡声器の甲高い声……幻聴?こんなにすり抜けてるんだから追いつく訳ないじゃないか!……でもどうやっても聞こえてくるんだ。悪い事してるから?
流れ去るオレンジの照明の残像が長く長く網膜に焼き付いても、目まぐるしく変わる光度の変化にマオの目はなんとか順応していました。前方のトラックから吐き出される排気ブレーキの固まった排気!煤が目に入らないように伏せて!……ブレーキの赤色灯火!つまる車間!当たる!右へ避ければ!車線をわける路面の白線が断続的にマオの足下を後方へ飛んでいきます。右手を緩めちゃ……立ち止まっちゃ駄目なんだ!俺はセリエを、あんな奴等には!……何ィ?このバス右折するのか!指示がおそいんだよッ!無理矢理割り込んだ左の車線に迫っていた車両から浴びせられる怒号にも似たクラクションが、セリエの恐怖心を更に煽っていきます。
「やめてー!おこらないでー!」
「この大人どもが!何も……何も判ってないくせにぃっ!」
マオはアクセルを思いっきり絞りました。もうもうたる白煙が後続車を包み込んで、その行為に激昂したその車両は激しくパッシングを瞬かせながら猛然とマオとの車間を詰めて来ます。ミラーに大写しの黒塗りの大型車はまるで殺意の塊のように爆音を轟かせて、マオは恐怖で気が遠くなりそうになりながらも速度を更に上げて前方を併走する2台の貨物トラックの間に飛び込みました。1台!2台!3台!……次々と襲い来る焦燥と破滅の予感に押しつぶされそうなマオには、この車両の放列を1台でも多く抜いて前に出る以外に今の状況を解決する方法など思いつく余裕はありません。永遠と続くかと思われる重圧、全世界が敵になってしまったような今の自分の立場と、強大なものに追われる恐ろしさと絶望感で切り裂かれる心……そのキリキリと穿たれる鋭利な痛みにマオは今にも負けてしまいそう……でも前で小さく震えて座っているセリエをなんとか逃がしてあげたい、自由にしてあげたい……その想いだけがマオにこの危険な逃避行を続けさせているのでした。一瞬でも立ち止まってしまえば、後から抗えない程の強い力で体中をがんじがらめにされそうな気がして……マオは怯えながら、でもわずかな勇気を振り絞って自分を煽っていきました。
「……けっ!お前らなんかに………お前らみたいな腐った権力に潰されてたまるかよッ!どきやがれ!」
久々の天文部の観測につきあったおかげで遅く帰宅した西園寺は、鍵のかかっていない玄関の扉や思いっきり開け放たれた南向きの窓を見て呆気に取られていました。もちろん室内にはマオとセリエの気配なんかなく、何が起きたか判らない西園寺はバルコニーに出て高台のマオの自宅の方を伺いました。いつもは闇に包まれて、黒い塊のような山肌に点々と街灯が灯っているだけなのですが、今夜はちらちらと小さな光が行ったり来たり……あ、点滅する赤い光も見えます。西園寺は体中からどっと汗が出てくるのを感じました。これは……まさか!?居ても立ってもいられない西園寺は慌てて階下へと駆け降りると、ワゴン車に飛び乗ってエンジンをかけました。でも夜とはいえ客待ちのタクシーや路線バスでごった返している都市中心部のマンションのこと、そうやすやすと大通りには出させてはもらえません。焦る西園寺の苛立ちはつのるばかりでした。
「姫野……どこへ行った……まさか捕まっちまったとか……くそ!」
信号が変わるのももどかしく、西園寺は渋滞を反対車線に飛び出してまで追い抜いて交差点を右へ曲がると、高台へ続く坂道へと猛然と加速してゆきました。急な坂道と交わる路地との十字路では何度も車の底を打ち付けながら、でも西園寺はそんな事など構わずにアクセルを床まで踏み込みました。
「へっ、我ながらひどい運転だぜ……これじゃ俺の方が捕まっちまうな!」
曲がりくねった狭い道を星空に向かってぐいぐい昇って来た西園寺は、もう一息でマオの自宅へたどりつくというT字路にさしかかりました。暗い夜道なので車が向かって来てればヘッドライトの光芒ですぐわかるからと、ろくに確認もせずに左へとハンドルを切った西園寺の目の前に、急に停止を促す警官が飛び出して来ました。
「わわっ!危ねえだろが!……くっ、眩しいッ!」
警官のもつ強力なハンドライトに顔面を照らされた西園寺は前が見えなくて、たまらず急ブレーキを踏みつけました。止まったワゴン車をとりかこむ完全装備の警官達……西園寺は手でライトの光を遮りながら、近寄って来た一人の警官に怒鳴り付けました。
「この!死にたいのかよ!」
「すみませんが、ちょっと免許証を」
「ちっ……ほらよ」
警官はいかにも手慣れているような飄々とした対応で西園寺の免許証をを確認しはじめました。すっかり取締か何かだと思い込んでいる西園寺はふて腐れた表情で警官の顔を見て言いました。
「あんたらさぁ、こんな所でせこせこ稼ぐよりもっとやる事があるだろうが!急ぐんだから早くしろってんだ!」
「すみませんね、この道はこれより先には行けないんですよ。」
よく見ると暗闇の奥に2台のパトカーが道を塞ぐように止まっています。更にその周りには何人もの警官が警棒を携えて坂の下を凝視していました。西園寺はそのものものしい警戒に嫌な予感を覚えましたが、素直に理解した振りをして状況を聞きました。
「え?ああすまん、そんな事とは知らなくて……で、何か事件ですかい?」
「この辺は危険ですからなるべく車の運転は控えて下さい、右に迂回してもらえますか」
「あ、あいあい、親切にどうも〜」
西園寺はその角を右へと切り返すと、這うような速度で周囲を観察しながらゆっくりとワゴン車を進めました。近道の階段の下や細い路地にまで数人の警官が配置されていて、その状況はあたかも天守閣を守る山城の布陣を思わせる光景です。
「ったく大げさな……しかし広範囲な警戒線だ、警官の目が全部外を向いてる……ってことはあの家に姫野たちがいると言うわけじゃ無さそうだ……じゃあ一体何を待ち構えてるんだ?あの連中……」
西園寺は自動販売機の前で車を止めると、飲み物をわざとゆっくり買いながら周囲をつぶさに観察しました。人通りは全くないのに上の方のどこからか何人もの人の声が聞こえて来て、西園寺は何かが進行中であることを確信しました。
「……ったく、くそ暑い夜だってのにご苦労なこったぜ……と、」
「あの……先生?」
「!?……ぶーっ」
買ったジュースをひとくち飲んだ西園寺は、後ろから急に話し掛けられて思わず吹き出してしまいました。何だよ!こんな暗い人気のない所で急に出てくるなよ!と振り返ると、そこには制服のままの姿のサツキが不安を隠せないといった顔で立っていました。
「……湖川?……何でこんな所に……一人か?」
「ううん、真桜のお父さんと一緒なの」
「お父さん?」
サツキの後ろに立っている長身の男のシルエットがするりと自動販売機のそばにやって来て、その照明に照らされた顔を見た西園寺はあっと声を上げました。
「……護?護か!何だ、いつ帰って来た?」
「やあ、久しぶりだな。保雄」
いきなり談笑を始める目の前の二人に、サツキは呆気に取られてしまいました。あれ?どうして?この二人って知り合いなの?
「今日さ、しかし帰って来ていきなりこれだもんな。笑ったよ」
「まさかこんな所でお前と会うとはな……あ、湖川、こんな時間に何してる?学校にも出てこないで……」
「まあまあ、俺が呼び止めたのさ。この子は昔からの真桜の友達でね、何か知ってるんじゃないかって思ってさ。なあ、皐月ちゃん」
「え?ええ……あの、おじさんと先生ってどんな……?」
よく解んないままあいずちをうちながら、サツキはさっきから気になっている事柄を聞いてみました。
「はははっ、幼馴染みだよ。真桜と皐月ちゃんみたいにね……なあ、最初に遊んだのっていつだっけ?」
夜の路地で声高に話す護の声は静まり返った住宅街に響きわたって、上の方から聞こえて来ていた話し声が急にやみました。西園寺は口の前で指を立てると、二人に静かにするよう促しました。
「ここじゃいろいろヤバいみたいだ。場所を変えよう、さ、乗ってくれ」
とりあえず現場を離れた三人は、駅前通りにある若者達でガヤガヤと煩い丼物店に入り込みました。心なしか少しホッとしているように見えるけどやっぱり心配なのか、何時もの快活さの無いサツキの表情を伺った西園寺は、連絡も無しで不登校だった彼女を責める気にはなれなくて、なかなか会話を切り出すことができません。隣に座っている護は久しぶりの再会がこんな形でやって来てしまった事にさほど戸惑う事も無い風で、しばらくぶりに食べる日本の味を楽しんでいました。
「はぐはぐ……保雄が真桜の担任で来るなんてすごい奇遇だよなぁ……あいつ、学校行ってないんだろ?」
「何だ、知ってんのか?」
「ああ、親父が亡くなった後頼んどいたハウスキーパーにもさっさと暇出してやがる……まあ、皐月ちゃんが結構面倒見てくれてたみたいで助かったよ、真桜の奴、こんないい子放っといて何処ほっつき歩いてるんだか……」
「え……そんな……私は……」
急に話を振られたサツキは真っ赤になってしまって、でもそれで少し緊張が解けたのか、目の前のお茶を手に取って軽くすすりました。染み渡るあたたかさが胸いっぱいに広がって、サツキはノドにつかえている物がすっと取れて行くような爽快感を感じました。うん、話せる、真桜の事……ここにいるのは、みんな真桜の味方なんだ。私、この人たちなら信じられる……
「……ってことは、あの家に姫野は居ないのか?」
「いや、一度戻って来たらしいんだが……」
真桜……聞こえる?……みんな待ってるよ!……サツキは再会の喜びもそこそこに情報交換をしている二人の会話の中に割って入ってきました。
「……真桜はセリエちゃんを助けに一度家に戻ってきたの……私、会ったから」
「湖川?……会ったって、それは本当か?」
「うん、真桜、何か燃えてた……別人みたいだった……」
「セリエちゃん?保雄、誰だそれ」
「はぁ?」
護の言葉に、西園寺とサツキは顔を見合わせました。なぜって、二人ともマオからセリエは自分の従妹だと知らされていましたから……もっとも想像力のたくましい一部の人たちの間では、護が出張先で見知らぬ女性との間にもうけた子なんだと勝手に想像されていましたが……
「あれ、あの子、お前の姪っ子じゃないのか?……ははーん……まあ、年端の行かぬ少女の前では話せるもんも話せんだろう、その話題は後でゆっくりと聞いてやるからな。この色男」
「よく解らんが……で、そのセリエって子と一緒に暮らしてたのか?真桜は」
「うん、すごく可愛がってるの……まるで妹みたいにね」
「真桜が?……あいつ、変な趣味に染まってんじゃないだろうな……」
サツキはマオとセリエの関係を今まで何度も見てきて、その睦まじさをとても羨んでいることもあって、護のデリカシーのない発言がとても許せません。なぜならそれはサツキ自身の想いさえも踏みにじる事になるからです。
「セリエちゃんが来てから、真桜はずいぶん変わったよ……花とか育てたり、バイクになんか乗せてあげてるし……あの子の為なら、今の真桜はきっと何だってすると思う……だから、絶対そんなことないよ……でないと私は……マオの為に何も出来ない私は……」
「皐月ちゃん……」
「くっくっ、お前の息子はなかなか骨があるぞ、まさかあれのエンジンを回せるとはな……」
「な……お、お前!バイクって、まさか、RTに乗せたのか?あれを……」
西園寺は知らん振りを決め込んで料理をかきこんでいましたが、護の眉をひそめた視線をちらっと見ると、丼をどんとテーブルにおいて片肘をつきました。
「エリートのお前に引け目もあったんだろうけどな、あいつはあいつなりにもう走りはじめたのさ……お前とは違う道をな」