31.あかね色に誓って
「もっと……もっと遠くへ……誰もいないところへ……」
ゆったりと流れる川面の輝き、むせる様な草いきれに包まれた河川敷の白い道をもうどのくらい走ったでしょうか。灼熱をもたらした夏の陽も西空へ移り、ゆるやかに走る二人が乗った単車のシルエットは長く長く草原に揺れています、マオに抱かれるようにタンクとシートの間に座っているセリエはその影に向かって手を振ったり鳥のまねをしてみたり……同じ動作を返してくるひょろながい影が面白くてさっきからくすくす笑いっぱなしです。端々がひび割れて劣化しているシートはまるで丸太のように固くて、もとより単車に長時間乗った事なんかないマオの尻はもう限界に達していました。
「あつつ……何か……走るのが苦痛……」
「まおにーちゃん!おそらがまっか!まっかだよ!」
「……もうそんな時間か……」
沈み行く夕日が鮮やかに彩る空を指差したセリエの声に答えるように、マオは河岸に単車を寄せました。遮るもののない一面の草原は燃えるような赤燈色に輝いて、マオはF4を持ってこなかったのを悔やみつつ単車の行き足を止めました。
「ね!きれいね!」
セリエがはしゃいだ声を上げて飛び降ります。それを追い掛けようとシートから立ち上がった途端、例えようのない痺れがマオの腰を包みはじめました
「あたたた……単車ってこんなに尻が痛くなるんだ……何か俺のじゃないみたいだな」
背骨から骨盤にかけての筋肉が極度に硬直していることもあって、マオはよたよたと締まらない開脚で単車を降りました。腰に手をあてて大きく後へと反りかえった頭上に広がる薄暮の空、そこに浮かぶひときわ輝く宵の明星は、朱と藍の狭間に光る白い紫のキャンバスにまるで穴を開けたかのように刻まれて、あたかも空の向こう側に繋がっているかのような錯覚をマオに覚えさせるのでした。
「茜色の空……か……」
「え?このおそらのいろ、あかねいろっていうの?」
手を後で組んで沈み行く夕日を見つめていたセリエは、マオのつぶやきに何か思いついたのでしょうか、ぱっと明るい笑顔で答えました。
「うん、まあ、他にもいろいろ言い方はあるけど」
「おかーさんのいろだよね、あかねいろ」
セリエの何気ない、けれど不思議と染み入るようなコトバはささくれて、固く閉ざされてしまった心からでもその奥に秘めた願いや悲しみを汲み出してくれる……幾度となくその心地よさに癒されて来たマオは、彼女の前では少しずつ本当のキモチを口にするようになっていました。
「……この空を見てると、母さんが見守ってくれてるような気がするんだ……」
マオは優しい目で移ろい行く光の響宴を見つめました。夕刻の風は優しくたおやかに二人を撫でてゆき、その乾いたそよぎは微かに秋の気配をほのめかせながら悠々と草原を渡って行きます。
「うん、ずっとみてるよ、セリエたちのおかーさん……」
「……そうだったな……」
マオはセリエの肩をそっと抱いてあげました。その手を取って寄り添ってくる小さな彼女に感じるあたたかさ、そこには興味も欲望も色褪せてしまうくらいに愛おしい純粋な想いがありました。誰一人として、そう、自分でさえもこの聖域を脅かす訳にはいかない……彼女が傷つく事なんて、絶対あっちゃいけないんだ……マオは理屈や運命からではなく、もっともっと深い所でセリエを認めはじめていました。
「にんげんさまっていいな……こうやっててをつないだりだっこしたり……こころのポカポカ、すぐにわかるもん」
「そ……そうか?……」
「まおにーちゃんにもセリエのキモチ……ポカポカのキモチ、とどいてるかな?」
「え?……う、うん、わかるよ、セリエ」
「ホント?」
「……いや、やっぱわかんない奴の方が多いな、セリエは別としてさ」
マオのやや困惑気味な表情ににまっと笑ったセリエは、握った手をぷらぷらさせながら遠い目で話しはじめました。
「キモチってわかんないね、コトバじゃないから……」
「ふふ、そうだな……俺もわかんないんだ、自分がどんな人間なのかさ……」
「まおにーちゃんはだいじょぶ、セリエ、ずーっといっしょにいたいっておもうもん」
ふと見た傍らのセリエの、自分を見上げるあどけない表情は夕日に照らされて単色の陰影をまとって、そのセピア色の写真のような懐かしい色彩はマオの目に、同じように自分の側にいてくれた少女の像をだぶらせるのでした。
「……もう10年か……皐月の奴、まさかあんな風になるなんてな……」
「?」
「それに比べて俺はまだまだ……だけど……」
「ねえ、おかーさんののこと、ききたいな」
まるで小さいころのサツキが話しかけているような錯覚にちょっと照れくさいマオは、それでも痺れの取れた腰を叩きながら草原に腰をおろすと、今まで顧みることを避けていた当時の自分を思い出して見るのでした。
――うん、ずーっといっしょにいるよ!わたし、マオのおよめさんになるってやくそくしたの!――
夜の病室にひたひたと忍び寄る、もう間近にきている別れのとき……それが悲しくて怖くて震えているマオの手をサツキはしっかりと握りしめていました。心がつぶされそうで何も言えないマオと、かわりにすこししゃくりながら、でも明るく話しかけてくるサツキを茜は笑顔で見つめています。そして固く結ばれた二人の手に血の気の無い細い指をかけて、その将来に祈りを捧げるのでした。
「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように……」
「ぐす……マオママ……けっこんしきみたい……エヘ……」
涙を浮かべながら笑ってみせるサツキの横でマオはただうつむいて、手に触れた白い指の震えるような冷たさが悲しくて……付き添っていた医師たちがひととおりの確認を終えて病室を出ていっても、二人は手をつないだまま微笑みを浮かべて眠る茜の傍らに立ちすくんでいました。マオは人間のかたちをした何かになってしまった目の前の母親を理解する事が出来なくて、ただ取り残されてしまった寂しさと心細さであふれてくる涙を一生懸命こらえていました。サツキは横目でそんなマオの悲痛な横顔を見つめていましたが、やがて感極まってその身体をぎゅっと抱きしめて、何か言おうとしたその唇にそっとキスをしてあげました。
「うん?……」
「ずっといっしょにいるからね……マオ……さびしくないからね……」
「……うん」
「サツキが……サツキがマオのママになってあげる……だから……」
マオは、その時はっきりと茜とはもう会えなくなってしまった事を悟りました。涙がぽとぽとと雫になってサツキの服を濡らして、堪えきれなくなったマオはサツキの手を振りほどいて病室を飛び出していきました。
「マオ!」
――そ……そんなの……そんなのウソだ!――
「まおにーちゃん」
セリエが小さな指で、マオのほほを伝う涙を拭っています。その呼び掛けにふと我に帰ったマオはちょっと焦って笑顔を作ると、照れくさそうに呟きました。
「ちっ……マジ、かっこわりいな、俺……」
「そんなことないよ!だって、なみだはね、つよいのもとなんだよ!」
「?」
「ラファエルさまがいってたの、つらいときにはなきなさいって……いっぱいないて、そのなみだがきえたとき、あなたはひとつつよくなってるからって」
強くありたい……だれよりもその気持ちが大きかったからこそ、あの日以来、慰めの言葉に折れて醜態をさらしてしまう自分が怖くて人との深い関わりあいを避けていた……だからいつまでも母親とのけじめをつけることができなくて、いつまでも立ち止まったままで、泣く事も、すがる事もできずに……でも、今ここにいる自分は年端もいかない少女の傍らで臆面も無く涙を流して、それを恥ずかしいとも思わない……本当に強いというのがどういう事なのかはよくわからないけれど、ただ言える事は今のマオにとってセリエは心の中を共有していられる大切なひと、そのあたたかくておおきな存在を守る為に今、ここに息づいているという事。
「真っ暗になったら動き出そう、夜のうちに、行ける所まで走るんだ」
「え?でも……」
「どうした?」
「……おうち、かえろうよ」
周囲が暗くなってきたから怖いのでしょうか、寂しげな表情のセリエはマオの家が恋しいみたい……とはいえあれだけ騒ぎを起こした現場に戻ったらどうなるかなんて火を見るよりも明らかです。かといっていつまでもこんな河原にいる訳にもいかないし……マオは星の光が揺れるセリエの潤んだ瞳にむけて、言い聞かせるように口を開きました。
「みんながセリエの事を疑問に思いはじめてるんだ。もしかしたらあの警察の人、俺たちを捕まえようとしているのかもしれない……だけど俺は、セリエを渡したくない、ずっと一緒にいたいんだ」
「うん……セリエもずっといっしょにいたいよ……でも……」
「……?」
セリエはマオの腕をぎゅっと握って身を乗り出すと、怪訝な表情のマオに言いました。
「まおにーちゃんには、ずぅーっとポカポカをとどけてくれてたひとがいるもん!だから、もどってあげなきゃだめだもん!」
「セリエ?……」
すっかり日の落ちた高台の邸宅、ちりばめられた無数の街の灯を見下ろすその高い塀の周りには黄色のロープが張り巡らされていて、各々の角には制服を着た警官が周囲に目を光らせています。物々しい警戒を見せる通りに面した中程にある鉄の扉、仄かな電燈の灯るその入り口で、一人の男が人目もはばからずに大きな声で中に向かって叫んでいました。
「自分の家に入れないとは、一体どう言う事なんだ!」
門に立つ二人の警官に阻まれて中へ入る事の出来ないその男は、肩ごしに見える花壇の見事なカーネーションや優々と時を刻む花時計がとても気になるようで、なんとか中へ入れろとすごい剣幕です。業を煮やした一人の警官が無線で何やら連絡を取ると、程なくして中から捜査中の資料をそこここのポケットに突っ込んだ機嫌の悪そうな河森があらわれました。
「……ったく、厄介な非常電源だ、部屋の半分にも入れやしねえ……」
「警部、あの男です、さっきからもう煩くて……」
河森は門の入り口で悪態を付いている男を見ると、やれやれと言った表情で応対を始めました。
「桜丘署の河森だ。捜査中につき一般の立ち入りは御遠慮願いたいのだが」
「一般って誰の事だ!どういう了見でこんな事をする!」
そのただならぬ意志に満ちた真摯な男の表情に、ただの冷やかしかと思っていた河森は面喰らいましたが、確固とした信念を感じさせるその男の出立ちを見て取ると、態度をあらためて職質を切り出しました。
「ああ失礼……話を聞こう、その前にすまないが、名前と年令、住所を確認させてくれないか?」
その男は胸のポケットから英文で書かれたパスポートを取り出して提示しながら、吐き捨てるように言いました。
「姫野 護、44才、日本での住所は此所だ!」
「えっ?……」
「……ったくこっちの捜査と来たら……お前等、不法侵入罪で告発してやる!どけ!」
護は警官を押しのけて庭園へと入ると、その見違えるように整った光景に息を飲みました。捜査用の光源に照らされたカーネーションはより一層鮮やかさをまして見え、非常電源で駆動している花時計はちょうどその電気が止まっていた時間分だけ遅れた時を刻んでいます。
「すごいな……一体誰が……真桜?……まさか……」
護は門の方へ取って返すと、あちこちと無線で連絡をとっている河森に事態の説明を求めました。
「はっきりさせてもらおう、何が起こっている?この状況は……息子はどこにいるんだ」
無線の応対に余念のない河森は手で「まて」の合図をするとひたすら指示を出し続けています。そんな河森の態度が気に入らなくて、護はその無線機を取り上げて大きな声で叫びました。
「おい!状況を知らせろ!」
「流川市にて不審な二輪車を発見、千秋街道を南へ向かって走行中、現在自動車警ら隊が確保に出動している……」
「お前!公務執行妨害だぞ!」
河森はあわてて護から無線を奪い返すと、再びスピーカを耳に当てて報告を聞きはじめました。
「何?こっちへ向かってるのか?あのガキ……少年は?」
「確保ってどう言う事だ?お前等、真桜に何をしている?」
河森は無線への指示を終えると、焦燥している護の眼前に捜査礼状を差し示しながら、妙に不自然な丁寧語で答えました。
「残念ですが、息子さんが事件に巻き込まれているようなのです。少し手荒な事になるかも知れません」