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30.ひたむき従妹にできること

 熱で飽和した息苦しい午後の街の空気の中を、セリエは額に汗しながら脇目も振らずに走ってゆきます。丘陵地に点在する豪邸やホテルをとリまくように伸びていく道は時折空にも届くかのような急な勾配で標高を上げてゆき、それをひとつ越えるごとにセリエは息も絶え絶えになってしまうのですが、自分の身体にまとわりついてくる渇きの風が危機感を煽っているのでしょうか、セリエは座り込みたくなるのを我慢して、ただひたすらにその丘の頂きにあるマオの家を目指しました。熱せられた地表から突然に発生する上昇気流で空へと飛ばされそうになるのを何とか押さえ込みながら、エリシャがその後を追いかけます。

「おっとと……い、いったいどうしたっていうのよ!」

「はぁはぁ……おはな……たいへん……えっと……おみず!……」

坂道を駆け上がっていくセリエはとぎれとぎれにエリシャの問いかけに答えようとしますが、はずむ息に邪魔されて上手く言えません。エリシャは毎度毎度の彼女の何も考えてない故の無謀な行動をやっぱり放ってはおけなくて、何とか理由を聞きだそうと前を行くセリエに言葉をぶつけました。

「もう!急にあんな所から飛びついて来たりして!」

「だって!……はぁはぁ……エリシャ……おおきなはね……だいじょぶ!」

「セリエはね、まだ天使じゃないのよ!借り物のあなたの身体はあんな高い所から落ちたら壊れちゃうの!そうなったらね、セリエ、あなたは消えてしまうのよ!」

「……へへへー」

エリシャの言う事がわかってるのかわかってないのか、セリエはちょっと照れたような笑いを浮かべましたが、それで彼女の行動が止まるわけでもなく、踵を蹴り上げながらただひたすらにマオの家を目指して走り続けました。

「マルルーがいってるの!……はぁはぁ……カーネーション……からからって……」

「セリエ……あなた……」

照り返す輻射熱、容赦なく肌を焼く午後の太陽の中、気が遠くなりそうなのを何とかこらえて坂を走って登って来たセリエの前にやっと、見覚えのある高い塀と大きな鉄の扉が見えてきました。

「ついたッ!みんな!すぐおみずあげるからね!」

セリエはその小さな身体のどこに元気が残っていたのかというくらいの大きな声を上げながら、開け放たれた鉄の扉の中へ飛び込んでいきました。


 中学校から続く裏道を息を切らせて登ってゆくマオは、階段の続く急登をやはり自分の家を目指して駆け上がっていました。ほぼ直線的に自宅の真下に出てこられるこのルートは確かに一番最短距離ではあるのですが、連続する急な階段と鬱蒼とした木立の中という理由からかほとんど人通りはありません。マオも全力でここを昇るのは初めてで、あらためてその身体に加わる負荷に関節を軋ませていました。

「はあ……くっ、キツいな……おぇ……でも!……」

「ま……真桜!?」

舗装された車道を横断して反対側の斜面の階段に取り付こうとしていたマオは突然自分を呼ぶ声にびくっとして、つんのめるように立ち止まるとその声の方を振り向きました。蝉時雨の降りそそぐ木陰に立つ首をかしげた人影……そこには白い夏の制服が眩しい、ちょっと髪にくせの残ったままのサツキの驚きの表情がありました。

「まさか……でも……よかった……真桜……」

サツキは無事なマオを目の前にしてホッとして嬉しくて……でも心に深く落とされた影のためでしょうか、その後の言葉がなかなか出てきません。唇を震わせて何か言おうとしているサツキの安堵の表情にマオは何だか不思議な高鳴りを感じましたが、今はそれ所じゃない事を思い出して、荒れた息でむせながら急かすように聞きました。

「あ、あのさ……はぁ……セリエのやつ、見なかった?」

「え……あ……うん、見てないよ」

「はぁはぁ……くそ……無駄に元気だからな、あのチビ」

追いつかない呼吸、鋭い眼光……何だか鬼気迫っているまるで別人のようなマオの表情がサツキはちょっと恐くて、まだしばらく声を掛けれずにいましたが、丘の上の自分の家を凝視している熱く滾るその瞳を見ているうち、さっき自分がマオの家の前で遭遇した出来事が不意に眼前に甦って来ました。解錠された鉄の扉、侵入してゆく捜査員、そして、あの警部……目に焼き付いたその危険な状況はサツキの心を縛っているあらゆる呪縛を突き抜けて、マオへ届く声になりました。

「そういえば!」

突然のサツキの大声に、マオは少し距離を置いたままの彼女の方へ顔を上げました。

「……何だ」

「今、真桜の家にお巡りさんとかいっぱい来てる!それも勝手に入って行ってるよ!」

「畜生!ヤバいな……セリエ、捕まってなきゃいいけど……」

「捕まるって……何か悪い事したの?あの子……」

「ごめん、俺、行ってやらないと……」

マオは居ても立ってもいられないのでしょう、サツキの追求を振り払うように駆け出そうとしましたが、何か思い出したかのように急に向き直ると、ポケットから一本のフィルムを取り出しました。

「俺、今からどうなるかわかんないから。これ、この前の祭の日のネガ、皐月、持ってて」

「この前のって……まさかあの時の……あの写真……?」

「わざとじゃなかったけど……でも同じ事だよな、だから、これは皐月が持ってるのが正しいよ」

「真桜?」

「気をつけて帰って!」

そう言うとマオはフィルムをサツキの手に握らせて、飛ぶようにその場から駆け去りました。後を追おうと手を伸ばしたその先の角で、サツキはマオが一人の男に捕われそうになるのを見ました。

「君!姫野真桜だな!」

「ちいぃ!」

切り返して反対側の路地の急な階段を駆け上がってゆくマオと、それを追いかける男を影でこっそり見ていたサツキは、預かったフィルムを握りしめて小さく震えていました。真桜は……真桜はどうして追われてるの?……どうしてこれを私に預けるの?……真桜……今、何を見ているの?……サツキは今まで見た事のないマオの姿に動揺しながらも、託されたフィルムに彼の本心を問いかけるのでした。


「みんな!あつかったよね!それーっ!」

ホースから吹き出す七色の飛沫が深紅の花弁に降り注いでいくのを、河森は不可解な表情で眺めていました。水圧に踊らされながらも一生懸命に花壇の隅々にまで水やりを続けている目の前の少女……それは確かにあの写真の子、セリエに間違いありません。もちろん河森は被疑者として彼女の身柄を確保しようとしているのですが、その屈託のない笑顔はあまりにも調書を取った少年……宮武の証言と懸け離れていて、河森は次の行動に苦慮していました。

「セリエ……日本人じゃなさそうだが……見てみろ、普通の女の子じゃないか?……この子のどこにあんな、骨を折るような力があるというのだ……」

河森は折角掴みかけた確証に疑問が湧いてくるのをどうすることもできずに、それでも何とかしっぽを掴んでやろうとその一挙手一投足に鋭く目を光らせています。本当なら宮武と同じように拳を振るって、その時彼女に何が起きるのかを確認したいのですが、もし何も起きなかった時の事を思うと……そんな河森の視線の意味などまったく気がついていないセリエはずっと見つめられてると勘違いしてか、いちいち気にしてはへへっと笑ったりホースの水を飛ばしてみたり……そのうち我慢できなくなったのかすたすたと駆け寄って来て河森に話しかけてきました。

「ねえ、どうしてかだんのおみずのシュワシュワでないのかな?」

「しゅわしゅわ?」

「あのね、まおにーちゃんが5かいでるようにしたよっていってたの」

「ああ……スプリンクラーの事か、あれは電気がこないと動かないよ。今は都合でちょっと止めさせてもらってるから」

「ふーん、じゃ、セリエががんばらなきゃね!」

「そうだね……あ、そういえば、おにいちゃんは?」

「……おいてきちゃった!」

セリエは河森の質問に素直に答えてきました。これならあの祭りの夜の事とか、今マオが何処にいるのかとかすんなりと聞き出せそうだ……自分を見つめる澄んだ瞳に後ろめたさを感じながらも、その裏に潜む彼女の素性を掘り起こそうと慎重に言葉を選んでいる河森のイヤホンに、とぎれとぎれに捜査員の声が飛び込んで来ました。電波の状態なのかとても聞き取りにくいのですが、誰かを追跡中なのは何となく察する事が出来ます。河森はセリエに感づかれないように小声でそのコールに応えました。

「……どうした?」

「警……姫野……そちらに……」

「電波が悪いな……(まて、少年を見つけた?)」

「セリエ、まおにーちゃんむかえにいってくるね!」

「ま、待て!」

駆け出そうとするセリエの肩を河森はわし掴みにしました。その強い力はとても小さな子には抗う事なんか出来なくて、セリエはその行動に河森の心の裏にある自分への疑惑を感じ取ったのでした。

「今大事な調べ物をしてるところなんだ。それでね、せりえちゃんにも知ってる事、色々教えて欲しいんだ」

「……セリエ、まおにーちゃんにあいたい……」

突然拘束されて驚いているセリエの警戒心を解くように、河森は柔らかな口調で話しはじめました。でも気がつくと独りぼっちになってしまっている事に気がついたセリエは不安で不安で、今にも泣き出しそうです。

「まおにーちゃん……ぐす……」

涙目で自分を見つめているセリエに苦笑いをした河森は、それでも彼女との会話を続けるために温厚な人柄を演じ続けるしかありません。いささか子供だましな納得のさせ方だとは思いましたが、河森はセリエが喜びそうな事を言って取りあえず安心させようと口を開きました。

「お兄ちゃん、今呼びに行ってるからすぐ来るよ!それにしてもここは暑いな、玄関のところの日陰に行こうか。おい君、何か飲み物買って来てくれ、あ、アイスがいいかな」

河森は捜査員にお使いを頼むと、セリエを伴ってテラスの方へと歩いて行きました。その様子を足下の換気口から追っている二つの目……その憤怒に満ちた眼差しに気づいた者はまだ誰もいませんでした。


「無茶な連中だぜ!冷蔵庫だってあるってのに……」

薄暗い配電室の中で、マオは侵入して来た捜査員達に怒りをあらわにしていました。通電時施錠型の非常口を開けるのに送電を止めるなんて……でもそのおかげでもう一つの地下室用非常口から気づかれずに入り込めた訳ですが……マオは河森が軟禁同然のセリエからいろいろ聞き始める前に何とか彼女を連れ出そうと、地下の一室にある古ぼけた非常用発電機の始動に躍起になっていました。電気が通ればこの部屋の隣にある車庫の戸が開く……そこには数えきれない手のマメや足首の捻挫の末に獲得した自分の翼、トレールRT360が鈍い光沢を放ちつつ目覚めの時を待っているのです。マオは重いフライホイールを回す把手に手を掛けて、全体重をかけて押し下げようとしました。何度か父親の誘いで挑戦してみたけれど一度も回せなかったハンドル……けれど今日はマオの想いの強さなのか、それとも知らないうちに大人の力が育っていたからなのか、軋む音とともにゆっくりと回りはじめました。マオはその初動を止めまいと全身の筋肉を沸騰させて力を加え続けます。1回、2回、3回……軋む音がなくなり空気が反響するようなイナーシャスタータの音が部屋を包みはじめ、その音はマオの昂りを加速させ続けるのでした。今や始動に十分な回転数を確保したフライホイールを汗だくの顔で確認したマオは、その隣の燃料コックをONにして接続レバーに手をかけました。昔停電した時の、懐中電灯に照らされた父親の姿がマオの脳裏に甦って来て、それを辿りながら間違いがないか記憶を追ったマオは、西園寺譲りの不敵な笑いを浮かべつつ呟きました。

「回らなかったらまた初めからなんだよな……ふん、コンッターク!」

硬質な手応えとともにレバーが押し込まれて、蓄積されたマオのエネルギーが一気にクランクシャフトへと突入していきました。笛のような吸気音、何度かの咳き込むような初爆のあと、発電機は低いうなりを上げながら稼働を始めました。

「ま……回った!」

マオは急いで隣の車庫へと走って行って出口の扉のスイッチを入れると、RT360に跨がりキーを捻りました。さっきの大仕事に比べればこいつのエンジンは軽いもんさ!マオはキックペダルを操って素早く上死点を見つけると思いっきり踏み抜きました。開いてゆく車庫の扉からの眩い外光へ向けて、始動したマシンからの排気が吸い込まれるように表へと拡散して行きます。定格の電力が供給されはじめたマオの家は次々とその機能を復旧させ、それは部屋の奥深くに入り込んだ捜査員の脱出を困難にしてゆきました。

「何だ!何が一体……」

狂ったように散水を始めるスプリンクラーや、イヤホンに殺到する捜査員の焦燥に満ちた無線に呆気にとられている河森に向かって、一台の単車が暖気もそこそこの煙幕のような排気煙を撒き散らしながら猛然と突っ込んできます。思わず怯んだ河森に反して、セリエはその粗野な力の塊に向かって駆け出してゆきました。

「しまった!おい!戻れ!」

「まおにーちゃん!」

「セリエ!来い!」

後輪を大きくスライドさせて止まった為に巻き起こった砂煙がへたりこんだ河森の視界を奪っているうちに、マオとセリエはしっとりと潤う花壇の花々の間を抜けて表通りへと脱出しました。ここからは公道……マオにとっては物凄いリスクです。上体を少し揺すって、腰の辺りをしっかり握っている手の感触を確かめたマオは、セリエに向けて笑いかけました。

「ぶっ飛ばしちゃおうか?」

「ウン!おみずあげたし、それにね、あのひとたちね、なんかヘン!」

「ハハ、確かにな、ちゃんとつかまってろよ!」

「しゅぱーつっ!」

「くそっ!」

煙と砂塵に邪魔されていた河森がようやく庭の入り口の鉄の扉までたどり着いた時には、もうマオとセリエの姿はどこにもありませんでした。相変わらず耳元で騒ぎ立てる阿鼻叫喚の声に辟易として腰の無線機のチャンネルを切り替えた河森は、苦い顔をして本署へ救援の要請を入れるのでした。

「ちっ、情けねぇ……河森だ、桜丘区に非常線、そう、封鎖だ!」

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