28.逆行してゆく夢
「警部、ありました。最後の方に女の子が写っています」
殆ど人が出払って机のみが整然と並んでいるオフィスの一角で、何種類もの台帳に目を通している河森の所に科捜研の所員がネガと焼きつけた写真を持って訪れました。切らずにくるくると巻かれたままのフィルムはモノトーンの滑らかな輝きを放っていて、河森は差し出されたそれらの資料を手早くチェックすると、人物が写っている数枚を開いた本の間に並べました。
「……間違いない、確かにあの娘だ……セリエ……とか言ってたな」
「ご存知なんですか?警部」
「いや、何一つ知らないよ、はは」
河森は今までのセリエとの遭遇が不可解な事で溢れているのが面白くありません。突然びしょぬれで噴水に現れたり、非常階段の回廊を不思議な歌と光で満たしたり……河畔の水辺で無邪気に笑うセリエのポートレートを見つめながら、河森は繋がらない仮説をノートに記しては×印を付けていくのでした。
「この子の素性はまだ解らないのだろう?」
「ええ、髪からのDNA判定はまだですが、コップからの指紋、そしてこの写真から照合した結果、少なくとも国内で該当者は0です。ただ……」
「ただ?何だ」
河森は椅子をくるっと回すと、ちょっと頑丈そうな封筒を手に携えた科捜研所員の方に向き直りました。
「これは私見なのでお見せしようかどうか迷うのですが……英国の犯罪記録にひとつ、気にかかる物を見つけまして……」
「構わん、見せてくれ……ずいぶん古い物だな……1964年……!?」
古い写真の貼付けてある手書きの書類の写し……河森は、その褪色の進んだモノクロの写真を見て愕然としました。そこに微笑む小さな女の子……それはさっき所員から受け取ったポートレートのセリエと同一人物でないかと思うくらい酷似していて、瞠目した河森は慌てて所員に詳細を訊ねました。
「犯罪記録って言ったな、どういう事件なんだ?」
「誘拐殺人ですね……セリエ・ブライトン、1959年生、1964年、自宅近くの路上にて行方不明となる。死因は溢死……」
「セリエ……だと……?」
河森は言葉を失ってしまいました。もちろん今となってはこの二人の同一性を確かめる手段などありはしないのですが、それでも偶然とは言い難い瓜二つの風貌や名前は、彼の論理的思考を狂わせるのに十分な事実なのでした。
「もしもそうなら……なんと忌まわしい……」
デスクの端末が発する短く連なるトーンが閑散としたオフィスに響きわたっています。それが聞こえているのかいないのか、二つの写真を見比べて微動だにしない警部を見かねて、所員はおもむろに受話器を取りました。
「はい……はい、居ります……ああ、わかりました、すぐ向かわせます」
「ん?……あ、電話鳴ってたな、何だ?」
「小学校の通りの交番で保護したあの少年、聴取に来庁されたそうです」
「ああ……何者かに指を折られたとか言うアレか……見せてみるか」
河森は手にした写真をポケットへ入れると、早足でオフィスを後にしました。
洋服ダンスからありったけの衣類をボストンバッグに詰め込んで、それとF4の入ったジュラルミンケースを携えてマオは自分の部屋から出てきました。玄関では麦わら帽子をかぶったセリエがわくわくした表情で待っています。まるで旅行にでも行くかのような期待に満ちたその表情に、マオは自分の危機感がともすれば夢の世界での出来事のように思えて来るのですが、あの事故現場を撮ったフィルムの残りの数カット……本当に久しぶりの、心から被写体を可憐に残したいという気持ちでシャッターを切ったポートレート……それがよりによってあの警部の手元にある事を思い出すとさすがに気が気ではありません。マオはセリエを連れてテラスへと出てくると、玄関のロックを入念に確認しました。
「まおにーちゃん、おでかけのあいだ、おはな、だいじょぶかな?」
「うん、1日5回散水するようにしておいたから……ハハ、やりすぎかもしれないな」
「ありがと!じゃあ、しゅっぱーつっ!」
黒い鉄の扉を塞ぐように止まっているワゴン車に、マオとセリエはそそくさと乗り込みました。運転席ではサングラスをした西園寺が何気ない素振りで周囲に注意を払っています。
「ヤバそうな物はみんな持って来たか?」
「そんなのないですよ」
西園寺はこの家で孤立してしまいそうなマオとセリエの身を案じて、自分の家へ匿おうと進言して来たのでした。初めは花壇や花時計、それから地下の書庫といった心の寄りどころを放棄するなんて……と頑に断っていたマオでしたが、西園寺の、セキュリティが確保してあるとはいえ公務とあればそんな物など何の役にも立たないという言葉を聞いて、ここは彼の好意に甘える事にしたのです。マオはボストンバッグをシートの後に放り投げると、機材ケースから一本の撮影済みフィルムを取り出しました。
「……これだけは自分で持ってないと……」
「ん?何だ、まだ未現像のフィルムがあるのか?」
神妙な面持ちでパトローネを見つめるマオをミラー越しに見つけた西園寺は、身を乗り出して聞いてきました。
「あらら、TX400か……どうする?この辺じゃじいさんの所でしか現像できないぜ」
「……でも、今はあそこには行かない方がいいんだよね……」
「ああ、当然張ってるだろうな……で、没収ってわけだ」
マオはフィルムをぐっと握りしめました。
「……これだけは……誰にも見せちゃいけないんだ……」
「んー?何撮ったんだ?」
「先生には関係ないよ」
変に険のあるマオの物言いに西園寺は一瞬おやっとした顔をしましたが、それがトライエックスである時点で何を捉えたものであるのかは自ずと理解できました。マオはそんな西園寺の追求を逃れるように掌中のフィルムを胸のポケットへとしまい込みました。
「フン、そろそろ行くか」
動き出したワゴン車は、駅とは反対方向の坂道をゆるゆると下って行きます。後の窓から手を振って離れて行く我が家に別れを告げているセリエの横で、マオはあの時……雨降りの祭りの日に送ってもらった時と同じ席に座っている自分の、その周りに甦ってくる思念や光景にそれぞれ答えを見いだそうとしていました。
「じゃあ、夕方、小学校のハトの像の所に来てくれる?」
ふっ、俺を誘ったんじゃなかったのかよ……コソコソとイチャつきやがって……
「お前、ふざけるのもいい加減にしやがれ!この、ド変態カメラオタクがぁ!」
だから変態はお前だっていつも……はぁ……皐月の奴、ああいう男が趣味だったとはな……
「え?ほんとにでてきてくれたの?マルルー、セリエたち、まもってくれたの?」
ああ、出てきたさ……その時の宮武の顔といったら!……でも、何であいつ、あの後どっか行っちまったんだ……皐月放ったらかして!
「あ、おねーちゃんだ!おーい!」
ワゴン車の左前方に、シートから立ち上がってペダルをこいで上ってくる自転車の少女を見つけたセリエは、隣の席のマオを乗り越えて窓際へ行くと、身を乗り出して大きく手を振りました。
「おい!こら!わざわざ呼ばなくても……イテッ!顔出すな!」
「え……?」
急な坂道を息を切らせて上っていたサツキは、不意に自分を呼び止める声にびっくりしてまわりをきょろきょろ見回しました。その横にゆっくりと止まったワゴン車から顔を出したセリエは、いつものキラキラした笑顔でサツキに話しかけました。
「サツキねーちゃん!セリエたちね、いまからおでかけなんだ!」
「あ、セリエちゃん……真桜も!?」
サツキは思わずちょっと身を引いてうつむきました。一瞬目が合った車内のマオもチラと確認しただけで、すぐ視線をそらしてしまいます。セリエはそんな二人の不可解な行動が理解できなくて、サツキにも一緒に来てもらおうと誘いました。
「あのね、うちにふたりだけじゃあぶないってせんせいがいうの!だからしばらくかくれんぼだって!ねえねえ、サツキねーちゃんもいこうよ!」
「バカ!余計な事言うな!」
セリエのおしゃべりに思わず身を乗り出したマオは、窓際に張り付いているセリエをひっぺがそうと手をかけました。ところがその手がちょうどツボにしっかりはまってしまったセリエは、くにゃくにゃになりながら笑い転げはじめました。
「ひゃひゃははやめてやめてーーーくす、くす、くすぐったーい!」
「ああもう!」
セリエを押しのけて窓際へと座りなおしたマオは窓の外の、その光景を少し距離を置いて無表情に見つめるサツキに気がつきましたが、やはり一瞥しただけで、でもさすがに二人の間に淀むどろどろした空気が我慢できなくて、ぶっきらぼうに口を開きました。
「……はぁ、バレバレじゃねえか……ったく、お前らの垂れ込みのおかげでいい迷惑だぜ」
「わ……私……わかんない……言ってる事、わかんない……」
「ふん、とにかく、俺とセリエにはもう関わるな。でないと……」
サツキはマオの冷たいナイフのような言葉に声も出せずに、ただじっと疑惑を宿すその表情を見つめました。だんだん揺らいで、ぼんやりとしてくるその姿はあたかも自分からどんどん離れて行ってしまう幻のようで、でもここで泣いてしまって見失ったら、もう永遠にマオに会えなくなってしまうような気がして、ぐっと涙をこらえて言いました。
「……うん……ごめんね……ただ、お礼が言いたかっただけ……約束、守ってくれたから……来てくれたから……ありがと……」
そこまで言うとサツキはもうたまらなくなってしまって、自転車に跨がると元来た坂道を慌てて下って行ってしまいました。マオの表情、そしてその言葉……明らかに自分と宮武との関係を誤って認識しているのがわかっても、疑われるような事態を招いてしまった自分の心の隙が許せないサツキは、それを弁明するだけのマオへの想いを見つける事ができません。ただあとからあとからあふれて、風に散ってゆく涙……サツキの気持ちはだれにも伝えられる事なく、青く高い空へ舞ってゆきました。
「……まおにーちゃん、おねえちゃん、キライなの?」
再び走り出したワゴン車の中で、険しい表情のマオにセリエが心配そうに聞きました。てっきり「約束破ったな!」とか、「あの恥ずかしいネガ返せ!」とか吠えられるだろうと思っていたマオは、サツキの拍子抜けするくらいしおらしい反応に妙な胸騒ぎを感じ始めていました。女って……一体、何を考えてるんだ……様々な妄想が増縮して虚ろになってゆくマオの耳に、まとわりつくようなセリエの声が流れ込んできます。
「ねーえーまおにーちゃんてばー」
「あ?……な、なんとも思ってねえよ!」
「じゃあスキ?」
「おま……何とも思ってないって言ってるだろ!」
「あー!うふふ、セリエわかっちゃった!」
「何がだよ!」
「いやいや、色男はつらいねぇ、ところで……」
後席で繰り広げられる陳腐な問答に苦笑いをしていた西園寺が、冷やかすように口を挟んできました。マオはその物言いにムカつきながらも、何か重要な事柄に続きそうなその語尾に聞き入りました。
「……お前、どんな事件か知ってるか?被疑者連続変死事件の事……」
「ええ、じいちゃんが話してくれた事が……ふざけて『天誅ぢゃ!』とか言ってましたが……」
「はは、茂雄さんらしいなそれ……でも、お前もそう思ってるんだろ、姫野」
マオは無言で、ミラー越しに映るサングラスを見返しました。その口元が自分のそれに良く似た不敵な笑みを浮かべているのを、西園寺はとても嬉しく思いました。
「指定事件127号……ですか」
聴取を終えて、オフィスへと戻って来た河森は確信を持った表情で、待っていた科捜研所員に詳細を報告しました。
「ああ、こんなオカルトめいた見解など非科学的だと思うがな」
「保釈とかで娑婆に戻って来た被疑者が謎の死を遂げるっていう……ああ、そういえばこの前事故死した会社役員も……」
「うん、別件で捜査中の愛人との別れ話があったらしい……彼女の無念を晴らしてやりたかったが……」
河森はデスクに調書の入ったファイルを無造作に投げると、さんさんと降り注ぐ陽光が強い陰影を刻む外の景色を眺めました。駅前にひときわ聳える60階建てのオフィスビル……そこでの現象をどうやって証拠に結びつけようか、河森は軽くため息をつきました。
「……きょう取調べした少年だが、確かにセリエにやられたらしい……君の写真を確認してもらったよ」
「え?あんな小さな子にですか?」
「……彼女の中から、バケモノが出て来たんだと」
「バケモノ……」
所員は言葉もなく、デスクに散乱した写真や資料を見なおしました。
「それから、その子といつも一緒にいる少年がいるんだが……もう亡くなられている彼の祖父も含めて、最近の127号事件の現場での目撃例がいくつもあるんだ」
「警部は……ひょっとして、その線で考えておられるのですか?」
「ん?河森か、ちょうどよかった」
所員と話している声に気がついて、ちょっと離れたデスクでノートPCを見ていた同僚が立ち上がって河森を呼びました。
「例の件の札、届いてるそうだぞ。しかしよく下りたもんだ……何か掴んだのか?」
河森は同僚と、訝しげな表情の科捜研所員の方を向いてニヤッと笑いました。
「だから、確かめなきゃいけないのさ。本格的に」