25.暗躍
「この……この胸の感じは……ぐっ……」
暗い階段を機材を抱えて部室へと向かっていたマオは、不意に訪れた得体の知れない胸の痛みに思わず踞ってしまいました。蒸すような夜だというのに身体からは冷や汗がぞっと湧いて来て、心臓が跳ね回るように鼓動を早めて行きます。セリエはびっくりしてマオのそばに駆け寄りました。
「まおにーちゃん!ど……どうしたの!?」
「ハァ……ハァ、何だろう……胸が急に……!」
「おーい姫野、もうへばったのか?」
先を行く西園寺と部長が振り向いて、やれやれといった顔で声をかけます。でもマオはその声に答える事が出来ません。西園寺は仕方なく自分の荷物を部長に任せるとマオの所まで階段を戻って来ました。
「どれ、俺が手伝ってやるから……って、これだけ?」
西園寺はしゃがみ込んでいるマオの抱えた荷物を見て唖然としました。マオの持っているのは自分のカメラ関係だけ……いつも彼が持ち歩いてるその荷物が苦になるとはとても思えない西園寺は、心配になってマオの顔を覗き込みました。
「おい、どうした?具合でも悪いのか?」
マオは西園寺の言葉など全然聞こえてないのか、疲弊した目で闇の一点を凝視し続けていました。心臓をえぐり出すかのように胸に立てた爪、澱んでゆく意識……目の前の闇に蠢く色素のノイズは、マオの目に次々と自分の過去の一瞬をフラッシュバックしていきました。
「病院……サツキもいる……母さん?……え?そんな……ねえ、目を開けてよ……そうだ、じいちゃん、母さんを助けて!……あれ、何で倒れてるの?……頭から……頭から血が……まだ、まだあたたかいよ!……やめてよ、ぼくをひとりにしないでよ……ほら、きれいな夕日が見えるから……あ、あんな所に男が……邪魔だなあ、ここは僕だけのお気に入りの場所なのに!……あ、女の人もいる……え?殴られてるじゃないか!だめだ、力づくなんて……ナイフ!?……いけない!そんな事したら!……」
「おい!姫野!しっかりしろ!」
西園寺に激しく肩を揺さぶられたマオは一瞬感電したかのように硬直して、やがてへなへなと傍らの西園寺の方へ顔を向けました。
「何惚けてんだ?まだおネンネの時間じゃないだろう」
「先生……胸が……あ、痛くない……」
マオは、軽くなった胸で深呼吸をひとつするとすっと立ち上がりました。西園寺はあわててその身体を支えてやろうと手を差し伸べましたが、マオはちょっと照れて横を向きました。
「大丈夫です……でも……」
「いや、心臓かも知れんぞ。一度病院で見てもらった方がいいかもな……救急車、呼んでやろうか?」
「救急車……」
マオの脳裏に浮かぶ、重篤の母を搬送してゆく救急車の滲んだテールライトとサイレンの音……祖父の帰りを待っていた時に飛び込んで来た、肩で息をしているガンじいのとぎれとぎれの言葉……夕焼けの廃虚ビルで偶然見てしまった男女の諍い、そしてその終局……それぞれの場面でマオの心を締め付けた痛み……さっきの、胸がみしみしと潰れていくような冥い痛み……マオは急にカメラバックを開けると、F4のフィルムを巻き戻しはじめました。
「もう抜くのか?まだ10カットも撮っちゃいないぜ」
西園寺の言葉をまたも無視しつつ、マオは天体を撮影したネガをF4から抜き取りました。そして横のポケットから「400TX」を取り出すと手早くスプールに巻き付けて裏蓋を閉めました。西園寺は闇の中でとは思えないその手さばきに感心しながらも、マオの鬼気迫る気概に掛ける言葉を見つけられないでいました。
「まおにーちゃん、だいじょぶ?」
「ああ、セリエは先生と一緒にいろ。」
「えーーーー?」
「何だ?姫野、預かるのは構わんがどこへ行く気だ?」
マオはF4をズームレンズに換装すると、カメラバックを西園寺に押し付けました。
「これ頼みます」
「おい!」
呼び止めようとする西園寺に、小走りで階段を降りて行くマオは鋭い眼差しで答えました。
「DEVIL……誰かが!」
降り出した雨が、中途半端に片付いたお祭りの露店をしっとりと濡らしていきます。人っ子ひとりいなくなった小学校の校庭、さわさわ、さわさわと風に乗って漂う霧のような雨粒は軒下にまで降込んで来て、濡れるのを嫌ったサツキは仕方なくもっと奥の、外からは見えない暗い一角へ移動しました。
「あーあ降って来ちゃった……どうしよう、これじゃ帰れないなぁ」
「しばらくしたら止むかも知れないぜ。雨宿りしてったら?」
「宮武君はどうするの?」
「俺も傘ないし……でも湖川、何で一人なの?」
背の高いサツキを見下ろすくらいの長身の宮武は、腰に下げたキーチェーンをちゃらちゃらいわせながら少し離れて立っています。気を使っているのかな……でも、時折ちらちらと艶やかな浴衣と素肌との境界を気にしている彼の目線に、サツキは気がついてはいません。ただ結局待ちぼうけで、挙げ句の果てに雨で立ち往生している今のサツキには、彼の存在はとても心強いものなのでした。サツキは陰鬱な気分を晴らすように宮武に話し掛けました。
「うん……待ち合わせしてたんだけどね……一人で舞い上がってただけみたい、私」
「すっぽかされたの?ひでー奴だなぁそいつは……しかもこんな雨降ってるのに迎えにも来ねーのかよ」
「もともと私が無理に頼み込んだんだし、それにこんなに雨降るなら来なくて正解だったよね」
「ふーん、それで湖川は許しちゃうの?」
さりげなくサツキの隣に立った宮武は、サツキの肩が小刻みに震えているのに気がつきました。でも表情は別に泣いているわけでもなくて……良く見るとサツキの髪からは玉のような雫がぽつり、ぽつりと落ちていて、雨とともに訪れた冷ややかな空気がそぼ濡れた浴衣からどんどん体温を奪っているようです。宮武は自分のよれたシャツを脱ぐとサツキの肩へ掛けました。
「……宮武君?」
「寒いんだろ、これしかないけど我慢してな」
サツキはゆらゆらと心が揺らめくのを感じました。はっきりいって今までは宮武のことなんか何とも思ってなかったし、こういう変に女性慣れしているようなタイプは大嫌いだったのですが、ぽっかりと開いた心の隙間に入り込んでくるような今の宮武の言葉と行動はサツキの境界線をするすると抜けて、とげとげした警戒心を覆い隠していきます。宮武は気付かれないように後に手を回すと、震えている肩をシャツ越しに抱きました。
「!……」
一瞬すくんだサツキですが、なぜか声が出て来ません。恐いのでしょうか?宮武の体温が肩を通じて身体へと伝わって来て、サツキはひどい嫌悪と同時に得体の知れない征服感を覚えました。逃れたいけど逃れられない、恐さと表裏一体の奇妙な満足感……サツキの心はすぐそばにあるおおきな力に身を委ねたいという欲求と、小さいころからずっと想っていた存在への貞操との間で激しく揺れ動くのでした。何も語らない静かな時間がどれほどか過ぎて、さすがに気恥ずかしくなったのか、サツキは軽く身をよじって宮武の手から逃れようとしました。
「……あの……ありがと……もう大丈夫だから……」
大きな手がサツキの肩を離れようとした瞬間、宮武はもう片方の手でサツキの身体を引き寄せて正面を向かせました。息を飲むサツキ、宮武はその大きな腕でサツキの腰を引き寄せてきつく抱きしめました。予想外の出来事に抵抗も出来ず、声すら出せないサツキ、そんなサツキの顔に、宮武は自らの欲望を重ねました。
「あいたッ……まただ……くっ」
ぴしゃぴしゃと雨降りの小学校の校庭を走っていたマオは、再び訪れた胸の痛みに思わず立ち止まってしまいました。F4が濡れないように前屈みになったマオは、雨音の中から何かの気配を感じようと息を殺してまわりの音に集中しました。
「どこだ……近いはずだけど……今度こそ鮮明に捉えてやるんだ……急がないと……はあぁ、苦しいな……」
マオは気持ちは焦るのですが、キリキリと心臓に穴を開けられていくような痛みをこらえるので精一杯で、それはまるでマオが来るのを阻む為の呪いのように執拗にまとわりついて離れません。見上げた黒い空に雷光が音もなく不気味に閃き、校舎を真昼のように照らし出します。影は生きているかのように校舎を走り抜け、窓ガラスに反射した閃光が振り向いたマオの目を射抜きました。
「くそっ!幻像が……」
網膜に焼き付いた幻惑光を早く消したいマオは目を閉じて、瞼の上を指で押さえてぐりぐりと押さえ付けました。しゃがみ込んだマオの周りを取り囲む闇夜を駆ける雷光の乱舞と単調な風雨の音……その無機質な波長の中にマオは、微かな人の、少女の叫ぶ声を感じました。はっとして顔をあげるマオ、閃く雷光の中で今度は耳を澄まして、今のは幻聴なのか、それとも……
「キャアッ」
「!」
マオの斜め後ろ、そこには職員用の入り口がありました。今の声は多分……マオは雷の閃光を光源に露出を算出すると、前屈みのまま校舎の軒の下に走って行きました。心臓は今にも破裂しそうなくらい打ち響いて、マオは恐怖の予感にがたがたと震えはじめました。
「……今までは撮ったあとで気がついてたからな……でも今日はこれからなんだ……これから誰かが……」
瞬間、長い閃光が辺りを真昼のように浮かび上がらせて、マオは入り口横の奥まった空間に人影を見つけました。咄嗟にシャッターを切るマオ、高速連写モードのF4は24枚撮りのフィルムを数秒で撮り尽くして、マオはその刹那にズームレンズ越しに見た光景に愕然としました。
「皐月……それにあいつは、宮武……」
雷光をバックに長く伸びたマオの影に気がついたのか、こちらを凝視している二人……ゆるんだ帯、着崩れた浴衣を必死で押さえ付けているサツキと、それを暴くように彼女の胸元に手をかけている宮武……マオは自分が今何を見ているのか解らなくなってしまって、ただ呆然とその場に立ちつくしていましたが、闇に重なる影のひとつがゆっくりと立ち上がってくるのを見ると、押さえ込んでいた恐怖心が一気に吹き出して来てがくがくと震えだしました。
「な……なんだよお前ら……僕はこんな物を撮りに……くそっ!」
いたたまれなくなったマオは踵を返すと、雨の中へと無我夢中で走り出しました。
「おい!貴様!何撮りやがったんだ!待ちやがれ!」
背後で吠える宮武の声が、マオを更なる恐怖に陥れました。振り向くと宮武が鬼のような顔で向かって走って来ます。マオはF4を抱えて必死に逃げました。けれどあの胸の痛みはまだ消えてはいなくて、マオの息はすぐに上がってしまいました。追いついた宮武はマオの首根っこを掴むと、思いっきり殴り飛ばしました。
「ぐ……」
仰け反った目に映る放射状の雨、でも何とか踏ん張って、F4を雨の中へ落としてしまうことはどうしても出来ないマオは2.3歩ふらつきながら後ずさりすると、立て膝をついてかがみ込みました。
「お前、ふざけるのもいい加減にしやがれ!この、ド変態カメラオタクがぁ!」
今度は鋭い蹴りが顎にめり込んで、マオは気が遠くなりかけました。こいつ……今日はマジで僕を……そ、そうか……今日のDEVILの餌食って……
「お前みたいな奴は世の中にはいらねんだよ!ああ!だから消えちまえ!」
憤怒にあふれた大振りな拳が半円を切ってこめかみを穿ち、マオは後方へ吹き飛びました。よろよろと倒れ込み、濡れた地面に座り込んでしまったマオ、F4を抱く手の力も弱々しく見上げた先に、激情に歪んだ宮武の顔がありました。
「ケッ!今のお前からそいつを取り上げるのは簡単だが、今日はそれじゃ俺の気分が収まらねえ……ぶちのめしてやる……完全に」
朦朧とした意識にぼやけて届く目の前の情景……降りしきる雨の煙った飛沫……身体を揺すって自分へと近づいて来る宮武…そして、踊るように翻る白い、布のようなもの……ひらひらと……何だ……?
「ま、まおにーちゃんになにするんだ!」
「……!」
マオの精神に稲妻が走って、目の前の滲んだ景色がみるみる鮮明になっていきました。二人の間に立つセリエは、宮武の方を向いてまるでかばうように両手を広げています。マオは驚くと同時に慌てて立ち上がろうとしました。でも酷く痛めつけられた身体は軋んで思うように動いてくれません。マオはこみ上げてくる嗚咽を堪えながらとぎれとぎれに言いました。
「バカ……お……お前なんか出て来てどうする……危ないからどけ……ど、どいてくれ……」
「あのなあチビ、お前に恨みはないが邪魔すんならぶちのめすぜ」
「お……おまえなんかこわくないよ!」
セリエはもう全身ぶるぶる震えながら、それでも宮武から目線をそらしません。その強がりにマオは唖然としながらも、あまりの無謀さに声を荒らげて叫びました。
「や……やめろ!……お前なんかが……セリエ……!」
「どけよこらぁ!」
宮武の拳が裏拳気味に放たれ、セリエは頬に飛んでくる鋼のような塊にきゅっと竦んでしまいました。
「神さま……」
セリエ!大丈夫だ、しっかり立ってて!
「……だれ?」
ドスッと鈍い音がして、セリエの身体が揺らぎました。マオは顔面蒼白となって、倒れ込んでくるセリエを受け止めました。
「ああ……セリエ……」
セリエはマオの腕の中にゆるやかに横たわりました。力なく握られた小さな手、閉じられた濡れた睫毛……でもその顔には特に目立った傷などはなくて、いつもの可愛らしい寝顔を見せています。マオはセリエの胸に耳を押し当ててみました。とき、とき、と規則正しい鼓動に安心したマオは、セリエの肩を抱いて揺り動かしました。
「おい、セリエ、しっかりしろ!」
「……な……何だお前は……!?」
セリエを目覚めさせようと躍起になっているマオの耳に、宮武の怯えたような声が聞こえてきます。そうだ……あいつがいるんだ……マオは宮武の存在を確かめようとおそるおそる顔を上げてみました。そこに輝く不思議な緑色の光……それはどこかで見た事のある色、そう、萌え出ずる花壇の新緑の輝き……
「緑の光……これは……!」
マオは抱きかかえているセリエのペンダントを見てみました。いつも不思議な光をたたえている透き通ったその球……でも今は黒曜石のようになめらかな闇に閉ざされていて、マオは目の前の輝きに引き寄せられるように視線を上へと巡らせました。
「あ……!」
そこに立つ、燃えるような緑色の髪の少年……その左手は宮武の拳をいとも簡単に受け止め、ミシミシと握りつぶそうとしていました。
「く……くそ!離しやがれ!」
怖じけずいた表情の宮武の眼前に伸ばされた右手が鋭い錐状へと変形していき、少年はその先端を宮武の額へと向けました。
「セリエを傷つける奴は、僕が許さない」




