23.憧憬に向かう風
「こりゃまた派手に破いたもんじゃな!まあ、初めはこんなもんさ……大丈夫、踏む位置さえ掴めればすぐに回せるようになるって」
撮影済みのフィルムの処理をしながら、ガンじいはマオの見事にぱっくりとやぶけた靴を見て笑うのでした。その妙に郷愁を感じさせる顔に、まだじんじんする足首を両手で押さえながらマオは何とも不思議な安らぎを感じているのでした。身体の小さな、まして中学生の自分にはまだ難しい事にわざわざ挑ませた西園寺、そしてその失敗を笑う訳でもなく、上手くやる為のアドバイスをくれるガンじい……幼い頃に見ていた祖父たちの粗野で颯爽とした世界……あの時はただ憧れていただけだったけど、今、自分はまさにその世界に踏み込もうとしている……そう思うと、マオは喜びと緊張とで痛さも忘れてしまいそうなくらい興奮してしまうのです。二人とも僕を大人として、男として接しているんだ……マオの頭の中はあの荒々しい鉄騎を手なずけて、認めてくれた二人に応えたいという気持ちでいっぱいになるのでした。
「しかし見事に食らったなぁ……まあ、お前は軽いから関節へのダメージは少ないだろ。下手すりゃ足首が砕けるらしいからな」
「おいおい、いくらなんでも儂と同じ老兵だ。圧縮も下がっとるからそこまではねぇ……」
「……軽いと、やっぱ無理かな?」
ちょっと恥ずかしながらも二人の話に割って入るマオ、うん、すごくいい気分だね!
「いや、体重のせいじゃないんだ、踏む速さとその持続がキモなのさ。やってりゃそのうち筋肉がつくよ。あとスロットル開度、開けすぎちゃダメだ」
「走ったのか?マオは」
「うん……少しだけね」
「難しいか?」
「ふふ……エンストばっか、でも……?」
♪……♪♪……♪……♪♪♪……♪……
ふいに店内にオルゴール調の調べが流れてきました。それを聞いた西園寺はびくっとして、スタジオへ向かう通路の装飾された壁掛け時計の方を振り向きました。
「おっと、こんな時間か!やべやべ」
西園寺はすっと立ち上がると、単車のキーをガンじいに投げて返しました。そして、
「俺、自転車で行くわ。爺さん、無茶させんなよ」
そう言って店内に立て掛けてあったクロスバイクを携えて店の外へと出ていきました。マオはちょっと名残惜しいなと思いましたが、そんな西園寺の切り替えの早さは、マオに「ああ、これが大人なんだな」と納得させるのに充分な行動力と頭のキレを感じさせるのでした。
「先生、どこか行くの?」
「ああ、今からよその中学で研修だ。あ、お前、夏休みは教員も休みだと思ってるだろ」
「そ……そうじゃないの?」
「まあいいさ、俺もお前位の時はそんなの何も考えないでひたすら遊んでたしな……夏!いいなあ!走って、泳いで、覗いて……で、こうなりましたとさ」
西園寺はおどけたように首を傾げて両手を広げると、くるっと振り向いてペダルを踏み込みました。
「俺のはもう抜いといてくれ。早く見たいからな」
照り返しのきつい駅前の道を、おおきな背中が揺らめきに包まれながら遠ざかっていきます。それを見送るマオに、ガンじいが店の奥から声をかけました。
「勿体無い事する奴じゃ!何でもいいから終いまで撮ってきゃいいのに……あ、単車の鍵はレジ横の伝票入れの中にあるから」
「は、はい」
マオは店の奥へ向けて一礼すると、まだこわばりの残る足首をかばうように不格好に走りはじめました。マオもあの時計を見た時から、家に置き去りにしているセリエの事が気になって仕方なかったのです。鋪装も溶けそうな程の強烈な日ざしの中を、マオは丘の上の自分の家に向かってひたすらに走って行きました。
「あれ?真桜?どうかしたの?」
マオの前から軽やかに駆け下って来た自転車が、すれ違い様にそう言ってきゅっと止まりました。振り向くとライトブルーの軽快車に跨がったサツキが、びっくりしたような表情でマオを見ています。短いデニム地のスカートにゆるゆるのタンクトップで、いつも見慣れた制服姿からは想像出来なかった、身体のラインがすっきりと見渡せるその姿にマオは思わず絶句してしまいました。と同時に無意識に硬直していく自分の身体に、理性を失いそうな違和感を感じていました。
「珍しいね、こんな昼間から出かけてるなんて……でも、ちょうどよかった!」
「あ……ああ、皐月か。誰かと思ったよ」
あれ?頭まで硬直してるのでしょうか?マオ君、いつもの無愛想さが全然ありません。しかも名前で呼んじゃったりして!サツキはそんな素直なマオの返事にちょっと驚きながらも、今までなかった反応に秘かなときめきを感じていました。これなら言えるかも!……サツキは一気に本題に入ろうと思いましたが、何だか惚けて自分を見つめているマオの顔を見て少し心配になりました。う−ん、暑くてぼーっとしてるのかなぁ……サツキははやる気持ちを押さえて、マオを覚醒させるべく露骨に明るく問いかけました。
「あれ?そういえばセリエちゃんは?」
「……え?……あ、ああ、あいつ?うん、家で留守番してる」
おおきな声で急に問いただされたマオはどきっとして、ようやく本能の呪縛から逃れました。僕、何か変な顔とかしてたかな……皐月の奴、何か気味悪いくらいニコニコしてやがるし……マオは照れくささを隠すかのようにいつもの斜に構えると、わざと鬱陶しそうにサツキを見て言いました。
「ちょうどよかったって、何か用なの?」
さっきとは違う、いつもの淡々とした口調に戻ったマオの言葉に少しがっかりなサツキ、でも、ここまで来たら言うしかない!サツキ、ガンバレ!
「あ……あのね……今度……星座……撮りにいくんだよね」
「ああ、多分夜中だけどな」
「そ……そうなんだ!よかった……遅いほうが……」
「何だよ」
ああ、何だか迷惑そう……サツキは気持ちがシオシオになっていくのを感じましたが、せっかくの決意が干涸びてしまわないうちにと、心を決めて一気に捲し立てました。
「その日ね、土曜日、隣の小学校でお祭りあるんだ!夜に学校出てくるなら真桜も行こうよ!花火もやるって……」
今まで毎年言ってた事なのに今日は何だか恥ずかしくて、つい下を向いて喋ってしまったサツキは途中でそっと顔を上げてマオの顔を見てみました。目の前にはいつもの無愛想な面持ち……けど何となく今日の、そのゆるい空気に包まれてるようなあいまいな表情は暑さのせいなのでしょうか?それとも……
「わかった」
「え?」
サツキは思わず耳を疑いそうになりました。だって今まで何度も誘って来たけれど、人が楽しそうにしている所には絶対行きたがらないマオの事、今年もNGだろうと思っていたところにOKの返事……信じられないサツキはもう一度聞き直してみました。
「あ……じ、じゃあ、夕方、小学校のハトの像の所に来てくれる?」
「そうだな、夜にあのチビ一人で置いてく訳にもいかないし……悪いけど、撮影中は面倒見ててくれよな」
「……あ……うん、いい、いいよ!まかせて」
そう答えた後、サツキは思わず軽くため息をついてしまいました。なんだ、保護者役なのか……でもそれでも、久しぶりの二人でのイベントに力が漲ってきてしまうのが自分でもおかしくておかしくて……でも、何で私ってこんなにはしゃいでるんだろう……そう思った途端、サツキは急に顔がぽっぽっとしてきてしまいました。あれ?うそ!だめっ!きっと真っ赤っかな顔になってる!サツキはあわてて前カゴに入れてあった帽子をかぶってごまかします。
「じゃあ、今度の土曜日、待ってるね!」
「ああ」
最近こういう別れ方が多いなとは思いつつ、サツキは赤い顔をみられないように下向き加減で自転車を蹴り出しました。どうしよう……いざ決まっちゃうと何だか恥ずかしいな……まあ、あのチビちゃんがいるから少しは……あ、でもあの子、またへんな気まわしてくるかも……そうだ、浴衣!小さくなっちゃったけどまだ着れるかな……帰って着てみようっと!……振り返りはしないけど、浮かれ気分が見て取れるようなサツキの自転車が角を曲がっていくのを見送ったマオは、ふと我にかえって思いました。
「友だち……じゃないのか、あいつは……」
暑い屋外からようやく我が家へとたどり着いたマオは、何はさておき冷蔵庫から良く冷えたミネラルウォーターを取り出して瓶のまま一気に飲み干しました。飲んでるそばから吹き出してくる汗をタオルで無造作に拭っているうち、マオは家の中が妙に静かな事に気がつきました。そう言えばセリエ、なにしてるんだろう……ちょっと心配になったマオは、カメラの掃除もそこそこに自分の部屋を出ると玄関から庭を見回しました。夏の日ざしが照りつける花時計を、タイマー式のスプリンクラーが涼やかな飛沫で包み込んでいます。
「さすがにこの暑さじゃ、表で遊んでなんかいないよな」
マオは熱波に追い立てられるように室内へと戻ると、セリエの部屋の前に行ってみました。うす暗い廊下にうっすらとあの見覚えのある光が漏れ出していて、それを見たマオはホッとすると同時に、セリエに悪い事してしまったかな……という後悔の念が胸に湧いてくるのでした。
「よかった……寝てんのか。しかも夢見てるし……」
安心はしたけれど、やっぱり一目無事な姿を見たいと思ったマオは、起こさないように静かに戸を開けてみました。横向きでうずくまるように眠っているセリエ、胸の輝く球を握りしめたその寝顔は無邪気で可愛らしくて、でも、ほほには微かに涙のつたった跡が残っています。こんな子を独りぼっちにしてしまった自分はなんて優しくない男なんだ……マオはそれまでに感じた事のない気持ちに戸惑いながらも、その寝顔に優しく話しかけてあげました。
「ごめんな、セリエ。さびしかったんだな、やっぱり……」
ふわふわとした光に包まれたセリエを見ているうち、マオは急にある衝動に駆られました。それは優しさからなのか、それとも欲望からなのでしょうか。マオはセリエに添うように横たわると、その小さな身体をぐっと抱き寄せました。まるで羽布団のように軽い、柔らかい感触……さらっとした髪……容赦なく流れ込んでくる光のコトバに耐えながら、マオはセリエとの抱擁を続けました。
「か……感じる……こいつの……セリエのコトバが!」
そう、知りたいのはたった一つの真実……この子は……セリエは一体、何者なんだ?
……くすくす
「え?何?何がおかしい?」
まおにーちゃん……だっこ、きもちいいよ……
「セリエ、誰かいるのですか?」
うん……まおにーちゃんだよ
「声が……男?……どこかで聞いたような……」
ラファエルさま、セリエ、いま、とってもしあわせだよ……
「それを聞いて安心しました。セリエ、マオ様を大切に、その大好きな気持ちをずっと忘れずに」
うん、わかってる……セリエ、がんばるね
「何だ……ラファエル?……僕が……僕が見えてるのか?」
えへへ、まおにーちゃんがここにきてくれるなんて……なんだかハズカシイ!
「さあ、今日はここまで、マオ様、セリエをよろしく」
おわりだよーーーーーーーーっ!
「ま、待ってくれ!この子は一体……」
思わず声を上げてしまたマオの目の前に、きょとんとした顔のセリエがいました。彼女も目覚めたばかりなのでしょう。しばらくぼーっとマオの顔を見ていましたが、肩にかけられたマオの手の温もりを感じてちょっと照れたように微笑みました。
「まおにーちゃん……いっしょにネムネムしててくれたの?」
マオは何だか気まずくて急いでその手をどけたかったのですが、まるで子犬のように求めてくるセリエの幸せに満ちた表情には抗えません。しばらくは好きなようにぎゅ〜させてあげようね、マオ君。
「セリエね、おるすばんできるんだよ!さびしくなんかないよ!でも……えへ、やっぱり、いっしょがいいな!」
「わかったわかった、明日からは二人でお出かけしよう。な?」
「ウン!」
次の日、河川敷へと向かう長い歩道を単車を押して歩くマオの姿がありました。シートにはまるで遊具にでも乗っているかのようにはしゃぐセリエ、背中のリュックにはF4と水筒、そして二人分のお弁当が入っています。じりじりと照りつける太陽のもと、緩い上り坂を額に汗しながら登っていくマオはその自分でも良く解らない衝動に戸惑いながらも、この荒馬を目覚めさせることで何かが変わるだろうという漠然とした期待に胸を熱くしているのでした。小さな頃に見た憧れの世界……それに近づく為に今……
「きっと、風になってやる」