22.Born to be Wild
「もう処理の終わった事故現場の撮影なんてどう考えたって妙だろう。心霊写真でも撮るつもりか?不謹慎な」
河森と名乗るその警部は、あからさまにマオを蔑視したニュアンスで職質をはじめました。マオも以前からこの警部には不信感があって……まあ、助けてくれた事もあったけど、あまりこの男に内心を曝け出してしまうのは気が進みません。
「僕は、先生について来ただけですから」
霧に包まれた郊外の道に強い陰影を刻みつつ、盛夏の太陽はまだ低い位置にも拘らず、灼けつくような熱線を肌に投げかけます。都市間を結ぶ主要な動脈であるこの幹線の交通量も徐々に増えはじめ、さっきまで聞こえていた小鳥のさえずりもだんだん大きくなる地鳴りのような物流の波音にかき消されていきました。西園寺はレンズのフードを反対側にはめなおすと、肩から下げたカメラケースにFを収めました。
「7時……今日はもうオシマイだな」
街路に立つ大時計を見ながらそう呟いた西園寺は、その向こうの中央分離帯で警官と思しき男から色々と詮索を受けている風の……見れば指さしながら自分の方をちらちら見ているマオの姿を見つけました。西園寺はちょっと焦り気味に対岸の横断歩道の所まで走っていくと、据付けの歩行者用のボタンを押し込みました。
「あいつめ……よけいな事言いふらしてんじゃないだろうな」
程なく信号が切り替わり、西園寺は一度ケースにしまいこんだFをあえて手に取りながらマオともう一人の男の所へと横断歩道を渡っていきました。
「誰なんだ?あの方は」
「僕の担任の先生ですが」
「おはようございます。ええっと、うちの生徒に何か?」
西園寺はいかにもカメラマンといった風情を纏ってゆうゆうと二人のそばまでやって来ると、警部に向かって親しげに話しかけました。
「いやね、秋の学園祭でコンペ……あ、写真部なんだけど、こいつがどうも逆光が上手く撮れないってんで朝練ですよ」
西園寺のいう言葉にマオはちょっとイラッと来ました。こんな逆光での露出の補正なんてマニュアル主体のスタイルのマオにとっては何でもない事なのです。それをまるで素人であるかのような言い方であの警部へ説明する西園寺に、マオは強い憤りを覚えました。
「いまからどんどん交通量が増えますから自重して下さいよ。ストロボとか使われると下手すると事故の原因になりかねないですから」
「判りました。よし姫野、次の撮影地に行くぞ」
「……はい」
ふてくされ気味のマオを小突くように西園寺は、定期的に切り替わるようになった青信号の横断歩道を渡ってもとの歩道へと戻っていきました。
「いいか、振り向くなよ、あくまで自然にだ」
西園寺の状況を切り抜ける助言も、この時のマオには無性に空々しく聞こえてしまって、自分に道化を演じさせようとしている大人の存在がただただ許せなかったのでした。歩道脇の単車に跨がって、今日2回目の一発始動を決めてご満悦な西園寺は、あれから目を合わせようとしない仏頂面のマオに向かってニヤッと笑うと
「乗れ、出すぞ」
と何も気にしてない風でスロットルを煽ると、親指で後を指さしました。マオはその飄々とした態度にますます腹が立って来て歩いて帰ろうかとも思いましたが、途中でまたあの警部につかまってくだらない質問責めに合うのも最悪だなと、仕方なくこの場は西園寺と行動を共にする事にしました。歩道からゆっくりと停止線にまで単車を進めた西園寺は、ズボンの腰のベルトを握るマオの握力を確かめると、荒ぶるエンジンの回転数を最大トルク発生域にまで上げました。研ぎすまされた細動でゆらぐ視線の先で灯る緑灯、その時、轟音と朦々たる白煙の中でマオは、「今」が猛然と過去へと消えていくのを感じました。
「ばいく?」
「魔法のマシンさ。風とお話しできるんだよ」
突き抜ける乱光、置き去りにする風景、そして、怒濤の気流と音圧!
「うえええええええー!じいちゃん!こわいよー!」
はああ!何もこんなに飛ばさなくても!
「マオ、生きてるって素敵な事なんだ」
た、倒しすぎだって!地面がこんな……目の前だよ!
「もうとめてよー!しんじゃうよー!」
何故!何故そこまで走る?何故わざわざ破滅へ近づこうとする!?
「でも俺達はな、ついその事を平凡な生活の中で忘れてしまうんだ。自分が大いなる守護のもとに生かされている事をね」
飛び込む緑のトンネル、瑞々しい森の精のミスト、幻惑しそうな影と白日!
「……ぐす……じいちゃん、ぜったい……ぜったいしなない?」
「はははは、マオの乗ってる時には無茶はしないさ。ごらん、おおきな川だろう……」
めくるめく残像は、フラッシュバックのように過去の風景を垣間見せる……時間も場所も超越する空間……それは死生の境地の、あるいは神の領域なのか。
はあ、はあ、気分わる……でも、風が見えて来た……
「風の中でしか、見えない真実もあるのさ……」
何本もの長い橋のもとをゆったりと海へと向かってゆく悠々とした水の戯れ、県境を潤す流れはここではいっそう河幅を広げて煌めき、広大な河川敷に響くヒバリの高い声が渡る風にのって青空へと吸い込まれていきます。長時間全開走行を強いられたエンジンは周囲の空気を陽炎のように揺らめかせ、排気口は未燃のオイルの燻りで仄かに白煙を上げています。
草地に腰掛けて一服している西園寺の傍らで、マオはときおり金属の収縮で鋭い音を発するその心臓を見つめていました。
「気分は良くなったか?」
「まあ……」
マオは自分の憤りが、大人のやり口でまんまと押さえ込まれてしまった事が悔しくて仕方ありません。でもさっきとは違って、もうそれで感情的になる事は無くなりました。今のマオにはそれは「過去の自分」の思った事に感じられるからです。さっきから心を満たしているのは、神経が痙攣するような、でもどこか懐かしい疾駆する風の中での記憶……幼い日に祖父から聞いたあの言葉が、実は今の自分に向けられたメッセージのような気がして……マオは沢山の時間と記憶を紡いで駆け抜けるその刹那に、セリエの為にサクラと飛び込んだあの「光のコトバ」の奔流と良く似た居心地を感じていたのでした。マオは顔を上げると、どこまでも高く蒼い空の色を深呼吸しました。そう言えば闇の底から、この空を見上げた事もあったっけ……天使の母さんと、チビのセリエと……セリエ……ああ、そういえば家に置いて来たままだった……泣いてないかな……寂しがってないかな……
「その……さっきは、すまんな」
マオの幾分明るくなった表情を察したのか、西園寺が不器用そうに釈明をはじめました。空を見上げているマオは口元で軽く笑うと、流れる雲を瞳に宿したまま答えました。
「気にしてないですよ……それより、うちの祖父とは?」
「ああ……茂雄さんとは、学生の時にバイトさせてもらって以来の付き合いでね。何ていうか……意思のカタマリみたいな人なんだよな」
西園寺は携帯の灰入れに煙草をねじ込むと、同じように空を見上げて懐かしそうに語りはじめました。
「結局俺は教員の道へ進んでしまったんだけど、どうも茂雄さんに気に入ってもらえてたみたいで、ちょくちょく呼び出されては何かとつき合わされていたのさ。そのころは駅前の写真屋の爺さんもバリバリでな、といってもあっちはスタジオ専門だったけど……とにかく二人から撮影やらモデル口説きやら遠乗りやら、いろいろやらせてもらったさ」
「それで去年のあの時も……」
「報道屋のカンって言うのかな、茂雄さんはそれがとにかく鋭くてね、俺が着いて10分もしないうちに最初の銃声が轟いたんだ。警官隊が突入をはじめて、俺たちは物陰に隠れながら連中の撃ち合いを追っていたんだが……」
「……じいちゃん、笑って死んで行けた?」
「さあな、まだ自分が死んだ事すら気がついてないんじゃないかな」
「ふふ、そうだよね……」
マオは疾走する刻の中で感じた祖父の面影をもう一度見たいと思いました。またあの、たくさんの記憶と意思が交錯する「風」の中に身を曝してみたいと思いました。さすがにもう冷えたマフラープロテクターの「360」のバッジをさするマオの姿を見て、西園寺は何やら不敵な笑みを浮かべながら言いました。
「そいつを起こしてみろ、もし目覚めさせる事が出来たら、それはお前の物だ」
「ねえマルルー、あなたはそこからでてはこれないの?」
お留守番のセリエはカーネーションの花壇に腰掛けて、胸の輝く球の中の緑色の光に語りかけていました。やっぱり寂しいのね、セリエ……エリシャはマオくんを探しにどこかへ飛んでっちゃったし……セリエは首から下げたその球を外すと、空に向かってかざしてみました。太陽の煌めく光が球の中で複雑に屈折して出来るたくさんの緑のフレアの森……セリエの大好きな「みどりの光ごっこ」なのですが、今日はなぜか緑の光はひと固まりになって、まるで一本の木のようにセリエと向かい合って揺れています。
「あれれー?きょうはみどりさんキラキラにならないなぁ……えいっえいっ」
セリエは色々と向きを変えたり、飛び跳ねたりしてみましたが、どっちを向いても屈折した光は一本に固まったまま、いつもの緑の森にはなりません。セリエはきょとんとしてその光を見つめていましたが、陽を浴びた水面のように波紋を描いていく光の揺らぎの中に何かを感じたのか、突然ぱあっと明るい顔になって言いました。
「マルルー?マルルーなんだ!」
セリエの目の前の緑の光はその言葉に応えるようにひときわ大きく輝くと、くるくると回りはじめました。それはまるでピルエットのようにその姿を様々に変えていき、やがてゆるやかに止まりました。そこに立つ、緑色のもえるような髪をなびかせた一人の少年の姿に、セリエは目を丸くしました。
「あなたは……マルルー?おとこのこなの?」
「やあセリエ、こうやって会うのは初めてだね」
いつもは自分の心の中から聞こえてくるマルルーの声が、今日は目の前の少年から聞こえて来ます。セリエはちょっとドキドキしてきました。
「えっと……どうして、いつもはでてきてくれないの?マルルー」
「はは、今日は君があまりにも寂しそうだったからね……大丈夫、僕はいつも君のそばにいるからさ」
「うん、ありがと……でも、ほんとはね……セリエがよんだらいつでもでてきてほしいの……だめ?」
寂しがり屋のセリエは一人でいるのがよほど辛いのでしょう。何とかマルルーと約束したがっているようです。そんなセリエにマルルーは優しく話すのでした。
「ごめん、いつもって訳にはいかないんだ。このくらいの距離なら何とか大丈夫なんだけど、ほんとは僕は君から離れちゃいけないんだ。なぜって?いいかいセリエ、僕の命は君の命……僕のいなくなった君の身体は、それ以上生きている事ができなくなってしまうんだ」
「ほえ?」
「だからセリエ、絶対にその球を身体から離しちゃいけないよ。それさえ守ってくれれば、僕はずっと君と一緒にいられるから」
セリエはちょっと頭がこんがらがってきましたが、マルルーの誠実な心はしっかりと感じていました。だからニコッと笑うと、大きくうなずいて言いました。
「うーん、よくわかんないけど、マルルーはだいすきだよ!だからずっといっしょにいるね!」
「ありがとうセリエ、僕の素敵な姫さま。何が来ようと、全力で君を守る事を約束するよ」
「マルルー……?」
セリエは真っ赤になってしまいました。そりゃそうですよね。セリエだって女の子、男の子からそんな言葉を贈られて嬉しくないはずはありません。もじもじしているセリエに、マルルーはもう一言付け加えました。
「でももうちょっと、おしとやかになった方がいいかな?」
「え?」
セリエが聞き返すより早く、マルルーの姿は緑のプリズムのように四散してセリエを取り囲みました。そしてぱちんという音とともに、どこかへと消えてしまいました。
「あれ?マルルー!どこいったの?」
手の中の輝く球がぽっぽっとあたたかくて、セリエははっとしてその球に目をやりました。中で揺らめく光は何だかはしゃいでいるようにせわしなく動いて、でもセリエはそのあたたかさがマルルーの気持ちのような気がして、思わずその球を胸に抱きしめました。
「マルルー、ありがと……わたしを、みんなをまもってね」
寂しさを紛らせてくれたマルルーへの笑顔でいっぱいのセリエの所に、様子を見に行っていたエリシャが戻って来ました。あれ?何だか慌てているようです。
「セリエ、マオくんいたよ!だけど、何だか足が痛そうだったの……」
「えー!まおにーちゃんが!?」