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21.見えない影を追って

 くすんだ蒸気が街全体をつつみこむ夏の日の夜明け、山手の森からはヒグラシの清冽な響きがまだ薄暗い東の空にこだまし、マオにはそれはまるで魔性の夜の終わりを惜しむ妖精の歌のように少し不気味に感じられるのでした。朝霧に紛れて駅前に続く誰もいない坂道を下っていくのは何だか異世界に迷い込んだかのように新鮮で、マオはその居心地の良さにいっそ一日中町が霧につつまれていればいいのにと思いつつ、昼間は車であふれている大通りへと出てきました。

「静かだな……叫んでみるか?……」

交差点の真ん中に佇み、蒸気にけむる中にぼぅっと点滅する交差点の信号を暫く見つめていたマオは、自分以外誰もいない世界というのはこんなにも心を解き放ってくれるのかという開放感と清々しさを感じていましたが、同時に胸の中にわき起こる不思議な孤独感に戸惑ってもいました。

「……セリエ、置き手紙はしてきたけど……」

乳白色の静寂の奥よりゆっくりと現れた、路肩を薙いてゆく清掃車に追い立てられるように交差点を渡りきったマオは、シャッターの降りた駅前の商店街を足音に気をつけて隠れるように抜けていきました。足が向く先の商店街のはずれの高架の下が、漏れた光でうっすらと光っています。マオはごくりと喉をならすと、肩から下げたF4を片手で支えながら小走りでその店舗へと向かいました。


「きたな!神の目を持つ男」

「ほほ、出てきおったな……」

扉の向こうには、幻想的な外の世界からは想像できないガサガサした光景がありました。色評価用の蛍光灯に照らされながら薬剤を調合する技術者っぽい老人と、受付のソファーで煙草をくゆらせながら新聞を読んでいる日に焼けた男……マオはその生々しい生活感に少しげんなりしてしまいましたが、男の傍らにある古いカメラを見て俄に目を輝かせました。

「……Fじゃないですか!しかも黒なんて……」

「いやね、まともな35mmはもうこれしか残ってなくて」

西園寺は煙草を灰皿でヂリヂリともみ消すとにやりと振り向いて、マオの携えたF4を見つめて言いました。

「茂雄さんは最後までフィルムだったからな。俺なんか早々にデジタルにしてしまったから……このFだってコレクションみたいなもんさ。使いこなせる自信はないよ。」

そのやり取りを後ろから見ていたガンじいが、西園寺をからかいます。

「うんうん、お前はいつも楽な方ばかり選びよるからな。マオの方がよっぽどそいつを生かしてくれると思うぞ」

「わーってるよ、確かに、こいつの腕は茂雄さん譲りの切れ味だ」

「……それより、何するんですか?こんな朝早くから」

マオはガンじいと西園寺の言葉に小躍りしたくなる程嬉しかったのですが、照れくさいのか、それとも格好悪いと思ってるのか、やっぱりいつもの素っ気ない返事を返してしまうのでした。その表情の奥の揺らぎをけしかけるように西園寺は、読んでいた新聞のある記事を指さしてマオに示しました。

「……会社重役の事故死は自殺?……」

マオはその最後の単語に微弱な電流が流れたような痛みを感じました。それは辛く、でもいくらかは恥ずかしく心を締め付けて、やがてどこかへと消えていきました。一つの事に対して二つの捉え方をしてしまう今の自分……マオは気づかないうちに心の中に「過去の自分」という人格を育てていたのでした。

「昨日の外環の事故の事なんだが、ニュースとか見てる?」

「あ……いえ」

「まあ大型トラックがとある会社のお偉いさんを轢いてしまったんだけど、運転手によると突然怯えた顔で目の前に飛び出してきたんだそうだ」

「怯えた顔……ですか?」

マオはまだ少し痛む心をこらえて、西園寺に疑念の表情を向けました。なぜって、マオには自ら終わらせようとする者の気持ちがわかるから――

――今から自分で殺ろうって人間が怖がるもんか――

「だがな、自分から飛び込むなんて俺はどうも腑に落ちん……私利私欲のために肉親ですら平気で切り捨てるような人間なんだぜ、噂だけど」

西園寺の口から、自分の気持ちを肯定するような意見が飛び出してきてマオは瞠目しました。そうだよ、ありえない、そいつを怯えさせた原因は他にある……思わず頷いたマオの顔を見て西園寺は問いました。

「お前、自分の撮った『アレ』何だと思ってる?」

単刀直入に切り込まれたその質問にマオははじめ戸惑ってしまいましたが、この疑問に託した西園寺の意図を確かめたくて、自分も正直に自らの考えをぶつける事にしました。

「多分……表題の通りです」

「……そうか、じゃあ確かめないといけねえな!爺さん」

西園寺の言葉に、ガンじいは待ってましたとばかりに足下の冷蔵庫を開けると、中から小振りの段ボール箱を出してきてカウンターに置きました。

「……たく、取り寄せるのも一苦労じゃ……田舎じゃこんなマニアックなもん誰も買いやせんからな」

「50本入りかよ……確かに爺さんの店じゃ永遠に売れねえな、こんなフィルム」

段ボールを開けた西園寺はその中から4個ほどの黄色い小箱をわしづかみにすると、半分の2個をマオへと投げて渡しました。見なれた「400TX」の文字が印刷されたそのフィルムを受取ったマオは、覚束ない手付きでそれをFに装填している西園寺に訊ねました。

「えっと……なんでコイツなんです?」

「あの時、ほとんど同じ場所で撮影していた俺の1Dsにはそんな影が写ってる画像なんか一枚もなかった。でも茂雄さんのには感光されていたんだ……この個性派のネガの上にね」

「じゃあ……昨日見せてもらったあの写真は……」

西園寺は裏蓋をカチリと止めると、ぐっぐっと閉ったのを確認しながらマオに言いました。

「ああ、今度は俺にも撮れるかもしれねえな。お前達みたいに」

「そうか……じいちゃんもあの時……」

マオは肩から下げたF4を手にとって、すんだ瞳のようなそのレンズを覗き込みました。そしてふふっと笑うと、西園寺とは比べ物にならない早さで撮影準備を終えました。その姿は往年の茂雄の指さばきの生き写しで、西園寺はちょっと負い目を感じつつマオに出発を促しました。

「人や車が増える前がいい、行こう」

「はい」

西園寺に続いて出ていくマオに、ガンじいが銀色のヘルメットを手渡します。それは西園寺のものと同じデザインの色違いで、横には「S.H」のイニシャルが描かれていました。

「あいつの被ってるのとお揃いで塗ってもらったもんでな。形見で持っておったんじゃ、マオに使ってもらえば喜ぶだろ」

けたたましい爆音が響き渡り、二人を乗せたマシンが霧の中へと消えていきます。そのぼうっと光るテールライトを見送りながら、ガンじいは目を細めるのでした。

「いい顔になってきたの、マオのやつ……」


 いっぽう留守にしているマオの家では、セリエのおおきな泣き声が響きわたっていました。

「ええええぇぇぇぇぇぇぇぇいなくなっちゃよおおおおぉぉぉぉぉぉぉ!」

朝起きて家中を探してみたけれど、何処にもいないマオの姿にセリエはまるで親からはぐれた子供のように泣きじゃくっているのでした。あまりの騒々しさにやってきたエリシャが部屋の戸に貼付けてあった伝言を見つけて、セリエに読んで聞かせているのですが取りつく島もありません。

「だから昼前には戻るって書いてあるじゃないの!そんなに心配しなくてもすぐ帰ってくるって……だから待ってようよ、ね」

「うぇぇぇぇぇぇくろいのこわいよぉぉぉぉぉぉぉひとりはヤダぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

どうもセリエはあの「死の天使」がよっぽど怖かったみたいで、こんなひとりぼっちの時にまたアレが来た時の事を思うと不安で不安で涙がポロポロ止まりません。エリシャは何とか安心させようとセリエのほっぺたを両手でほわっと押さえて言いました。

「大丈夫だって!セリエもマオくんもいい人なんだから、あのね、私、今サリエル様がどこにいるかわかるんだ!うーん、愛するが故のカンって言うのかしら?だから安心して、もし近づいてきたらすぐに知らせるから!」

「ぐし……ほんとう?……」

セリエは半信半疑でエリシャの顔を見上げました。いつも優しいエリシャ、その瞳は高い高い空の上のように深い青玉色で、その中に映る自分のべそ泣き顔にセリエはちょっと恥ずかしくなってしまいました。セリエはごしごしっと涙を拭うと、まだわなわなしている口元で何か言おうとしました。それを見たエリシャはニッと笑うとほっぺたにあてている手にぎゅっと力を入れました。

「うん……ぶぎゅぅ‥‥?」

「アハハッ!セリエのほっぺた、もちもちしてて気持ちいいね!」

「もほひゃへれなひひょおう!はひ、かんひゃった……」

両手でほっぺたを押し付けられて、まるでタコみたいな口でセリエはじたばたしています。エリシャはその変な顔がおかしくてたまらなくて、大笑いしながら空中へと舞い上がりました。

「うぅ……ほっぺたのなかかんじゃったよ……もう!エリシャあ!」

セリエは宙を軽やかに舞うエリシャを涙目で追いかけ回しました。飛べないのに一生懸命に追いかけてくるセリエの表情に時々浮かぶ笑顔に安堵しながら、エリシャはさっきの自分の言葉を思い出していました。もしマオくんが狙われたとき、私にはそれを止める事が出来るのだろうか?サリエルと闘えるのだろうか?そんな事を考えているエリシャの耳に、庭の入り口の鉄の扉を叩く低い音が聞こえてきました。

「姫野さん。こちらは警察です。ご在宅でしたら少しお話ししたい事があるのですが」

「つかまえたっ!へへへ」

「ちょちょちょくすぐったいって!セリエ!それより誰かお客さんだよ!ひひひゃ……」

「うにゃ?」

足を掴んで自分を引きずり降ろそうとしているセリエに、エリシャは笑いをこらえながら言いました。それを聞いたセリエはくるっと扉の方を振り向くと、頭の羽根をわさわささせながらそのむこうに向かって言いました。

「まおにーちゃんはいまおでかけだよ!」

エリシャはすっと高い塀を乗り越えてその来客を見に行きました。そこには威圧感のある制服に身を包んだ体格のよい男性……セリエは何度か会った事のあるあの警部の姿がありました。エリシャはセリエの所に戻ってくると、耳元でこそこそ囁きました。

「なんだかお人形みたいな服を着てる人だよ。ううん、サリエル様じゃないってば!」

「ほっ……あーよかった」

胸を撫で下ろしているセリエの耳に、扉の向こうからの声が響いてきます。

「お出かけかぁ……どこへ出かけたか知ってる?」

「しらないよっ」

「そうか……ところできみ、お名前は?」

「わたしセリエ!」

「せりえちゃんか、お兄ちゃんが帰ってきたら一応伝えといて、警察の河森が訪ねてきたって。また寄りますわ」

警部はそう言うと、取り出した手帳で何やら照合しながら坂を下っていきました。

「帰っちゃったね……」

「うん……」

セリエはエリシャに抱えてもらって、塀の上の縁からこっそり警部を見送っていました。やっといなくなった知らない人……でもやっぱり不安なセリエは早くマオに帰って来て欲しいと願うのでした。


 花束が手向けられたガードレールの向こう側、霧もうっすら晴れて来て、ときおり大型のトラックが派手な電飾を煌めかせながら勢いよく走り抜けていきます。昨日の現場は処理されてよく解らなくなってしまっているけれど、歩道の隅に止められた単車の傍らで、二人はシャッターを切り続けていました。

「一応報道写真っぽく撮っとくか」

西園寺が供えられた花束を手に取ると、事故現場と同一の軸線上に置きなおしました。トラックがその現場を踏んでゆく一瞬前を狙ってるのでしょう。マオはその作為的な絵づくりがどうにも我慢できなくて、ちょっと距離を置こうと思いました。

「あの、僕、反対側から撮ってきます」

「あっちは何もないけど……まあいいか、お前のは検証用だしな」

車が見えないのに律儀に歩行者用ボタンを押したマオは、信号が青に変わるのを待って道幅の広い交差点を渡っていきました。ちょうどその時、ビルの縁から昇ってくる朝日が彩度のなかった霧の世界に鮮やかな陰影を描き出して、マオはおそらく数瞬で消えてしまうであろう、その全てが光り輝いているような壮麗な光景に思わずレンズを向けましたが、今装填されているのはカラーフィルムでない事に気がついてとても残念に思いました。まだ半分も渡りきってないのに点滅をはじめた歩行者用信号に気がついたマオは、とりあえず中央分離帯の所まで走っていきました。

「人……?」

車が流れはじめて、車道の真ん中に取り残されるような形になってしまったマオは、そこに立っているひとりの男に気がつきました、その男はまるでマオを待っていたかのように振り向くと、やや馴れ馴れしく声をかけてきました。

「やあ、ご自宅に伺ったら出かけたって言うから……ところで、こんな所で何を撮ってるんだい?」

「あ……あなたは……?」

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