17.君といるこの日を
蒼穹が星々とふれあうところ、太陽に一番近い空のうえにあるその大地の、揺れる花畑の向こうに立つ高い塔……巣立っていく教え子に新しい役目を授けているラファエルのところに、一人の天使が慎ましやかに降りて来ました。ラファエルは戴環する手をふっと止めると、その姿を驚きと笑顔で迎えました。
「これは……アカネですか?……いや……大変でしたね」
「ラファエル様……またお会い出来て嬉しく思います」
「『冥』からここに戻れるとは、よほどの善業をなされたのですね……主自らが法輪と翼を授けて下さっているのですから……」
茜の手をとって再会を喜ぶラファエルのまわりに、順番を待っている天使の子たちがぞろぞろと寄って来ました。
「先生、早く天使の輪くださーい!」
「キレイな羽だなぁ……」
「ねえねえ、冥ってなあに?」
「虹色の輪……先生と同じだ……どうしたの?それ」
とりまく天使の子たちはその美しい姿に、二人をとりかこんであれやこれや問いかけて来ました。ラファエルはその子らに向かって「静かに」と禁めたあと、
「この人のお話をよく聞いて、心にとどめておきなさい。きっとあなたたちの進む道を照らしてくれるでしょうから……」
そういって、茜に今までのいきさつを語らせました。突然のことでちょっととまどった茜でしたが、まるで自分の子供のような幼い天使たちの前では、ついやさしい母親の顔に戻ってしまいます。ゆっくりと、わかりやすい言葉で語られる「冥」の意味や生まれかわりの話に、騒いでいた天使たちもいつしか静かになって、みんな真剣に耳を傾けていました。
「……ご苦労様でした。これであなたもようやく、主に仕える事ができるわけですね」
「ええ、みんなマーちゃんと、セリエのおかげです……ほんとにいい子たち……」
お話を終えた茜に、ラファエルはねぎらいの声をかけました。茜は軽く会釈をすると、ラファエルのもとにきて言いました。
「あの……我侭を言って心苦しいのですが……ラファエル様、私に下界の……あの子たちの守護の任を与えていただけないでしょうか?」
これまでの苦難の話を聞き終わったあとでもあって、ラファエルとしては茜の願いを二つ返事で答えてあげたい気持ちでしたが、自分と同じ上級の法輪を頭にいただく彼女のこと、きっと主には何かお考えがあるのだと感じて柔らかく断りました。
「そうして差し上げたいのですが、すでにマオ様には守護天使がついておられるので……それに主の導きによりここへと迎えられたあなたには、私からは何もお頼みする事は出来ないのですよ……おお、主よ……ええ、こちらがアカネです」
見れば、そびえる塔のそのはるか上から差してくる光の塊……近づいてくるにつれ、それは輝く巨大な手となって厳かに茜の前へと差しのべられました。その手のひらだけでも大地を覆いつくすくらい大きくて、居合わせた天使の子たちは初めて見る主の姿に畏れおののいて声も出せずにいました。
「君たち、主の御前です。跪礼なさい」
「え……か……神さま!?」
「おっきーなぁ……とと、しーッ……」
慌ててひざまづく子らとラファエル、そして茜の上に、崇高にして大いなる慈しみに満ちた声が舞い降りてきました。
「……無事にもどれたみたいですね……翼の具合はどうですか?アカネ……あなたの罪の償いは終わりました。これからはその歌声で、生まれ変わってゆく小さな魂の寂しさや不安を癒してあげて下さい」
「……勿体なきお言葉にございます……」
茜は立ち上がると、そのおおきな手のひらの上へと歩いて行きました。途中まで行って、思わず振り向いた寂しげなその表情に、ラファエルは笑顔で話しました。
「アカネ……心配はいりません。セリエなら大丈夫、あなたと同じ心をもっていますから……私の言う事はあまり聞いてはくれないけど、何が大切かはよくわかっています。そうですよね……」
茜はちょっと照れたように笑うと、
「先生……ご迷惑をおかけいたしました……その……セリエの事、よろしくお願いします」
そういって深々と頭を下げました。手を振るラファエルと天使の子たちに見送られて、茜を乗せた手は天高く舞い上っていき、やがて見えなくなりました。
「ほんとに、そっくりさんですね……」
「先生、早く天使の輪、ちょーだいよー」
「わたしね、アカネみたいな虹色のがいーなー!」
「もう!啓示5の3ばん、忘れちゃったじゃない!」
「ほらほら静かに!」
緊張が切れたのか、興奮して騒ぎたてる子らをなだめながら、ラファエルは下界のセリエに思いを馳せました。
「セリエ、あなたの心だけが頼りです……どうか『彼』を救ってあげてください……」
「だいじょぶっ!」
パタパタパタパタ……元気な足音が夏空にこだまします。赤い絨毯のてっぺんの小さくしゃがみこんだ翼にむかって、セリエは一直線に走っていきました。
「ハァ……ハァ……いた!エリシャ!」
息を切らせて花壇に飛び込んできたセリエを見て、エリシャは目を丸くしました。
「え……セリエ?……セリエなの!?」
「うん!ただいま!うわぁ……カーネーション、こんなにさいてる!」
「セリエ……ほんとに……ほんとにセリエなんだね!」
「エリシャ!」
咲き誇るカーネーションの花壇の中で、セリエとエリシャは抱き合って再会をよろこびあいました。
「よかった……セリエ……ああ……神さま……」
「エリシャ……ごめんね、しんぱいさせちゃって」
「そんな……セリエ、あなた、とうとうやったのね……りっぱよ……とっても……」
エリシャは感極まって、両手で顔を押さえて泣きはじめました。セリエはエリシャの肩を両手で抱くと、その顔をのぞき込むように話しかけました
「エリシャ、なかないで、おかおみせてよ!これじゃいつもとはんたいだよぉ」
「だって……ぐす……だってね……わたし……ぐすぐす……」
「ほら、わらってよ、ね」
心配性のエリシャがどんな気持ちで死の床の自分を見ていたか、セリエはそれがたまらなく可哀想で、だからいちばんに会いに来たのです。セリエはエリシャの手を取ってそっと胸の前で握りしめました。顔を上げた潤んだ瞳のエリシャは、目の前のセリエの無邪気な顔を見ているうち、心から笑顔が湧き出てくるのを感じました。
「うれしい……ぐす……信じられないよ……だって……『冥』から帰ってくるなんて……ぐす……セリエ、あなたはやっぱり……」
「うん、エリシャや、おにーちゃんや、おかーさんのおかげだよ!セリエ、みんなにたすけてもらったんだ。だからね、このカーネーションはみんなへのおれい、お花のキレイないろは、きっとみんなのキモチなんだよ!」
さざ波のように風に揺らめく深紅の花弁の海で、セリエは胸いっぱいにすったその馥郁とした香りに今、生きていると言う実感を強く感じました。そんなセリエを見ているエリシャは、またひとまわり成長した「あたたかくておおきな存在」をうれしく思いながら、同じように深く息をすいこみました。
「カーネーションさーん!よろしくねーっ!」
「くす、セリエ……ほんとに、セリエなのね……」
エリシャはたかい空を見上げながら、この時が迎えられた事を感謝するのでした。
はしゃぐ子供の甲高い声が、閉め切った部屋の中にまで響きわたってきます。照りつける日差しにあたためられた部屋の空気は、おりからの湿気もあってうだるような暑さで、とても我慢できるものではありません。身体に焼け付くような輻射熱を感じて、マオはがばっと目覚めました。
「熱つッ!……はぁ……なんだ……何してたんだろ……」
汗ばんだ手で上体を起こしたマオ、そこは自分のベットの横の床の上で、どうやら半身をそのマットにもたれかかって眠っていたようです。まだもうろうとした意識で、自分の部屋を見回しながら自分の持ち物を思い出していたマオは、棚の上の写真に目を止めました。
「母さん……ここは……僕の部屋なの?……アタタッ」
変な格好で寝ていたからなのか、マオの背骨はこわばってしまって急には動かせないようです。とりあえず少しずつほぐしながら、マオは自分が何をしていたかを思い出そうとしました。覚えてるのは、天使の母さん……凍てついた世界……焔のリング……サクラ姉さん……横たわるセリエ……セリエ……ちびのセリエ……!
「そうだ……僕はセリエを……」
マオはあいまいな記憶を少しずつ辿っていきました。花壇で倒れているセリエを見つけて……その時にはもう魂をなくしていて……悲しくて……ベッドに寝かせてあげて……でも目の前にいるはずの彼女はどこにも見当たりません。マオは立ち上がると部屋の窓の戸を開け放ちました。室内の澱んだ熱気が渦を巻いて外の空気と混じりあい、マオの目には真夏の青空が鮮やかに飛び込んで来ました。部屋を吹き抜けてゆく太陽の風にのって、ころころと転がるような、あの可愛らしい笑い声が聞こえて来ます。
「セリエ……セリエの声がする……帰って来た!?」
マオは早鐘のように鳴る鼓動で胸が詰まりそうでした。
「そう言えばマオくんは?」
「おにーちゃん、だいかつやくでつかれちゃったからまだネムネムだよ。ねえ、それでそれで?」
「うん、風神さまがね、ラファエル様の所まで連れってってくれたんだ!そこでセリエは「冥」に堕とされたって聞いたの……」
「そうそう!すごーくこわいんだよ!あーん、おもいだすだけでぷるぷるしてきちゃった」
「でもわたしね、セリエがきっと帰ってくるって信じてた。だからその事をマオくんに知らせなきゃって思ったの。そしたら……」
「こーんなおおきなはねになっちゃったのね!いいなぁエリシャ!セリエなんかほら、まだあかちゃんのはねだよ!へへへっ」
花時計の針の上に並んでこしかけて、お互いの武勇伝を自慢する二人、セリエの胸元に光るあの球を見つけたエリシャは、その輝きが気になってちょっと聞いてみました。
「この光……ねえセリエ、この中にまだ誰かいるの?」
「うん、マルルーだよ」
「マルルー?」
「そうよぶことにしたの!やさしい草の子さんなんだ……セリエのタマシイがきえちゃわないようにいのちをかしてくれてるんだよ」
「え……じゃああなた、今は……」
「うん、セリエの……ちがった、みんなのタマシイのなかにはね、たくさんのひとのおもいがつまってるんだよ!いままでいきてきたたくさんのこころをうけついで……だからやさしさもかなしさも、ずっとわすれないんだ!」
エリシャには、目の前のセリエがなんだかとても大人びて見えました。彼女の語る、自分にはおよびもつかない世界で垣間みた命のあらまし……あどけない口調の中に宿る福音が心のすみずみにまで響きわたって、エリシャは思わずその横顔に見とれてしまいました。
「ん?もう!はずかしいよ!あんまりこのはね、みないでよぉ!」
「……あ、ちがうちがう!セリエ、そうじゃないって……」
ぷーとふくれたセリエをなだめすかしながら、エリシャは大切な事を聞き忘れていたのを思い出しました。そう、あのお部屋のカクテルグラスにさしてあった大天使の羽根のことを……エリシャはまたセリエを傷つけてしまうかも知れないと思いましたが、どうしても聞かずにはいられません。
「ねえ……あの……セリエ……あなた、ひょっとして……大天使さまなの?」
「へ?」
尋ねてきたエリシャの神妙な顔と、その質問のありえなさっぷりにセリエはきょとんとしてしまいましたが、そのうちとんちんかんな事を言っているエリシャの真面目な顔がおかしくなってきて、セリエはふきだしてしまいました。
「ぷ……アハハハ!もう!エリシャおかしいよぉ!」
「あーんっ!もう!セリエ!きいてよ!あのね、マオくんのお部屋にね……」
「セリエッ!」
響きわたる声、びっくりしたセリエは思わず背筋をピーンとのばして、でも、その声を思い出したとたん何だかくすぐったくなって……好きな人から名前を呼ばれるうれしさがいま、セリエの心をキラキラと輝かせはじめます。その煌きはすぐにからだいっぱいに広がって、セリエは元気いっぱいにふり返るとおおきな声で応えました。
「おにーちゃん!」
花壇の下でやさしく見つめるマオ、こみあげる感情が、たくさんの話したい事をつまらせてしまって……でも再びめぐり会えたお互いの気持ちは、伝えなくたってしっかりと感じる事が出来ます。マオはちょっと恥ずかしいなと思いながらも、両手を広げてセリエを迎えいれました。
「……おかえり、セリエ……」
「ウン……ただいまーっ!」
セリエは息を吸いこむと時計の針の上から、マオに向かって思いっきり跳びました。花壇をまたいでおおきな弧を描いて飛び込んで来るセリエを、マオはその胸にしっかりと受け止めました。
「うぉ!……ちょ……おまえ、飛びすぎだって!」
「だって、だってね、うれしいの!セリエ、おにいちゃんになまえよばれるの、だいすき!」
まるで小さな兄妹のようにマオに抱っこされてるセリエ、その背中でエリシャはくすっと笑って、
「もう……あなたの考える事はすぐわかるんだから!カーネーション、つぶれちゃうじゃないの……」
そう言ってセリエを抱いていた手を離すと、ふわっと舞い上がりました。そしておおきな翼からたくさんのシアワセの光を振りまいて、二人の再会を祝福するのでした。
「セリエ、もうあんな無茶はだめだぞ」
「うん……おにーちゃんも、もうどこにもいかないでね」
「約束だ」
「ゆびきり!」
交わした小さな契りに、マオは心の中で何かが目覚めるのを感じていました。僕は……この子を守ってあげられた……その為に傷ついてもいいと思った……弱々しいと思っていた自分の中に現れた彼女への気持ちがなんだかすごく照れくさくて、マオは思わず心をそらしてしまうのでした。
「……っと、セリエ、ノド乾かない?」
またまた名前を呼ばれたセリエはにた〜っと笑っちゃって、何だかもうぐにゃぐにゃです。
「なんだおまえ、気持ち悪いな」
「へへ……あのね……やっぱりやめた!」
「はぁ?何だよ、言いたいんなら言えよ」
「んー、でもねぇ……おにーちゃん、キライみたいだから……」
セリエの思わせぶりな言葉にどきっとしたマオは、飛び出てきた妄想をぎゅうと頭の中にしまいこむと、何とも不器用にこたえました。
「き……キライじゃないけど……その……おまえまだチビだしさ……好きとかキライとか……」
「……キライじゃないの?よかった……それじゃあね……」
そのトキメキの表情にちょっと焦り気味のマオの顔を見上げて、セリエは照れくさそうに自分の想いを話しはじめました。
「あのね……おにーちゃんのこと……まおにーちゃんってよんでも……いい?」
「え?」
「セリエね、おにーちゃんに『セリエ』ってよばれるの、すごくしあわせなの……だから、セリエもね……」
思いっきり子供っぽいそのオネガイに、マオは拍子抜けしてしまって思わず笑い飛ばしそうになりましたが、見上げているセリエの真剣な顔を見て、その心のやさしさを嘲笑しようとした自分がちょっと情けなくなってしまいました。マオはしゃがんでセリエの目線におりてくると、頭を撫でながらこたえました。
「うん、たしかに、僕はこの名前が嫌いだった……でも今は、この名前だから姉さんと、セリエといっしょにいられるような気がするんだ。もちろん、母さんともね……」
「おにぃ……ま、まおにーちゃん!」
セリエはマオにぎゅーっと抱きつくと、はしゃいで庭中をとびはねてまわりました。胸にさげた輝く球……マルルーをきらめかせながら花壇の花や木や、わたる風や光たちと語らうセリエの姿はさながら緑の精のようで、マオはその可憐な姿を心から愛しいと思いました。
「はぁ……でも……ほんとに……よかったな……」
マオの心の中に刻まれたたくさんの想いはいまひとつの意思となって、未来への軌道をゆっくりと進み始めたのでした。