13.凍てついた記憶のもとへ
ほほに凍り付くようなひやりとした感触を感じて、セリエは目を覚ましました。どのくらい時間が経ったのでしょうか……セリエは広大な氷床の上に倒れていました。大丈夫?ちょっと起きてみて……よかった、からだは何ともないようです。でも上体を起こすのについた手から伝わってくる冷気は、まるで心まで砕いてしまうような鋭さでからだを駆け抜けます。セリエはぞくぞくっとして跳ねるように立ち上がりました。物音ひとつしない、止まった時が支配する凍てついた瞑い世界……暗闇に目が慣れてきたセリエは、おそるおそる周りを見回してみました。寒々とした氷の平原が、彼方の闇に溶け込むまで延々と続いています。その表面は不規則にうねり、たくさんの人の頭ほどもある氷塊や不気味にくねった膝ほどの高さの樹氷に覆われています。
「はぁ……さむいなぁ……だれかいないかなぁ……」
周りに目立った恐いものが無いのを確認すると、セリエは不安定な足下に気を使いつつ歩き始めました。じっとしてたら足から凍ってきてしまいそうで、とりあえず上っている方向に向かって手探りで進んでいくセリエ。吐く息はたちまち白く氷結して、セリエの顔で跳ね返ってはころころと足下に転がっていきます。氷床はやがて曲がりくねった何本もの流れに枝分かれして、そのひとつひとつはさながら山峡の沢のような急峻な高低差でそびえ立っています。セリエはその中でもいちばんおおきな、まるで大木のような流れにとりつくと、四つん這いになってその氷の急流を上りはじめました。つるつるすべる斜面に何度も落ちそうになりながら、緩急のついた流れを上っていくうち、セリエはだんだんからだが動かなくなっていくのを感じました。冷気が手足の自由をじわじわと奪っていき、関節のあちこちが永久に融けない透明な結晶に変わっていきます。セリエはとうとう歩けなくなって、その場でしゃがみ込んでしまいました。
「はぁ……このままこおっちゃうのかなあ……」
疲れきったセリエは息も絶え絶えにつぶやくと、わずかに動く首を巡らして周りを見回しました。ごろごろとした氷塊、まるで生きもののように曲がりくねった樹氷……きえちゃう……わたしのこころ……つめたくてかなしくて……だれもいない……寂しさでいっぱいのセリエには、目に映る傍らのそれが、何だか助けを求める人の手のように思えてくるのでした。苦しそうにねじ曲がり、何かを求めて上へと伸びようとしているその樹を、セリエはそっと両手であたためてあげました。そしてその根元にあるまるい氷塊へと目をやると、何か感じたのかぽろぽろと涙をこぼしながら語りかけるのでした。
「だいじょぶ……セリエがそばにいてあげるからね……さみしくないからね……」
うるんだセリエの瞳にうつる嘆きの表情……その氷塊に刻まれた亡者の顔は天へと伸びる自分の腕のさきを見つめ、何かを伝えたそうに口を開いたまま凝固していました。広大な氷床に無数に突き出した凍りついた顔と腕……セリエは薄れていく意識の中で、ここが永訣の場であることを悟るのでした。
風に揺れる何百本ものカーネーションの前で、マオはそこかしこに浮かんでは消えるセリエの幻影を夢と現の間で追いかけていました。恥ずかしそうなセリエ、どろんこのセリエ、ちょっと拗ねたセリエ……マオの目の前で生き生きと踊るセリエの姿は、我にかえったとたんに跡形も無く消え去ってしまいます。喪失感で真っ白のマオはそれが怖くて、眠りに入る直前の、あやういほどに幽き世界に閉じこもったまま出てこようとはしないのでした。大急ぎで天界から戻ってきたエリシャは、マオの痛々しい心が見てとれるようなその姿に思わずまたうるっと来そうになりましたが、小さな、すぐ消えてしまいそうな希望の火を精一杯灯してマオに語りかけます。
「マオくん!セリエ、大丈夫だから!きっと帰ってくるから!……」
エリシャの声に、花壇のカーネーションがいっせいにざわっと波打ちました。でもそれはたおやかに吹く初夏の風のようでもあり、マオがそれに気づくことはありません。天使エリシャは正式な神さまの使い、その声も姿も人間には届かないのです。どんなにおおきな声で叫んでも、マオの心はそよとも靡きません。エリシャは途方に暮れてしまいました。
「だめ……声が届かない……助けたいよぉ……でも、天使の私に何が出来るの?……マオくん……セリエ……」
エリシャはすっかり気落ちしてしまって、うす暗い部屋に眠るセリエのもとへとやってきました。安らかな顔で眠るセリエ、マオがしてあげたのでしょうか、乱れた髪はきれいに整えられていて、真っ赤なカーネーションの髪飾りが小さな羽根を彩っています。胸の所で組まれた手には小さな十字架がにぎらされていて、まるで棺に入れられてるかのようなその姿にエリシャはたまらなくなって、声を上げて泣き出してしまいました。
「セリエ……どうしてなの?……ひとりでどこへ行っちゃったの?……こんなにきれいで……こんなに可愛いのに……ねえ、お願い、私を呼んで……私をからかって……私を……おいてかないでよぉ!」
変わりやすい梅雨の空はまたにわかにかき曇り、やがてしとしとと降る雨が部屋の窓ガラスを奏ではじめました。その単調な音はまるでエリシャのこぼす涙のようにもの悲しく響き、薄暗い部屋を潤んだ空気で満たすのでした。ベッドの横に座り込んだエリシャは、その音のする窓の方を力なく振り向くと、ただ呆然と小さな出窓に当たる雨粒のはじける様を見つめていました。きっと、神さまも泣いていらっしゃるんだわ……ごめんなさい、私、何も出来なくて……エリシャは自分も旅立つセリエに何かしてあげたくて、部屋の中を見回しました。カメラのキャビネット、棚の上の母さんの写真、窓際に飾られたいくつものグラス……その中に入れられたビー玉や塩、色のついた水のおりなす透明な光の世界は、鈍色のこの部屋からセリエが旅立っていく窓のように涼やかに煌めき、エリシャはその清々しい色合いにしばし心を奪われました。まるで教会のステンドグラスのように聖らかな光……エリシャは何かに誘われるように窓際へと導かれていきました。撮影のオブジェとして使われていたであろうきれいに磨かれたグラスたち……そこでエリシャは思いもよらない物を見つけるのでした。
「これは……大天使の羽根!?」
それは細身のカクテルグラスに入れられた、透き通るように白い羽根……地上に遣わされる天使が託される、どんなに離れていても心を通わせられる大切なお守り……でもどうして、天使でもなんでもないマオくんの部屋に……エリシャはふところから自分のお守りを取り出して見てみました。ラファエル様から預かった、ややブルーがかった端正な形の羽根、でもグラスに入れられている羽根はうすい黄色味を帯びた、ちょっとまるまっこい形をしています。これ、いったい誰のものなんだろう……エリシャはその羽根に宿る大天使の影に畏れと期待をおぼえつつ、そぉっと手に取ってみました。
「あ……ラファエル様とはちがうあたたかさ……こんな感じ、今まで……あ……」
羽根を通して伝わってくるあたたかな心は、エリシャの胸の不安をみるみる消し去っていきました。すべての命を目覚めさせてくれる春の陽のようなおおきな温もり……そう、それは大好きな、会いたくてやまないあの子の心……エリシャは胸がいっぱいになって、その羽根に向かって語りかけました。
「うん、わかるよ……やっとみつけた……まってて……いっぱいおはなししようね……」
ほんのりと光に包まれたエリシャは羽根を胸に抱いて、精一杯の気持ちを主へと届けます。自分の力を出し切る覚悟で想いを彼方へと送るエリシャ、その意思は闇を振りはらうくらいにまぶしく輝き、閉ざされゆく魂を目指すのでした。
濡れそぼった身体を拭きとりもせず、マオはテラスから部屋へと戻っていきます。天の悲しみにも感じられる雨に洗われて、マオの気持ちは少し落ち着いたようです。雨が上がったらあの子を母さんの隣に、いっぱいのカーネーションが望める丘の上に連れて行こう……でも今はもう少し、もう少しだけあの子のそばにいたいんだ……滴る雨水をひきずったまま、マオは自分の部屋の戸を開けました。薄暗い部屋の明かりをつけようとして、マオはベッドの方から不思議な光が揺らめいているのを感じました。
「光……まさか!?」
慌てて部屋に飛び込んだマオの前に横たわるセリエ、その身体は不思議な淡く白い光で包まれていて、いつかと同じく透き通るようにほのかに、そして小さな光の粉がふわふわとまわりをとりかこんでいました。マオは驚いてセリエのそばに駆け寄ると、まじまじとその光景を見つめました。
「まさか……これは……夢見てるって言ってた……だれかと……話してる!」
感情が逆流しはじめたマオは思わずセリエを抱き起こそうと肩に手をやりましたが、突然ある思いがよぎって躊躇してしまいました。
「あの時……覚えてないけど……僕は多分気を失って……」
マオはあの夜の、猛烈な数のコトバが一気に頭に入り込んできた時のあのごりごりした、不愉快な気持ちを思い出しました。百の目が這いずり回り、自分のすべてを曝け出されてしまうあの不快感……それを考えるとマオは萎縮してしまってセリエに触れることが出来ません。でもここまでセリエに話しかけ続けてきたエリシャの頑張りももう長くは持たないようで、彼女は気が遠くなりそうなかすんだ意識で、後ろ姿のマオに小さく語りかけるのでした。
「おねがい……セリエを……セリエをたすけてあげて……」
何とかセリエの希望をマオに伝えることができたエリシャですが、まだまだ小さな彼女の身体は大天使の羽根の力を使ったことでもはや倒れる寸前なのでした。力が尽きる前に……見失う前になんとかしないと……エリシャは重くのしかかる使命をはねのけるように舞うと、何も出来ないでいるマオの横へと降りました。そして胸に抱いた大天使の羽根を高くかざして、すべての自分の想いを託しました。
「まってて……おにいちゃんが……むかえにいくからね……」
エリシャは微かにつぶやいて、光を放つ大天使の羽根をマオの肩に添えました。金色の羽根はまるで麦畑がさわさわと靡くようにその数を増やしていって、マオの背中いっぱいに広がっていきます。やがておおきな2枚の羽根がはばたくのを見届けたエリシャは、満足そうな表情を浮かべたまま静かにくずれおちていきました。
「なんだろう……呼んでいるような気がする……セリエ?……いや、もうひとり……」
マオの耳に白く輝く光の中心から聞こえてくる声がかすかに届きはじめました。心に響くたくさんの想い……自分と、セリエと、そして全てを取り巻く光のコトバ……その渦の中に息づく大切なひとの気配……エリシャの想いを乗せたつばさの勇気が、マオにその坩堝へと進む意味を伝えます。こわいよ……こわいけど、もしここで何もしなかったら……激しく揺さぶられる自我、去来する悔しい想い、栄光、見えない未来……マオの心は千々に乱れていつまでも答えが出せません。震えと祈りの中、マオは溢れるコトバの中に、聞き覚えのあるあの旋律を感じました。
「これは……母さんの詩……そうか……僕は……!」
二人の心をつなぎとめたあの詩……傷ついて、ボロボロの足で駆け上がってきたセリエの涙でぐしょぐしょの顔……そして、心に灯った新しい自分……マオは雑音でかき消されそうなその旋律をなぞるように口ずさむと、セリエの傍らにひざまずきました、
「ごめん、僕、何悩んでたんだろうね……」
マオはそう話しかけると、ベッドに横たわるセリエの小さな身体をやさしく抱き寄せました。途端にはちきれんばかりのたくさんの光のコトバがマオの身体に入り込んできましたが、マオの強い意思はそれを受け止めつづけます。この中に……この中にきっとあの子がいる……マオは両手でセリエの身体を思いっきり抱きしめました。この子を、セリエを逝かせやしない……必ずッ!
一瞬の閃光の中、光の羽根がいっぱいに舞い散って、無軌道に走り回っていたたくさんのコトバたちがつぎつぎと道をあけてゆきます、いつしか規則正しく整列したながいながい行列の、そのずっとさきに佇む一人の少女……あの歌を口ずさむその子はマオを見つけると、ニコッと笑って手を振りました。僕を……僕を知ってるのか?……マオはゆっくりとその子のそばまで歩いていくと、確かめるように、ためらいながら話しかけました。
「き……きみは……セリエの中の……あの……写真に写ってる……」
栗毛の髪を風に靡かせたその子は、馴れ馴れしい口調で言いました。
「やっと会えたね、マーちゃん!」