12.破戒のはて
気まぐれな雨がやんで、輝く夏の太陽が真っ赤な新しい命に祝福の光を投げかけても、マオの部屋のカーテンはあれからずっと閉ざされたままでした。ベッドの上に横たわる小さな身体は、まるで眠っているように静かに目を閉じています。かすかな息の音さえしない静寂の中で、マオはこの子の時間が止まってしまったという事を否応なく突きつけられるのでした。悲しみの涙も、願いを込めたキスも、セリエの心を呼び戻すことはできなかったのです。忽然と現れた何百本ものカーネーション、それと同じくして起きたセリエの異変、理由はわからなくてもこの二つから導きだされる答えは一つしかありません。マオはただ呆然として、ひとりで旅立っていった子の髪をいつまでも撫でているのでした。
「セリエ……まさかこんなことになるなんて……私……どうしたら……」
霧のしずくでしっとりと潤った花壇のあのおおきな鉢の上で、エリシャも何も出来ない自分を責めていました。友達ひとり守ってあげられなくて、どこが守護天使なのだろう……そんな問いに絶えまなく突き動かされたエリシャの心は、くやしさとかなしさでいまにも張り裂けそうです。でもエリシャはこの気持ちをだれにもぶつけることができません。天界はあまりにもたかくてとおくて、彼女にはとても届かない彼方なのです。エリシャはただ途方に暮れて、ひたすら襲いくる絶望に耐え続けるしかないのでした。雨を呼ぶ湿った南風、アペリオテスはちょうど梅雨のはしりのひと雨を運んできたところ、ふと見つけたエリシャのあまりにしょげ返っている様子を見て、気になって地上まで降りてきました。
「やあエリシャ、あれ?何かあった?そうそう、私の運んできたあのちびちゃん……だれだっけか?あの子とは会えたの?」
優しい問いかけに顔を上げたエリシャは、目の前に降りてきた兄のように慕うアペリオテスを見ると、みるみる瞳に涙があふれてきました。
「風神さまぁ……セリエが……セリエがね……」
そのあとはもう言葉になりませんでした。気丈なエリシャですが、下界では天使であるが故の孤独から誰にも聞いてもらえなかった深い悲しみ……エリシャはようやく、思いっきり泣くことができるのでした。
「エリシャ……そうか……あの子が……セリエ……」
アペリオテスは胸で泣きじゃくるエリシャをふんわりと包み込むと、大地を蹴って空へと舞い上がって行きました。ゆるやかな気流に乗って雲を抜け、空を抜け、太陽に手が届きそうなくらいはるかたかい空のうえ、いっぱいいっぱい泣いたエリシャがふと顔を上げると、そこには懐かしい天の国のお花畑が広がっていました。
「風神さま……ここって……」
「いや、私も気になって……今からラファエル様に伺うところなのだ」
「え……じゃあここは……あ、ありがとうございます!風神さま!」
エリシャは手で涙を拭うと、アペリオテスの胸から離れてふわりと舞いました。せっかくの大好きな光景を顧みもせず、エリシャは遠くに見える高い塔へ向かって一気に飛んで行きました。先生なら……ラファエルさまならきっとセリエを助ける方法を知ってるはず!そう思うとエリシャはいても立ってもいられないのでした。
天空の一点を突き刺すようにそびえ立つ白亜の塔、ところどころ開いた窓からは動物や人、おびただしい数の言霊、そしてそれを導く天使たちの昇って行く姿を伺う事ができます。息を切らせて窓のひとつにたどりついたエリシャは、願うような気持ちでセリエを探しはじめました。中には酷い仕打ちを受けたと思われるかわいそうな動物や、もはや元の形ををとどめていないほどに刻まれた人間の姿もあって、それらと目が合うたびにエリシャは強い憤りと嗚咽で思わず目を背けそうになってしまいます。でもきっと、セリエが必ずここを通ると信じて、エリシャは昇ってゆく者たちの顔をひとりひとり探すのでした。
「おや?あなたはエリシャですね。まだ下界へは行っていなかったのですか?」
一心不乱に窓の奥を覗き込むエリシャの後で、聞き覚えのあるなつかしい声がしました。その白く輝く言葉は優しく心に響き、どんなときでも素直に受け止められる信頼に満ちています。ふり向いたエリシャはその気高い姿を目にすると、すがるような気持ちでラファエルに嘆願するのでした。
「先生……セリエが……セリエが天に召されちゃったの!お花にタマシイをあげちゃって……あの子、すごくいい子だから助けてあげたいの!だから…おねがいです、ここを通るときに救いあげてやってください!ほんとに……ほんとにおねがいします!」
涙ながらに訴えるエリシャを、ラファエルは無言でそっと撫でてあげました。優しく微笑んではいますが、その瞳にはいつもの慈愛に満ちた煌めきのかわりに、無常感と深い哀愁が漂っているのが見て取れます。エリシャはそんなラファエルの表情にひどく不安を感じて、
「せんせぇ……セリエ……だいじょうぶだよね……」
と泣き声でローブをつかみながら答えを促しました。ラファエルはエリシャの小さな手をにぎって静かに語りはじめました。
「エリシャ、セリエはここへは来れません。理由はどうあれ彼女は戒めを破ってしまった……だからここから上に行く事などありえないのです」
ラファエルの言葉にエリシャは愕然としてしまいました。あんなに一生懸命だったセリエ……エリシャはあまりに彼女がかわいそうで、ついラファエルにつっかかってしまいました。
「どうして?あの子、マオくんのためにすごくいい事したんだよ!なのにどうして神さまのところへ行けないの?そんなのひどい……ひどいよっ!」
めずらしく悪態をつくエリシャに、ラファエルは人差し指を彼女の鼻さきにあてて制しました。きょとんとして見上げたラファエルの顔はまるで啓示者のように真摯で、エリシャはラファエルの次の言葉を緊張して待ちました。
「マオくん……それが君の主なのですね。ならばあなたはただちに主のもとへ戻らねばなりません。いくら魂が救われても身体を失ってしまっては、その魂は他の行き場を求めて彷徨う事になりますから……」
「からだ?……セリエのからだ……マオくんの家だ!……じ、じゃあ……」
「セリエはいま、「冥」に向かって堕ちていくところです。戻って来れるかはわかりませんが、希望が全くない訳ではありませんから」
「冥!……そ、そんな所へ……」
エリシャは身震いがしてきました。かつて堕落した大天使が叩き付けられたあとの、地球の中心まで続く闇と業火と断罪の漏斗……永遠に鳴り止まぬ重罪人の悲鳴が溢れかえるその場所……エリシャは話に聴くだけで身の毛もよだつ「冥」に堕とされたセリエが戻ってこれるなんてとても考えられません。恐怖と絶望で、エリシャの心は今にも折れてしまいそうです。
「セリエ……そんな……わたしが……私があんなこと言わなきゃ……ごめんね……セリエ……ごめんね……」
震えながら独り言をこぼすエリシャを、ラファエルはそっと胸に抱き入れました。
「エリシャ、お友だちの君が信じてあげなくてどうします?もしセリエが正しいのならば、どんな地の底からでも舞い戻ってこられるはずです。あなたが愛するセリエは、そんな子ではなかったのですか?」
ラファエルの心に染みとおるような言葉に、エリシャは胸にかすかな光が射してくるのを感じました。心がぽかぽかしてくるこの気持ち――あの時とおんなじ……セリエと感じた一体感、相手を想う一途な心――迷ったときに交わしたあのあたたかい心のふれあいを思い出したエリシャは、セリエを想うことが彼女の道しるべになるということに気がつきました。
「そっか……わかった!、うん、セリエ、あなたを信じる!マオくんのことはまかせてて!」
顔を上げたエリシャは前よりずっとおおきな翼をぱあっと広げました。たくさんの光の羽根が舞い散って、それはエリシャが新しく何かを得た事をはっきりと物語るのでした。ラファエルは「ほぉ」と笑みを浮かべると、まだ涙の残る笑顔であいさつをするエリシャに応えました。
「先生!わたくしエリシャは、ひきつづき自らの主の守護へとまいります。ご教鞭、ありがとうございました」
「わかりました、しっかりおやりなさい」
天界へと行き来できる立派な翼を授かったエリシャは、光の粉を振りまきながら下界へ……悲しみにくれるマオのもとへと向かいました。なんとかして、まだセリエに希望がある事を伝えなきゃいけない……決意と不安がごっちゃになった不安定な気持ちのままだけど、今のエリシャにはそれを吹っ切れるだけの心の強さがあります。成長したエリシャを頼もしく感じながら見送ったラファエルは、その先にかすかに見える漆黒の監獄……「冥」の奥に思いを馳せるのでした。
「これからですね……セリエ……」
光ははるか彼方に消え失せ、青白く燃える燐と、邪気をはらんだ獣の眼光がとおく、ちかくにゆらめく闇の中を、セリエは天地もわからないまま降りていきます。下の方からは絶えず絶命者の悲鳴が響き渡り、セリエはそのたびに耳と目をふさいでくちびるをかむのでした。
「こ……こわくない……こわくないもん……」
セリエにまとわりついてくる燐の炎は凍りつくくらい冷たくて、それを振り払うたびに飛び散った小さな炎が、闇の世界の様相を不気味に浮かび上がらせるのでした。
「ううぅ……やっぱりこわいよぉ……セリエ、お花になれるんじゃなかったの?……もうこんなくらいとこヤダよー!」
暗闇に響きわたる泣き言に応えるように周りの壁から低いうなりのような声がいくつも返ってきて、セリエはあわてて今度は口を押さえました。ときおり照らし出される無数の窟では、体中を大蜂に刺されて醜く腫れ上がった詩人や、三頭の獣に引き裂かれる皇帝といった罪人で溢れかえり、虐げられた彼らはみなセリエに救いを求めて、青白い手を伸ばしてくるのでした。言葉にならないようなうめきをまき散らす彼らを、体中に蛇を巻きつけた大男がつぎつぎと潰していきます。その凄惨な光景にセリエはがくがく震えて、足下の暗闇の先に待つ自分の運命に堪え難い恐怖を感じるのでした。
「こわいよ……こわいよ……こわいよ……こわい……」
やがて遥かに下の方にかすかな光が見えてきました。それは一重の輪のように中心の闇を取り囲み、まるで指輪のように赤々と揺らめいていました。セリエは久しぶりに見た、そう、あのカーネーションと同じ鮮やかな色彩にほっとして、きっとこれが出口に違いないと明るい気持ちになりました。ここを抜ければ、おにーちゃんのお花ばたけにかえれるんだ!セリエはわくわくしながら、近づいてくる光の輪を見つめていました。
「あれ?なんだろ?なにかがもえてるの?」
よく見るとそれは燃え上がる炎の光で、近づくにつれて猛烈な熱さで顔も向けられないほどに、円弧を描く周りの壁一面が高々と火柱をあげています。セリエは手で顔を覆いながら炎の海を降りていきました。いったい何が燃えているのだろう……セリエは指のあいだから燃え盛る炎の根元をのぞいてみました。業火に身を焼かれながらのたうち回る黒い影……セリエは息が止まりそうになってしまいました。
「天使が……天使がもえてる!……」
それは数えきれないほどの堕天使の終末……永遠に続く彼らの償いの光景でした。セリエは声も出せないまま呆然として、その場に立ちすくんでしまいました。まさか自分がこんな所に送られてくるなんて……そしておそらく、ここから二度と出る事が出来ないなんて……そう考えるとセリエは、炎に焼かれる恐怖よりも、遠くに残してきた人たちが無性に恋しくなってしまうのでした。
「先生……エリシャ……おにーちゃん……なんだか……サヨナラみたいなの……」
上を見上げるセリエのほほを、涙が幾筋も流れていきました。もうそこには空はなく、燃えさかる炎の火の粉が暗い虚空へと吸い込まれていくだけ……セリエはそっと、胸にしまった輝く球を手で押さえました。お花にはなれないみたいだけど、これでみんな、わたしをゆるしてくれるよね……セリエはゆっくりと燃えさかる炎のもとへ歩いてゆくと、目を閉じてその手を業火にさらしました。
「汝の冒涜は極罪に値するなり!同じ破戒の徒に噛み砕かれるがよい!」
突然地鳴りのような低い声が響きわたり、炎の手がセリエを鷲掴みにしました。セリエは熱くて熱くて、悲鳴を上げながら抗いますが、炎の手はぐっとセリエを高く持ち上げると
「地の底で永遠に断罪せよ!」
そう言うと更に下の漆黒の洞へ……暗黒の中心へとセリエを投げ込みました。燐の炎も、獣の光も、猛り狂う炎さえも届かない虚無の世界……果てしない闇へ堕ちてゆくセリエの哀しい叫び声は、誰にも届かないまま地の奥へと消えていきました。