11.花が生まれるとき
ゆらゆらとたゆとう茜色の陽が、手を合わせる少女のほほと、供えられた白いカーネーションをほんのりと染めていきます。その横顔……シャギーの髪からのぞく細い項は妙に艶かしくて、マオはついついそっちに目がいってしまいます。静かな黄昏のひととき……並んで手を合わせる二人のあいだを、時がもどかしげに流れていきます。いたずらな風が運んでくる少女の髪の香り……その大人びた佇まいに、一瞬マオは隣にいるのが誰なのか解らなくなってしまうのでした。
「もう10年か…あっという間だね」
サツキは目を開けると、隣にいるマオの方を向いて言いました。さっきから彼女を見つめていたマオはびくっとして、慌てて視線を飾り棚の上の、花に囲まれた婦人の写真へと向けました。目にしみるような真っ赤なカーネーション……母さんの、そして自分の大好きな花……でもマオはその憶いをあの日からずっと心の中に封印して、だれにも、もちろんサツキにさえも語ろうとはしないのでした。
「親父も馬鹿だよなぁ、あんな花壇の為に何もかも売っちゃってさ……」
マオはサツキの視線に動揺したのか、なんだかよくわからない返事を返してきました。まあ、いつもスカした反応ばっかりなマオなので別に変には思わないようですが……サツキは窓越しに見える庭の花壇を眺めながら独り言のように言いました。
「いいなぁ……私もそんなに好かれてみたいなぁ……」
「え?……」
誰に向けたともわからないサツキの言葉に、マオは思わず声を出してしまいました。その表情には戸惑いの色がありありと見てとれるのですが、サツキはそんなマオの態度など気にしない風で、
「あたた……正座ってダメなんだ。えへ、ちょっと足くずしていい?」
そういうと両足を横に出して座りなおしました。制服のスカートがゆるやかな弧線を描いて、マオはその端正な生地の流れとそこからのぞく白い足に、今まで感じたことのない昂りを覚えるのでした。
「……何か飲み物持ってくる」
このままだと何だか頭がおかしくなりそうで、マオは逃げるように席を立つと台所の方へ行こうとしました。
「あ、いいよ構わないで、もう帰るから!」
そういってサツキも一緒に立ち上がりましたが、どうも足が痺れてるようで大きくふらついてしまいました。
「きゃあ!」
「うわっ!」
倒れかかってくるサツキをマオは何とか受け止めました。ガンバレ!背が高いだけあってちょっと重たいよ!不安定な体勢のマオは一度踏ん張りなおすと、渾身の力を込めてサツキを支え続けました。
「お……おい!大丈夫かよ」
「ちょちょちょっとまってて……」
真っすぐ立っていられないサツキはマオの顔を抱えるようにしがみついています。目の前にあるサツキの頭……その髪の香りはさっきとは比べ物にならないほど馥郁として、手の平から、胸元から、肩にかかった腕から伝わってくるぬくもりが、マオを気が遠くなりそうな高揚感で包みこむのでした。
「なんか……ヤバ……」
「あー!じんじんするっ!もうッ!」
ようやく痺れもおさまってきたサツキ、足をトントンついて痺れを追い出しながら、ふと自分がマオにしっかりと抱きついていることに気がつきました。あれ、私、何してんだろ……おそるおそる顔を上げたサツキの目に映る幼馴染みの顔……でもなんだか今日はいつもと違うような気が……ハッ!!!
「うぁ!……ご、ごめん真桜!私……も、もう大丈夫だからっ!じゃねっ」
サツキははじけるようにマオから離れると、ぽっぽっとしたほほを手で押さえて部屋を出て行きました。でもまだ少し痺れが残ってるのか、あちこちぶつかりながら走っているようです。
「あいつ…家を壊す気かよ」
くすっと笑いながらマオは、サツキを見送りにテラスに出てきました。夕焼けをバックに浮かび上がるシルエットのサツキは、庭で遊んでいるセリエと何やら会話を交わしたあと、マオに向かっておおきな声で言いました。
「この子、可愛がってるみたいで安心したよー!またねー!変わってなくてうれしかったよー!」
マオは軽く右手を上げて答えましたが、ふと今の言葉の意味が気になって、
「変わってない?……何が?……おい!今の!……」
マオはあわてて彼女を追って問いただそうとしましたが、もうサツキは扉を出たあとでした。マオは釈然としない気持ちを覚えつつ、花壇の花時計のところでごそごそやっているセリエに聞いてみました。
「なあ、サツキと何話してたんだ?」
セリエはいつもならくるっと振り返ってころころ笑いながら話してくるのですが、今日はなぜかマオの顔も見ないで、ただぼそぼそっと答えました。
「うん、おにーちゃん、どんなひとってきかれたよ」
「ふーん、それで?」
「やさしいよってこたえたよ」
自分のお株を奪われたかのような素っ気無い返事にマオはちょっとムッとしましたが、一心不乱に土遊びをしているセリエの態度に何を言っても無駄と思ったのか、
「あまり服汚すなよ、あと真っ暗になる前には帰ってこい」
「はーい」
そう言うと一人で部屋へと戻っていきました。
「セリエ〜なにすねてるのよ〜」
帰っていくマオの後ろ姿を見送ったエリシャは、不満そうにセリエに言いました。
「すねてないもん!このお花がみんなさいたら、おにーちゃん、セリエほめてくれるもん!」
どうやらセリエ、サツキにやきもち焼いてるみたい!それにしてもあれから一週間、毎日毎日せっせとお水をやっているセリエなのですが、あの球を埋めた鉢にはなんの変化も起きません。いつまでたっても叶わない自分の希望に自信を無くしかけているセリエに、エリシャは何とかしてやろうと思うのですが、思い当たる本は全部調べたし、先輩の天使に聞き回ってもそんな戒律破りの対処法なんて気味悪がって取り合ってくれません。星の出てきた空を見上げたエリシャは、さすがに疲れが出たのかおおきなため息をつくと、意固地なまでに土弄りをしているセリエの横へ行って、
「もう暗くなっちゃったよ……ねえ、またあしたがんばろうよ」
というと、セリエの真っ黒な手をとって立たせました。
「うん……」
セリエも小さくうなずくと、同じように星空を見上げました。瞬く星の海は近いようで遠いようで、自分たちがすごく小さな存在に思えてきて……あらあらセリエ、おおきなあくび……ささ、ごはん食べてネムネムしなさいな……エリシャに手を引かれて半分寝ながら部屋へと戻るセリエ、その頭上で天を2分するかのような長い長い流れ星が、きらめく光の粉を振りまきながら地平へと消えていきました。
ぴゅうぴゅう……
「……?」
そよそよ……
「それでねそれでね……」
ざっわわざっわわ……
「はくちょん!」
「あ、ちびてんちゃんだ、わいわいわいわいわいわいわい……」
「ほえ?」
「さっきからこの子たちに話しかけてくれてるのは、君ですか?」
不思議な声に気がつくと、セリエはなぜか一面の緑の草原に立っていました。吹き渡る風がつくる無数の波紋がぶつかるたびに、たくさんのコトバが語りかけて来ます。セリエはあたりをきょろきょろしましたが、草原にはだれひとりいません。風の音とささやく草たちの声と……どこかでみたような、なつかしい気がするその光景に、セリエは追い出された天界のことを思い出してしまうのでした。
「……なんだか、おそらのお花ばたけみたいだな……ラファエルさま……みんな、げんきかな……」
「あれ?そうか、君があのセリエですか……いやいや失礼、こんなチビちゃんとは思わなくてね……なるほど、ラファエルの言う通りの子ですね」
「え?……あ……」
その声はたかいたかい空の上から、ふりそそぐようにセリエに届きました。お日さまの光のようにあたたかくて、星の光のように澄んでいて……セリエはその、すべてを見透かすような声に親しみと畏れを感じました。何も言うことが出来なくなるほどの圧倒的な意思の存在……はじめて感じる畏敬の念にセリエはただ空を、輝く昼間の星を見上げているのが精一杯でした。
「セリエ、あなたの願いはよくわかります。だけどこれはあってはならないこと……もし、どうしてもというのであれば、あなたは自らを憑巫として彼らに捧げることになります。あなたにその覚悟はありますか?」
セリエはごくりと喉をならすと、声のする方をじっと見つめました。それは天啓……難しいのに受け止められてしまう不思議なその言葉の意味が、セリエの心に重く響いてくるのでした。
「あなたは天使ではない。だからもし命がつきれば今のあなたは消えてしまいます。あなたの魂は彼らの中で生き続けることになるのですから」
セリエの心に、たくさんの風景が浮かんでは消えていきました。お花ばたけ……学校のたかい塔……しめった南風……寂しげな男の子……
「おにーちゃん……」
セリエはマオのことを思い出しました。そうだ……カーネーションといっしょなら、ずっとおにいちゃんのそばにいられるんだ……セリエのこと、ずっとおぼえててくれるんだ……セリエは手をぎゅっと握りしめると、空に向かって言いました。
「セリエ、この子たちたすけるよ!かだんのカーネーション、いっぱいさかせるよ!」
空からの返事は何もありませんでした。ただ何もなかったかのように静寂が訪れ、吹いていた風もぴったりとやんでしまいました。セリエは何だか不安になってきて周りを見回しました。すると草原からぽつり、ぽつりと緑色の光が浮かんできてセリエの周りに集まってきました。くるくる回ったりくっつきあったり、まるではしゃいでいるようです。セリエは両手を広げて、次々と浮かんでくる光たちを呼びました。
「みんなおいで……いっしょにいこうね……」
緑色の光はぽぉっと明るく輝くと、次々とセリエのからだに吸い込まれていきました。セリエは抜けるような青空を見上げながら、はるけき未来へと想いを翔ばすのでした
「おい!いい加減に起きろよ」
最近昼夜が元に戻ってしまったマオが、セリエの部屋のドアをどんどん叩いています。いきなり入って行かないあたり、一応彼なりに気を使っているようです。あの仄かに光る、夢見るセリエには触れない方がいいみたいですし……でもあまりに返事がないので、業を煮やしたマオはそーっと扉を開けてみました。
「ちび……?」
おかしなことに部屋には誰もいません。あたりをみまわしたマオは、部屋の隅の座卓の上に何枚かの丸めた紙があるのに気がつきました。マオはちょっと罪悪感を感じましたが、何かの手がかりになればとその一枚を手に取って広げてみました。くしゃくしゃの紙には赤のクレヨンで書かれた何だかよく解らない、ミミズのような模様が並んでいます。「なんだこれ……字かな……か……ね……しょ…………!?」
マオはまさかと思い、玄関を抜けてテラスへと出てきました。そこでマオはとおい昔に見た、まったく同じ風景と再会するのでした。
「まさか……カーネーションが……」
風に揺れる可憐なカーネーション、それはおおきな花壇全部をまるで真っ赤な絨毯を引いたように華やかに彩り、寂しかった庭を命の煌めきで満たしていました。マオは自分の胸が、もうとうに枯れてしまったと思っていたあたたかいものでいっぱいになって行くのを押さえきれないでいました。
「きれいだ……母さんの花……よく咲いてくれたね……」
マオの心は、セリエへの想いでいっぱいになりました。そして前にひどいことを言ってしまった自分が恥ずかしくなって、あわてて彼女を探しました。天使じゃないかもしれないけど、自分の為にここまで頑張ってくれたなんて……マオはセリエの自分への気持ちがたまらなく愛おしくなって、早く顔を見たくて仕方ありません。会ったら、思いっきりほめてあげよう!花壇の真ん中の、花時計の12時の所にあるおおきな鉢……そこから飛び出た小さな、髪みたいな羽根を見つけたマオは急いでかけよると、鉢を抱いて眠っているセリエの肩にそっと手をかけました。
「こいつめ、こんな所で寝ちまって……でも……ありがとう……」
マオは優しくそういうと、セリエの身体を揺り動かして目覚めさせようとしました。しかしセリエは目覚める事なく、そのまま静かに花壇に倒れてしまいました。慌てた抱き起こしたマオの見たセリエの顔はくすんだ、血の気のない土色で、愛らしいくちびるはかさかさにひび割れてしまっていました。
「おい!どうした!セリエッ!しっかりしろって!」
マオは激しくセリエの身体を揺すって、何度もその名を呼びました。ぐなぐなとゆれる彼女の四肢が、マオの心を容赦なく切り裂いていきます。でも、そうやってマオに抱かれているセリエの顔は、何だかとても幸せそうに微笑んでいました。