五部(最終話)
9
ドアをあけると靴墨のにおいが鼻を抜けた。下駄箱のよこに新聞紙が広げられ、そのうえに磨き上げられた革靴と母のお気に入りだったハイヒールが仲よく並んでいた。
「ただいま」とわたしはさぐるように言った。おかえり、とリビングから父ののんびりとした声が返ってきた。
わたしはリビングのとびらをひらいた。「帰ってくるのあしたじゃなかったっけ?」
「きょうだよ。なにを言ってるんだ?」、テーブルについた父はぽかんとして言った。「変わったことはなかったか?」
「とくには」、わたしは混乱したあたまをかかえて言った。携帯電話のスケジュール帳を確認すると、たしかにきょうの予定だった。
「ならいい」
父は気の抜けたビールを飲みほし、小皿にあけた柿の種をつまんだ。白いTシャツにベージュのハーフ・パンツがすずしげだ。カーテンがゆらぎさわやかな風が入ってきた。父は瓶からグラスにビールをつぎ、テレビにうつる野球の試合結果を眺めた。この姿を見ると、長い雨のあとにおとずれる夏を感じずにはいられない。
巨人戦のハイライトがはじまり、父は身体を前にかたむけた。最後のバッターが空振りに倒れ、内海がガッツポーズをとると父は背中を背もたれに戻した。眼鏡の奥の目は喜んで見える。
「どうした? 突っ立って」
「なんでもない」
「それは?」、父はわたしが手にさげたビニール袋に視線をうつした。
「これはチョリソとフライド・ポテト」
「そうか」
「食べるの?」
「もらおうかな」
「身体にわるいよ。こんな時間に」
「健康診断はオールAだから」
「もう、ヒロとおなじようなこと言って」。わたしはため息をついた。「靴出しっぱなしだったよ」
「ああ、そろそろしまうか」
「わたしがやっとくよ」
「いいんだ。仕上げがある」
「仕上げ?」
わたしは父のあとをついて廊下を歩いた。父のかたくなったかかとが廊下にすれて、乾いた音が耳にこもる。背中は大きいのだけれど、疲れて眠そうに感じられる。白髪も多くなった気がした。父は下駄箱をあけ、靴磨きの道具の入った箱から使い古した布を手にとった。それから自分の靴を素早く円をえがくように磨き、つづいて母の靴も磨きだした。心なしか自分のものよりもていねいに磨いている気がする。手がとまり、いろいろな角度から靴を眺めていたかと思うと、父は納得したようにうなずいた。
「墨をきれいにふきとるのがコツなんだ」
「ふうん……。どうしてお母さんのも磨いたの?」
「こういうものは定期的に手入れをしないといけないんだよ」、父は眉をよせて笑った。
「お父さんはわたしのことどう思っているの?」ふいに想いがあふれでた。「わたしのせいでお母さんを死なせてしまって、ほんとうになにを言えば、なにをしたらいいか……」
父はハイヒールを下駄箱にそっとしまい、とびらをしめた。「ユウだけのせいではない。あの事故の責任はひとりで背負うものではない」
「でも――」
「『でも』や『もし』はないんだ」父は強くわたしの話をさえぎった。「そういう考えはしないでくれ。お母さんも悲しむ」
「わたしずっと迷惑をかけて……兄弟でいちばん出来がわるいし、こまらせてばかりで……」まぶたが熱くなり身体がふるえる。声はのどの奥につまって出てこない。わたしはうなだれ、歯をくいしばり、こぼれ落ちそうな涙をこらえた。
「仏壇の部屋の押し入れをあけてごらん」
わたしは顔をあげ父を見た。父の眼差しからきびしさと、強く守ってくれているようなやすらぎをわたしは感じた。
「右下の方に見せたいものが入っている。さあ」
わたしは父に背中をおされて仏壇の部屋へ向かい、戸を引いた。線香のにおいが漂っている。蛍光灯に照らされた畳の緑がまぶしい。わたしは父に言われたとおりにふすまをあけ、膝をついた。そこには大きめのプラスチックのケースがいくつかあった。これが見せたいもの? わたしはそのうちのひとつをひっぱり出してふたをひらいた。なかには背表紙に年号が書かれた分厚いアルバムがつめられていた。はじめて見た。いつこんなものをつくっていたのだろう。わたしは去年のアルバムの背表紙に指をひっかけてとり出し、なにかに導かれるようにページをめくった。
そこにはわたしと兄とヒロの写真がびっしりと貼られていた。ピースをして撮られた記憶のある写真から、いつ撮られたかわからないそっぽを向いた写真や寝顔の写真。まぬけな自分を見るのは恥ずかしいけれども、兄やヒロの見たこともない表情を見るとほほがゆるんでしまう。
しばらくぱらぱらとめくりつづけていると、わたしの引退試合の写真がでてきた。おかしい。引退試合は母に来ないで、と言ってからだいぶたっているはずなのに。わたしは息をのんで一昨年の、その前の年のアルバムのページをめくっていった。
ぜんぶ――ぜんぶある。わたしが出たぜんぶの大会の写真がある。なかには練習試合のものもちらほらあった。涙がページに落ち、音をたてた。
「三人とも二十歳をすぎたら」うしろから父の声がした。「三人とも二十歳をすぎたらみんなでお酒でも飲みながらアルバムを見たら楽しそうね、ってお母さんがつくっていたんだ。よくぼやいてたな。ユウを撮るのがいちばん難しいって。その分うまく撮れたときは嬉しそうに写真を貼っていたよ」
わたしは涙を拭った。「こんど、お兄ちゃんが帰ってきたらみんなで見たい」
父は仏壇に視線をやった。「そうだな。みんなでな」
わたしは父の前を通り線香に火をつけた。灯る火に息を吹きかけ落ちつかせてから灰にさし、鈴をならした。煙は細くたちのぼる。遺影の母はやさしい笑みのまま動かない。
「やっぱりいい笑顔」
「そうだな」
「この笑顔がきっかけだったの?」
「それもあるけど、それだけではない」と父は言った。「ひとは思い出があるから生きていける。でも思い出のなかでは生きてはいけない」
「お父さんどうしたの?」
「きっと我々はもっと話し合うべきなんだ。偉そうにひとのことを言えた義理ではないな」父はどこか遠い目をしてぽつりと言った。「しかしきょうはもう遅い。あしたも学校だろ? 早く寝なさい」
「お父さんも仕事でしょ?」
「有給でもとるかな」
「いいの? そんなことして」
「これが会社のいいところでもありさびしいところだ。自分の代わりはいくらでもいる。でもおれはひとりしかいない。お母さんもタカシもユウもヒロもみんなひとりしかいない」、父は微笑んだ。「ちょっと飲みすぎたな」
「どういう意味?」
「本当はだれかがだれかの代わりになんてなれないってことさ。これからゆっくりやっていこう」
わたしはふたたびあふれだしそうな涙をこらえた。「うん。……お父さんも早く寝たほうがいいよ」
「アルバムを片づけて、さっきのつづきが終わったら寝るさ」
「飲みすぎないで。おやすみなさい」
10
目ざまし時計が鳴る前に目がひらいた。あたまは寝起きだというのにさえてすっきりしている。生活のリズムは戻りつつあるみたいだ。わたしは腹筋をする要領で身体を起こし、ベッドから抜けだした。ヒロは相変わらずせわしなく廊下を行き来している。お風呂場からシャワーの音が聞こえる。父はきのう何時に寝て何時に起きたのだろうか。
リビングの窓に広がる空はレースのカーテン越しからでもわかるほどに青かった。わたしはテーブルに置かれたリモコンを手にとり、テレビをつけた。朝の情報番組のアナウンサーは、困っているのか喜んでいるのかわからない表情と口調で、きょうは夏日です、とくりかえしていた。
電車のなかは少し肌寒いくらいに空調が効いている。それにもかかわらずとなりで新聞を細く折りたたみながら読むサラリーマンは、鼻の頭にうっすらと汗を浮かべている。こんな天気なのだから上着を脱いでネクタイを外してもよさそうなのに。ななめ前と左どなりのOLも手やハンカチで顔をあおいでいる。薄くファンデーションがぬられ、ほほのあたりにほんのりと桃色がさし、眉はくっきりとひかれ自信にみちた顔つきをしている。今朝は雑誌を片手に頑張って化粧をしてみたけれど、うまくはいかず、けっきょくすっぴんでTシャツにジーンズのわたし――彼女たちとの距離はどれくらいあるのだろう?
ふと、ゆっくりやっていこう、と言ったきのうの父の姿があたまをよぎった。そうだ、バスケットをはじめたとき、いきなりジャンプ・シュートやクロス・オーバーができたわけではない。少しずつ、地道にドリブルをつくみたいにゆっくり……
電車は鉄橋に入りスピードを落とした。車内はゆれ、前に立つひとたちの姿勢が傾き、視界がひらけた。空には花嫁のヴェールのような雲がひとひら舞い、凪いだ川は鏡のように空をうつしている。太陽は白くかがやき、土手の芝生やランニング・コースに並ぶ桜の木、ひしめきあう家々の屋根、そんなわたしのひとみに飛びこむすべての景色がひかって見える。わたしはあまりの美しさに心を奪われ、見とれてしまった。鉄橋をわたり、また乗客に視界がさえぎられても、わたしは窓の方を眺めていた。
突然まわりがあわただしくなり、風が髪と首筋をなでた。いつのまにか電車は駅につき、とびらをひらいている。わたしはとびらを目指していくひとの波にのまれ、よろめいた。ふいに流れていくひとのなかに見覚えのある顔があった気がした。わたしは急いでふりかえりその姿を探した。茶色の髪をうしろでひとつに結び、くもりのない目で力強くまっすぐ行く先を見据えている。
アイちゃんだ――思い出した。イトウさんの眼差しはアイちゃんと似ていたんだ。一歩踏みこんで手を伸ばせば背中をたたけそう――でもわたしは手を伸ばさない。いまのわたしでは胸をはってアイちゃんと話せない。そう、イトウさんとも。本気で求めているものがある彼女たちとは対等には話せない。わたしは階段をくだっていくアイちゃんを、その姿が見えなくなってもいつまでも追いつづけていた。
学生ホールを足早に抜けて喫煙所に向かう。外からなかを確認するとやっぱり先輩はそこにいた。わたしは思いきりドアノブをひねり、喫煙所をすすんだ。先輩はぼおっとけむりを見ていてわたしには気づいてない。どうやって話かけよう? 言葉が思いつかない。わたしはポケットからたばこを出してくずかごに放りこみ、先輩にせまった。
「おお、びっくりしたな」、先輩は身体をちょっとのけぞらせた。「どうした?」
「ボールもらいます」
わたしは先輩が肩にひっかけていたボール・バッグをつかみとった。背中のうしろで先輩がなにか言っているけど聞こえない。鼓動が強く、指先から全身が熱くなってくる。早く――早くアイちゃんたちのいるところへ飛んで行きたい。
[了]
ちょっと前に書いたものをふと思い立ちアップしてみました。
読んでくださった皆様ありがとうございました。




