四部
7
退屈さからか、いきづまりからか、やるせないからか、そんな感情を持てあましたひとびとのため息が舞いあがり、雲となってあたまのうえに広がっている気がした。目にうつる風景はすべて、空の色ときのうの雨がしっかりと染みこんでいる。わたしは腕時計に目をやった。そして歩くスピードを速めようとしたとき、となりに歩幅をあわせるひとの気配が近づくのを感じた。黒いボール・バッグが視界の端をかすめ、わたしにかるくあたった。
「よっ」
「おはようございます」
「めずらしいな、ぎりぎりで学校にくるなんて」
「先輩こそ。わたしのことより、イトウさんの件いい案は思いついたんですか?」
「けっきょく無難な感じになりそうだな」
「役にたつかはわかりませんが、イトウさん花が好きって言ってましたよ」
「花か……」
先輩はだまりこんだ。先輩は考え事をしながらもひとのあいだを器用に縫ってすすんだ。かどのたばこ屋を過ぎて右に曲がると人通りが少なくなった。校舎の屋上のフェンスが見えたところで、わかった、ありがとう、と先輩は言って自分の考えをたしかめるようにうなずいた。
わたしは講義に間に合わせるためかなり速く脚を動かしているはずなのに、先輩は平然とわたしについてくる。わたしはため息をつき、先輩を見あげた。
「どうした?」
「なんでもないです」
二限前の校内は少しずつ活気を帯びはじめている。テーブルを囲むひとやホールを抜けるひとたちの声が壁に天井に反響している。先輩の受ける講義が五階だったのでエレベーターを待つことにした。わたしのあせる気持ちをよそに、エレベーターは最上階の九階からなかなかおりてこない。
「わたし階段で行きます」
「すまない」、先輩は申し訳なさそうに手をあげた。
わたしは階段を駆けあがり、三階の教室に向かった。はずむ息をととのえ、深呼吸をしてとびらをひらいた。教壇に近い席に座ったイトウさんがちいさく手まねきをしていた。
「いつもはユウが席をとってくれるけど、きょうはわたしの番だね。体調……わるいの?」、イトウさんはとなりの椅子に置いたバッグを自分の方によせた。
「ありがとう。もう大丈夫だから」
「よかった」とイトウさんは言って微笑んだ。
始業のチャイムが鳴り、先生が教壇にのぼった。さっきまでそこかしこから聞こえてきた話し声はぱたりとやみ、筆箱からペンを出したりノートや教科書を開いたりする音がひびく。イトウさんはペンを持ち、いつでもノートをとれる姿勢になっていた。勉強くらいはイトウさんに負けないようにしないと。そう思い、わたしはマイクを通して聞こえる先生の声に耳をかたむけた。
講義を終え教室を出ると、廊下を行き交うひとの数はさらに増えてにぎわっていた。教室の壁に沿って置かれたベンチは、お弁当を広げ友だち同士でお昼を楽しんでいるひとでほとんど空きがない。
「ユウどんなものが食べたい?」
なんでもいいよ、と言いそうになったけれどその言葉を飲みこんだ。でもお腹は減っているはずなのに、食べたいと思えるものはさっぱり思いつかない。
「イトウさんのおすすめが食べたい。いつもお弁当だから、おいしいお店は詳しくなくて」とわたしは言った。
イトウさんはすこし考えてから、「このあいだタナカくんたちと行ったお店がおいしかったからそこにしよっか」と言った。
「もしかして外装が竹の……」
「そうそこ。ユウ行ったことあるの?」
「一回だけ。焼き魚定食がすごくおいしかった」
「天ぷらもおいしかったよ。じゃあきょうはそれにしようかな」
ホールを横切ろうとしたとき、うしろからイトウさんを呼ぶ声が聞こえた。ふりかえるとササキさんが手をふりながらオガワさんたちとやってきた。わたしはきのうのことを思い出し、身体がすくんでしまった。
「ユイたちもお昼? なら一緒に食べようよ」とササキさんがいつもと変わらない鼻にかかった甘い声で言った。
もし一緒に食べることになったら、わたしはうまくふるまうことができるだろうか。不安が胸をかすめる。
「ごめん、用事があってこれから帰るところなんだ」
わたしはその言葉に驚いてちらりとイトウさんを見やった。
「そっかあ、スズキさんも?」
「わたしもちょっと……」
「じゃあ、またね」
ササキさんたちの背中がちいさくなっていくとイトウさんは、予定変更、とささやいた。
「地元にいいお店があるからそこにしよう。駅に近いからユウの負担にはならないと思う。どうかな?」
「大丈夫、まかせるよ」とわたしは言った。
これまで通り過ぎるだけだった駅、きのうイトウさんを見送った駅にきょうは一緒におりる。おりたホームのとなりでは、線路を増やすための工事が行われていていた。青い保護シートの向こうで、ヘルメットをかぶった作業員たちが資材をかついで忙しそうに運んでいる。
イトウさんはわたしを気にかけながらも慣れた足どりで歩いている。シルバー・カーを押すおばあちゃんやこどもの手をひく母親たちをどんどん追いこしていく。エスカレーターで構内へくだる途中、わたしたちのわきを小学校の低学年くらいの女の子たちが勢いよく駆けていった。
「すごく元気だね」
ひとつ前のステップに立ったイトウさんはわたしを見上げ、ほがらかに言った。
「そうだね」
「あの子たちくらいの頃、ユウはどんな子だった?」
「あんな感じだったよ。それでよく服を汚してお母さんに怒られてた」
イトウさんはまつげを蝶の羽のようにまたたかせた。「なんか意外。想像できないよ」
「そうかな? イトウさんは?」
「わたしは無口でいつもおどおどしてたな」
「そっちの方が想像できないよ」
わたしたちはみつめあい微笑んだ。
構内も工事中で薄暗い。天井付近に渡されたロープに連なった電球、斜面のある場所では滑り止めのついたゴムのシートが敷かれている。そして白いプラスチックのボードがまわりを囲んでいた。
「長いあいだこんな状況だから、どこがどうなったのかちっともわからないんだ」イトウさんはぽつりと言った。「よくお姉ちゃんの誕生日に買いに行ったお花屋さんもなくなっちゃったし」
「前はどんな感じだったの?」
イトウさんは歩く先に見える、かどのあたりのプラスチック・ボードを頼りなさそうに眺めた。「あそこらへんにお花屋さんとキオスクがあって、そのよこには……だめ。もううまく思い出せない。みんなどこへ行ったのかな? それであたらしくなにができるのだろう」、イトウさんのひとみには儚げなひかりがゆれていた。
ほら、あのお店、と言ってイトウさんが指をさしたのは、レンガ造りの外壁と緑色の屋根が目をひく、どこか家庭的な佇まいのレストランだった。とびらは開け放しになっていて、近づくとなかから音楽と話し声がもれて聞こえた。入ってすぐのレジにいたウエイターは、わたしたちに気がつくと親しみのある笑顔と調子で、いらっしゃいませ、と言い、手際よくテーブルをすすめてくれた。正確に時を刻む秒針のようにかかとが年季の入った木製の床を鳴らす。
店内は店構えから想像していたより広く、八卓ほどあるテーブル席はそれぞれ十分に離れて設けられていた。テーブルもカウンターも女性客でしめられている。
「ちょうどテーブルがあいてよかった。さあなにを食べようか」、イトウさんはメニューをひらいた。
ピザにパスタやリゾット、それとハンバーグにアクア・パッツァ。メニューにそえられた写真を見ただけでくちのなかが湿ってきた。
「まよっちゃうな」とわたしは言った。
「これなんかどう?」
「豆乳ときのこのカルボナーラ?」
「豆乳だから後味がさっぱりしていてヘルシーなの。きのこもエリンギにマイタケにシメジがたくさん」
わたしはうなずいた。「うん、決めた。イトウさんは?」
「説明してたらわたしも食べたくなっちゃった」
イトウさんは手をあげてウエイターを呼んだ。テーブルを案内してくれたウエイターがやってきて、注文を確認した。
「ランチのお飲み物はどうなさいますか?」
「わたしは紅茶をデザートと一緒に持ってきてください」
「コーヒーをわたしもそのタイミングでお願いします」とわたしは言った。
「かしこまりました」、ウエイターは伝票を置いてカウンターに戻っていった。
グラスの水はくちに含むとほんのりレモンの風味がした。スピーカーからはおじさんの車で聞くようなジャズが、会話をさまたげない程度のボリュームで流れている。音楽に気をとられているとサラダが運ばれてきた。青くすずしいガラスの器にレタスとラディッシュにミニ・トマトと海草が盛られ、オリーブ・オイルのドレッシングがかけられている。素材はどれもみずみずしく新鮮だ。
「イトウさんはいつここのお店を見つけたの?」
「わたしが見つけたわけではないんだ。ここのオーナーが両親の知り合いで、ちいさい頃から家族できていたの。最近はひとりでくる機会が多いけど。よかった、気に入ってもらえて。夜はね、テーブルクロスがかけられて、音楽も変わるんだ。照明も若干落とされて、やさしいあかりが店内をつつんで、別のお店になったみたいに感じるの。むかしは誕生日やお祝い事で家族そろって夜にくるのが楽しみだった」、イトウさんは視線を落とし、グラスをかたむけた。
「いまはあまりこないの?」
「お姉ちゃんが家を出てからはこなくなったなあ」、イトウさんは空になった器をテーブルの端によけた。くちもとから迷いながら言葉の生まれる気配がうかがえる。わたしは静かにくちが開かれるのを待った。器がさげられ、テーブルにパスタがのせられた。チーズのゆたかなにおいと湯気がわたしたちのあいだに立ちのぼった。
「ねえ、自分らしさってどんなことかな?」とイトウさんはひとりごとのようにつぶやいた。
自分らしさ――、身体の特徴、性格の傾向……いくつもの要素をつつみこんでわたしという人間は成り立っている。優柔不断で背が低くてバスケットをやっていた――そんなひとは数え切れないくらいいる。わたしをつくっている要素が変わったり、増えたり、なくなってしまったら、わたしはわたしではなくなってしまうのだろうか?
「ごめん、うまく説明できたらよかったのだけれど」とわたしは言った。「イトウさんはどう考えてるの?」
イトウさんのパスタをからめるフォークがとまった。
「それがわたしもよくわからなくて。わたしはずっとお姉ちゃんとくらべられて育ってきたの。頑張らないとお姉ちゃんみたいになれませんよ、って。お姉ちゃんはあのとおりきれいで何でもできるからわたしにとって目標だった。たぶん両親はわたしがお姉ちゃんにべったりなついていたからそういうふうに育てたのかもしれない。ダイエットだって食事制限からジョギングからサプリメントから通信販売の器具からなんでもやったし、にきびも治すためにいろいろやった。勉強と運動も頑張ったんだけど、こっちはいまいち結果がでなかった」、イトウさんは自嘲気味に笑った。「でも大きくなるにつれて、お姉ちゃんの真似ではなくて、もっと自分を持ってユイらしくありなさい、と言われるようになったの。ふしぎね。お姉ちゃんに近づこうと思って試行錯誤していたわたしは、どれも疑いようもなくわたし自身でしかなかったのに。それにお姉ちゃんの真似はしたけど、お姉ちゃんになろうとしていたわけじゃないの。いったい、わたしらしくありなさい、と言われるまでのわたしは両親の目にどううつっていたのかな? もしかしたらお姉ちゃんの出来損ないの、まがいものとしてうつっていたのかな? そう思うと悲しくなって、なんだか自分がわからなくなってバラバラになってしまいそうになる。わたしはわたしでお姉ちゃんのことが好きなだけ。でも最近は……」
声は途中で空気に吸いこまれるように消えた。ふとイトウさんの視線がわたしの皿にそそがれた。
「ごめん。話しすぎちゃった。あったかいうちに食べないと、ね、ユウ」
「……うん」
それからわたしたちはだまって食事をつづけた。イトウさんはなにを言おうとしていたのだろうか? 気になって味がよくわからない。イトウさんは物思いにしずんだ表情をして、フォークをまわしている。わたしはイトウさんにどんな言葉をかけたらいいのか考えたけれど、わたしがくちにできる言葉はどれもイトウさんにはとどかない気がした。
なぜか中学生の頃、試合終了間際にシュートを狙って、リングにとどかなかったことを思い出した。自分の力のなさが情けなく、悔しく、申し訳なくなってくる。わたしではなくてアイちゃんだったらあのシュートは決めることができたのではないか? わたしではないだれかだったらイトウさんをなぐさめることができるのではないか?
イトウさんが最後のきのこをくちに運んでしばらくすると、ウエイターが来て、デザートをお持ちいたしましょうか? と言った。わたしたちはお願いします、と言った。久しぶりに会話をした気がした。
「音楽も料理も雰囲気も店員さんもいいし、ほんと素敵なところだね」
「それ聞いたらヒデさん喜ぶよ」とイトウさんはさっきのウエイターを見て言った。
「知り合いなの?」
「うん。彼はオーナーの息子さん。むかしから知ってるよ」
飲み物とデザートが運ばれてきた。言われてみればウエイターの表情やテーブルにカップや皿をのせるこの動きには、仕事上の心づかいとは別の思いやりがあるように感じられる。思いかえせばわたしたちがお店に入ったときからそういう感じはあったかもしれない。わたしはどこまでにぶいのだろう。
「言われないと気がつかないよ」
「仕事の迷惑になるといけないから混んでるときには声をかけないようにしているの」
「なるほど」。わたしはコーヒーを飲んだ。いままで飲んだどのコーヒーよりも濃く深い味が舌のうえに広がった。
「さっき、言いそびれたことなんだけど、聞いてくれる?」とイトウさんはためらいがちに言葉をつむいだ。
わたしはうなずき、カップをソーサーに戻した。イトウさんはスプーンをもてあそんでいた指を離し、まっすぐわたしを見た。
「ユウ、タナカくんのこと好き?」
「好きって?」、いつもどおり話したつもりだったけれど、思ったよりちいさな声になってしまった。
「異性として好きか、付き合いたいとかそういう気持ちがあるかということ」とイトウさんはきっぱりと言った。
わたしはその言葉について考えた。しかしたぐりよせた思考の糸はどこにもつながらず、地面にだらりと垂れていた。「わからない。先輩にはずっと彼女がいてそういうふうに考えたこともなかったから」
「ほんとに?」
「ほんと」
言ったあとでなぜか、くちをすべらせてしまったときのような冷ややかな感触が背中をつたった。イトウさんは息をゆっくりとはいた。
「ユウはタナカくんのこと好きだと思ってたんだけどな」
「イトウさんは好きなの?」
「好きよ」
「先輩、彼女いるんだよ?」とわたしは驚いて言った。
「わかってる。でもふたりがほんとうに好きあっていたら、わたしがタナカくんに告白してもわたしがふられるだけでしょ? どれだけ長い付き合いがあっても負けたくないし、なにもしないであきらめたくはない」
「だけど……もし先輩とイトウさんがうまくいったら彼女がかわいそうだと思わない?」
イトウさんはふるえる手で紅茶のカップを持ち、くちをつけた。
「思う。でもわたしを選んだのなら、彼女よりわたしの方がいいと思ったからでしょ。だとしたらタナカくんをつなぎとめることができなかった彼女に、まったく問題がないと言えるのかな」
わたしは首をふった。「イトウさんの言ってることはわかるよ。けどそうして先輩と付き合えたとしても、今度は自分がその彼女とおなじ目にあってしまうかもしれないんだよ」とわたしはほとんど泣きそうになりながら言った。
「覚悟はできてる」とイトウさんは確信にみちた声で言った。ひとみは朝露のようにかがやき、かるく結ばれたくちの端はゆるやかにうえを向いている。その微笑みを見たわたしは、なぜかなつかしい気持ちになった。どこかで見た気がするのに思い出せない。ふいに胸がじんわりとあたたかくなり、涙が笑みに変わった。
「先輩、いいひとだもんね。好きになったきっかけは?」
「ないしょ。どこかで女は微笑みひとつで運命がきまるって読んだけれど、男は眼差しひとつで十分。わたしはそう思う」
「わたしはまだそこまでわからないな。男も女も」
「わたしもそんなにわかってるわけじゃないよ。ただ考えれば考えるほど自分が不純な人間に思えてしまって……サークルに入ったのも、たばこを変えたのもタナカくんとの共通点を増やしたかったって理由だしね」
わたしは少し考えた。「マイケル・ジョーダンがバスケットをはじめた理由って知ってる? 黒人の地位向上のため? バスケットの素晴らしさを世界に伝えるため? 実はそんな立派なものじゃないの。答えは女の子にもてたかったからなんだって。わたしこの話をしったときびっくりしちゃった。こんな理由でバスケットをはじめただなんて。でもどんな理由でバスケット・ボールを持ったにしても、彼はコート上では神様になり、あらゆるものを手に入れ、わたしみたいな人間にもバスケットをやらせてしまった。政治家は選挙前には立派なこと言うけど、結果はいつも眉をひそめたくなるものばかり。だから動機が不純とかそういうことは考えなくていいと思う」
イトウさんはほほに指をそえて、なにかに思いをめぐらせている。「ありがとう。ユウと話せてよかった」
「そう言ってもらえると嬉しい。わたしもイトウさんと話せてよかった」
イトウさんは顔をほころばせ、スプーンでミルク・プリンをすくった。
「バスケの話をしているときのユウ、目がきらきらしててかわいかった。なんでタナカくんがサークルに入れたがってるかわかった気がする」
耳が熱くなりわたしは急いでプリンをほおばった。イトウさんはそんなわたしを見てクスクスと笑った。
ランチ・タイムのピークが過ぎたのか、いつのまにまわりで咲いていた会話の花はしぼみ、あいている席が目立つようになっていた。コーヒーはすっかり冷めてしまっていたけれど、最後のひとくちまでおいしかった。
「満足してもらえたかな?」
「とても」とわたしは言った。
「よかった」、イトウさんは伝票を手にした。
会計はまたヒデさんが対応してくれた。
「ごちそうさま。友だちのスズキユウちゃん」とイトウさんは言ってヒデさんにわたしを紹介した。
わたしはおじぎをして、「はじめまして。とてもおいしかったです」と言った。
「サクライと申します。ありがとうございました。またいらしてください」とヒデさんはにこやかに言った。
鮮やかなひかりに照らされ、歩道に敷きつめられたアスファルトのブロックや等間隔に並ぶちいさな花壇がまぶしい。なまり色の雲の切れ間から、かすかに青空と太陽が顔を覗かせている。
「駅まで送るよ」とイトウさんは言った。
「ここで大丈夫。そんなに気をつかわないで」
「でも……」
わたしは笑った。「ほんとに大丈夫だから」
「わかった。じゃあまた学校で。こんどは食べそこなっちゃった定食を食べに行こう」
「うん。たのしみにしてる」
「ユウ」
「なに?」
「また今日みたいに話聞いてくれる?」
「もちろん」
わたしたちはお店の前で手をふって別れた。イトウさんの話を聞いて、いままでかけ離れたところにいると思っていたイトウさんとの距離が、近くなったように思えてわたしは嬉しかった。だけどそれと一緒に、先輩とチカ先輩とイトウさんの関係がどうなっていくのかという不安もこみあげてきた。わたしにはなにができるのだろう?
わたしは駅のロータリーのすみにあった喫煙スペースでたばこを吸った。悩み事もこの宙に漂うけむりのように勝手に消えてくれたらどんなに楽だろうか。なんだかだんだんあたまが重くなってきた。まだ本調子ではないみたいだ。
ぼんやりと電車に乗りぼんやりと電車をおりた。そしてぼんやりと腕時計に目をやった。アルバイトまでまだ余裕があった。わたしは駅ビルの本屋で時間をつぶすことにした。
店先に設けられた女性のファッション誌のコーナーには、お洒落なひとたちが雑誌を平積みにした台を囲み、思い思いのページに視線を落としていた。きのうイトウさんにもらったものと似た雰囲気の雑誌を探そうと思っていたのに。
なんだかひとの隙間から手を伸ばすには気がひけてしまい、わたしはそのコーナーを通り過ぎた。それからなにを買う目的も読む目的もなくふらふら店内を歩いていたけれど、わたしは知らず知らずのうちにスポーツ・コーナーにいた。いくつものスポーツ雑誌が陳列する棚にアイちゃんと月替わりで買っていたNBAの雑誌が並んでいるのが目にとまった。
そうだ、今月はわたしの当番だった。ほんの二ヶ月前までは最新号を買っては学校に持って行き、机に広げて好きなチームと選手の情報に一喜一憂していたのに――制服を着て学校に行けばいまでもあの日々に戻れそうな気がする。でも、そんなことは起こらない。わたしが座っていたあの席にはいまどんな子が座っているのだろう。
ページをめくり試合結果と順位表を見た。ブルズは好調を維持していた。低迷をしていたときは頼りなさそうだった赤い牛のロゴも、ブルズが強いとたくましく感じられる。プレイヤーのスタッツを確認するとジェイソン・キッドはアシストの数字を落としていた。怪我の影響かそれとも年齢……アイちゃんはどう思っているのだろう。わたしはページを閉じてレジへすすんだ。
8
クロはフェンスのすみっこに丸くなり昼寝をしていた。めずらしくシロと一緒にいない。わたしはそばへより、アスファルトとフェンスのあいだに生えたねこじゃらしをつみ、クロの前でゆらした。クロは目をひらいたかと思うと、おもしろくもなんともなさそうにあくびをしてまた目をつむった。
「ずいぶん眠いみたい」
うしろからバーの奥さんの楽しげな声が聞こえた。わたしはふりむいて、みたいです、と苦笑いをして言った。奥さんは地面の金属製のふたをあけ、蛇口にホースをつないで水をまきはじめた。
「このまま晴れるといいわね」
わたしは、そうですね、と言うつもりだったけれど、あっ、という声がふいに出て奥さんと重なった。
「虹」
ホースから放たれる水にうっすらとちいさな虹がかかり、放射状に飛び散る水滴は、陽のあかりを受けてきらめいている。
「きれい」と奥さんはしみじみと言った。
「ええ」
ねこの短い鳴き声がした。その方へ目をうつすとシロがいた。シロはわたしたちの視線をよそにゆったりとクロに近づいていき、フェンスをくぐった。クロはしっぽをたててシロのあとをついていった。
「仲がいいですね」
「まったく。うちの子たちもあれくらい仲が良ければ楽なのに」
「あまりうまくいってないんですか?」
「うーん、良くないというか下の子がことあるごとにお姉ちゃんと張り合おうとするのよ。それでお姉ちゃんも意地になってけんかになるのよね」と奥さんはあきれたように言った。でも顔には幸せそうなしわが浮かんでいる。「ユウちゃんみたいな素直な子だと手がかからないでしょうね」
わたしは微笑み、首をふった。「三兄妹でわたしがいちばん聞きわけがわるくて手のかかる子だったと思いますよ」
「あらほんとう? ぜんぜんそうはみえないわ」
「ほんとうです」、わたしはおもむろに腰をあげた。
「そろそろ?」
「はい」
「お互いがんばりましょう」
わたしは会釈をしてお店への階段をのぼっていった。
お昼過ぎに感じたあたまの重さもそれほどわるくなることはなく、無理をしたつもりもないのだけれど、仕事の出来はさんざんなものだった。グラスをひとつ割り、オーダーを二回まちがい、おつりの金額を一回まちがえた。すぐにあやまり、お客さんもおじさんも笑って許してくれたけど、心苦しい。となりでハンドルを握るおじさんは車内を流れる音楽にあわせてかすれた口笛をふいている。フロントガラスを見据える表情からは、わたしがいつ話しかけてもいいように待ってくれている雰囲気が伝わってくる。
「きょうはたくさん迷惑をかけてごめんなさい」
口笛がやんだ。おじさんは白い歯をかすかに覗かせた。「気にすることはないって言ったはずだよ。ユウは一生懸命やってくれている。たまたま失敗がかさなっただけさ」
「でも……」
「割れたグラスは買いなおせばいい。失敗をしたのなら反省をしておなじ失敗を繰り返さないようにするしかない。お客様には、もしつぎに来ていただいたときは、迷惑をかけたことを忘れさせるくらいの対応をすればいい。なにも問題はない」
わたしは鼻をすすった。やさしいことを言われると泣きそうになってしまう。
「この曲はビートルズのカバーなんだけどわかった?」
「わかりませんでした。ふつうのジャズだと思ってました」
「原曲をつくったジョンは、ぼくたちはキリストより人気があると言って叩かれた。ポールは大麻でつかまった。ジョージは……、思いだせないな。ユウの好きなジョーダンだってシュートも外せば試合も負ける。それに離婚してとんでもない額の慰謝料だって払っている。おれは失敗して落ち込みそうになったときこう思うんだ。みんながあこがれるスターだって転ぶときは転ぶんだ。それも大勢の目のあるなかで。それにくらべたら俺みたいなどこにでもいる人間が、いつどこで転んだってたいしたことじゃないって。問題の解決にはならない。でも心は楽になる。そしてまた歩く。そのくりかえしでやってきた」。おじさんはおおげさに笑顔をつくっておどけた。
「おじさんも落ち込んだりするんですね。なんだかうまく想像できません」
「そりゃあ落ち込むこともあるさ。長く生きているといろいろある。ユウとはくらべものにならないほどグラスや皿も割ったしお客様にあたまをさげたこともある。それとユウのお父さんに叱られたときもある」
「お父さんに? どうしてですか?」、変に声がうわずってしまった。
「当時は勝手気ままにふらふらしていて家族に迷惑ばかりかけていたからね。当然だよ。そういうことになって」おじさんはなつかしい記憶をかみしめるように言った。
「おじさん、なんだか嬉しそう。どうして?」
「そのうちわかるよ。これからユウも行く道だ」とおじさんはおだやかに言った。
ビートルズの話にもジョーダンの話にもなぐさめられたけれど、わたしにはおじさんの話がいちばんのなぐさめになった。メロディをやわらかにつまびくギターが子守り歌のように心地よくうとうとしてしまう。やがて車はゆるいカーブを抜け、ヘッドライトが家の前の植え込みを明るく照らしだした。




