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三部

 5

 ぱっと目がひらいた。夢のない眠り。映画のカット割りのような眠りからさめた。お腹ににぶい痛みを感じる。あたまのなかはホット・ミルクの膜でくるまれたみたいにふやけている。手足はぼうっとあたたかい。わたしは寝返りをうち脚をたたんだ。こんな日はこのままベッドから出たくない。でもきょうは出席もとれば知り合いもいない講義がひとつあった。履修登録のときにこの講義をとった自分がうらめしい。

 廊下のきしむ音とウインドブレイカーのこすれ合う音が行き来する。ヒロに悪気がないのはわかっているけど、ついいらだってしまう。そんな自分にさらに気が滅入った。玄関でランニング・シューズのつま先がとんとんと鳴り、ドアがひらき鍵がしまった。

 わたしはひとつ短い息を強くはいてベッドから身体をひきはがした。

 下着を洗うついでにシャワーを浴び、だらだらと着替えた。それからキッチンでやかんに火をつけた。ソファに身をなげだし、膝をかかえお湯が沸くのを待つ。閉ざされたカーテンの向こうから雨の音が聞こえる。雨は憂鬱なはずなのに、その音に耳を澄ませていると、ふしぎとおだやかな気持ちになった。次第にあたまのなかにもやがかかり、まどろみはじめる。雨が遠くなっていく。

 香ばしいかおりがもやを晴らした。いつのまにか眠ってしまった。わたしは跳ねおき火をとめようとしたけれど、火はとまっていた。テーブルにはコーヒーの入ったわたしのマグカップが置かれていた。まだあたたかい。わたしはカップを両手でつつんで持ち、ひとくち飲んだ――苦い。思わず顔をしかめてしまった。わたしがいれるものよりとても濃い。でもヒロがいれてくれたのだと思うと、笑みがこぼれた。

「なに笑ってるの」

 視線をカップから声の方へ向けると、制服姿のヒロが怪訝な表情をしていた。

「なんでもない」、わたしは顔をそむけた。

「まあいいや。火のあつかいには気をつけて」

 わたしはカップにくちをつけてうなずいた。「これ、ありがとう」

「ああ、それよりおじさんにお礼言っておいてよ。じゃ、行ってきます」

 ヒロが出かけ家はしんとした。わたし以外にはだれも――、わたしと母以外はだれもいない家。父の部屋にある仏壇にどれくらい手を合わせてないだろう。ひとりであの笑顔のまま時がとまった母を見るのは苦しい。

わたしがあの日忘れ物をしなければ母はいまも生きているはずなのに。でも、父も兄もヒロもそのことでわたしを責めることはしない。みんな本当はわたしをどう思っているのだろうか。それも怖くて聞けなかった。わたしは力なくうなだれた。もし母がとどけようと思わなければ、もしトラックの運転手が居眠りをしていなければ……

もし、という仮定の可能性の世界のわたしはいまどんな顔をしているのだろう。

 

ほそく白い雨が傘をたたく。アスファルトにはところどころ水たまりがあり、行き交う車がしぶきをとばす。歩道を彩るあじさいは染まりはじめた花びらに雨つぶをやどし、葉にかたつむりを這わせていた。水たまりをふまないようにしていたのに、駅のロータリーにつく頃にはスニーカーのつま先がしめっていた。母に買ってもらったお気に入りのスニーカー。毎日履いているからかさすがに消耗しだしている。

 駅の入口では色とりどりの傘が咲いたりしぼんだりしている。ピンク・グレープフルーツのような色の傘をさした女性の腰のあたりで、黄色の小ぶりな傘が上に下にと楽しそうにゆれていた。さきに女性の傘がとじられ、もたつきながら黄色の傘がとじられた。明るい髪をしたその若い女性は、傘のベルトをとめるのに手間どっているちいさな手をあたたかな眼差しで見守っていた。できた、とはねるような声がして、お母さんが大好きで仕方ないといった笑顔が女性に向けられた。

 空調の効かない満員電車に乗り、ひげが伸びっぱなしで鼻をつくにおいの作業服を着た男性とベルトのうえにたっぷりお腹がのったサラリーマンに、パニーニのチーズみたいにおしつぶされた。駅についてドアがひらき、やっと身動きがとれるようになったかと思うと、こんどはお揃いのジャージを着た学生の集団にもみくちゃにされた。声変わりをしたばかりの不安定な声があたまのうえを飛び交う。ぱんぱんにふくれたバッグが腿やお腹にあたって痛い。首すじに汗がつたう。きょうは何回こんな目にあうのかと思うとうんざりしてしまう。


天気がわるい日の学生ホールはひともまばらで、いつもは座れないテーブルも空席が目立つ。雨がふったからといって講義はなくならないのに、みんなどこでなにをしているのか。

講義を受けるひとたちはぽつぽつと離れた席に座り、ときどき思い出したようにノートをとっている。いちばん前のひとでさえ眠そうな目をこすっている。集中力を欠いたまとまりのない雰囲気が伝わってくる。講義終了まであと三十分。気づけばわたしもしばらくペンを動かしていなかった。わたしは先生の話をひろう胸元につけたピンマイクのあたりをみつめ、ペンをにぎりなおした。


足速にトイレに駆け込みドアをしめた。思ったよりも大きな音がひびいた。わたしはリュックからポーチを出した。あとどれくらいこんなことをしなければならないのだろう――。わたしはかどのサニタリー・ボックスをにらんだ。立ちあがり、レバーに手をかけようとしたとき、廊下に反響するヒールの鋭い音に気づいた。聞き覚えのあるにぎやかな話声が近づいてくる。わたしはなぜか手をひっこめてしまった。徐々に声ははっきりと聞こえ、ヒールがトイレのタイルを鳴らしだす。それから化粧台の方からバッグの置かれる重そうな音がした。

「あそこのランチおいしかったあ」

聞き覚えのある鼻にかかった甘い声、ササキさんだ。

「十二時すぎると混んじゃうから、早めに行って正解だったね」

 ゆっくりとした話し方をするのはきっとオガワさんだろう。

「ユイも来たらよかったのに」

残念そうに言ったこの高い声はだれだろう? 

「ユイも真面目だよね。サボってもあとでノートコピーさせてもらえばいいのに。そういえばさっきの講義、あの子とってる?」

「あの子って?」とササキさんは言った。

「ほら、ユイがかまってる背のちいさい……」

「ああスズキさん。履修登録のとき一緒にいたけどわからない」

「わからないって、どういうこと?」

「だって、スズキさん、自分のことあまり話さないし……そういえば携帯の番号も知らないかも」

「たしかに」とオガワさんが合わせる。

「なにそれひどくない?」、高い声がもっと高くなりおもしろそうに言った。

「だってスズキさんのなんてとくに必要ないし、邪魔なだけじゃない。ほんと、ユイがなんで気にかけてるのか。なにかあったらユイに連絡つけてもらえばいいでしょ」

 こともなげにくちにされたササキさんの言葉が胸につき刺さった。わかってる。わかってるけれど痛い――、わたしだってみんなと普通におしゃべりがしたかった。でも、ファッションや恋愛の話にはついていけない。わたしが話せることといったらバスケのことくらい。いったいどこの女の子がジョーダンの生涯成績やその凄さについて聞きたいっていうの? 

急にむかしどこかで似た痛みを感じたような気がした。どこだっただろう? いや、そもそもわたしの痛みだっただろうか? ちがう、アイちゃんだ。アイちゃんが高校一年生のときに受けた痛み――そうじゃない、こんなものじゃなかったはずだ。わたしはくちびるの内側を強く噛んだ。

「どうしてスズキさんのことを?」

「あの子だったら真面目に出席してると思ったからさ」

「なるほど」とオガワさんが納得して言った。

 それからジッパーがひらき、かちゃかちゃとなにかがふれあう音がして会話が途切れた。換気扇はせわしなくまわり窓の外では雨がはねている。ときおりそのマスカラいいよね、とかそのあたらしいチークどう? といった話が聞こえてきた。そしてまた静かになったかと思うと、ふたたびかちゃかちゃと、たぶん化粧道具がふれあう音がした。

「合コンいいメンバーがそろうといいなあ」

「まったく。無駄な時間を過ごすのだけは避けたい」とオガワさんが言った。「まあ、幹事がいいからそうひどいことにはならないと思うけど」

「とにかく行ってみないと。微妙なメンツだったらさっさと切りあげればいいんだし」と高い声の子が言った。

「そうね」

 次第にササキさんたちの声はちいさくなっていき、やがて聞こえなくなった。わたしは壁にもたれた身体をおこし、レバーに手をかけた。痛みも、嫌な感情も、思い出したくないことも、ぜんぶきれいに流れてしまえばいいのに。

 なだらかな坂道をくだるように体調がくずれてきた。いつもどおりのくずれかたかもしれないけれど、さっきの会話の影響もあるのかもしれない。泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目。むかしのひとはうまいことを言う。いまのわたしにぴったりの言葉だ。

 ホールの掲示板で休講の掲示を確認していると肩をたたかれた。

「休講あった?」

 わたしはふりむいて首をふった。

「そう」、イトウさんは微笑んだ。「いまから帰り?」

「うん。イトウさんは?」

「わたしも帰り。もうユイでいいって言ってるのに。おんなじ学年なんだから」

「ごめん。なんだかまだ恥ずかしくて」

 イトウさんは黒目がちなひとみに微笑みの余韻を漂わせたまま、前髪を指で流した。さわやかでほのかにあまいかおりがふわりと舞う。「じゃあ恥ずかしくなくなるまで待つ」

 ひとつひとつのしぐさがかわいらしくつい見とれてしまう。すらりとほそい身体に長い手足となめらかな肌、万華鏡のようにきらめきながら変わる表情。おなじ女であることが申し訳なくなってくる。本当にどうしてわたしに気をつかってくれるのだろう。

「ぐあいわるいの?」

「ちょっとだけ」とわたしは笑って言ったつもりだったけど、ほほがぎこちなく引きつっただけかもしれなかった。

「ごめん。ひきとめちゃって、そろそろ行こっか」


 雨はやむそぶりを少しも見せずにふりつづけ、あじさいのいけがきを濡らし、まだ大きくなりきらない葉をつけたイチョウを濡らしていた。今朝のかたつむりはいまもあのあじさいのうえで濡れているのだろうか。

 イトウさんの持つばらの模様があしらわれた傘も、足もとのレイン・ブーツもとても似合っている。わたしは自分の裾が切れかかったジーンズを見て顔をしかめた。

「ねえ、ほんとに平気?」

 傘から覗くイトウさんの目に心配の色が浮かんでいた。

「大丈夫」とわたしは言って笑顔をつくった。

 イトウさんはととのえられた眉をよせた。「大丈夫って大丈夫ではないときにでる言葉だから、どう判断していいかわからないのよね。でもユウのこと信じる。ただ無理はしちゃだめだよ」

「わかった」とわたしは言った。「イトウさんはやさしいね」

「やさしい?」イトウさんは首をかしげた。

「だってわたしなんかにかまってくれるし、さっきからあるくペースもあわせてくれてる」

 イトウさんは首をふった。「わたしなんか、なんてさびしいことは言わないで。わたしはわたしのしたいようにしてるだけだから、気にしないで。やさしいと感じるこころを持つひとはやさしいひと、ってお姉ちゃんが言ってたな」

「すてきな言葉」

「うん」

「どんなお姉さんなの?」

「かわいくておしゃれでとにかくなんでもできるひと。わたしの目標なんだ。まだぜんぜんとどかないけど」

わたしはぼんやりとイトウさんを眺めた。

「どうしたの?」

「イトウさんはこんなにかわいくておしゃれなのに、ぜんぜんとどかないって、どんなひとなんだろうと思って」

「ほめすぎ。でもファッションには気をつかってるから、そう言ってもらえて嬉しい」

「わたしも女の子らしくしないと。いまもこんなかっこだし」、わたしはパーカーの袖をつまんだ。

「なにか聞きたいこととか、わたしに手伝えそうなことがあったら言ってね。力になるから」とイトウさんは言った。


 プラットホームからの景色はどれも雨の色に染まり、ホームの屋根のうえに覗くビルの輪郭は淡くかすんでいる。電車を待つひとたちの表情はふりしきる雨にあきれて、どこか気の抜けたように見える。

「そうだ、よかったらこれいる?」、イトウさんは肩にかけた横長のトート・バッグからファッション雑誌をだした。

「そんな、いつもわるいよ」

「遠慮しないで。もう読み終わったものだから。ちょっと荷物を押しつけている感じがして気がひけるけど」

「そんなふうには思わないよ。ありがとう。大切に読むね」

 電車はゆるやかにホームをすべり、ドアをあけた。ぱらぱらとひとがおり、ぱらぱらとひとが乗った。車内にはしめった空気とにおいがたちこめていた。わたしたちはドアの近くに立って雑誌をひらいた。パステル・カラーで彩られたカラフルなページに、白のレースやフリルのついた夏服を着て笑顔でポーズをとるモデルたち。

「こんなのはどう?」

 イトウさんが指をさしたのは、薄い生地の半袖のブラウスにキュロット・スカートと足首まで編みあげたサンダルを履いた、マッシュルームみたいなボブ・カットが印象的なモデルだった。

「うーん、似合わないんじゃないかな」

「わたしはいいと思う。それに着てみないとわからないじゃない。そう思っていても着てみたら、しっくりくるってこともよくあるし」

「そうなのかな? でもそれはイトウさんがなんでも似合うから……ショート・カットだってとても似合ってるし。そういえばどうして急にショートにしたの? 前の髪型もよかったのに」

「ネイル・チップもとったし、毛先も傷んでいて、動くと邪魔になるからいい機会だと思ってバッサリ。こんなに短くしたことないから勇気はいったな」とイトウさんは言ってはにかんだ。

「わたしだったらそこまで思い切れないかもしれない」。わたしはページに視線を戻し、想いをめぐらせた。車内アナウンスがあたまのうしろからぼやけて聞こえた。電車はスピードを落とし、やがてとまり、チャイムが鳴った。

「ユウおりるよ」イトウさんは早口で言った。

「えっ、まだひとつ前じゃない?」

「なに言ってるの、ほら」

 イトウさんの視線を追ってドアのうえの液晶を見ると、たしかに乗り換えの駅名が表示されていた。わたしたちは慌ててひとの流れにのって電車をおりた。

「ユウもがんばって変わろうとしてるじゃない」

「まだまだだよ」とわたしは言った。「イトウさんはうまくイメージチェンジができてすごいと思う」

「髪に服に化粧、わたしはいろいろためすことで自分を知ろうとしている……いや、もしかしたらただ逃げているだけなのかも」、イトウさんは髪をつまみかすかに目をふせた。

 わたしはなにを言っていいのかわからず、くちをつぐんでしまった。なにかを言わなければと思うのに感情は言葉になってくれない。

「ごめん。なんでもない。さ、早くしないと電車に乗りおくれちゃう」

 階段をくだるとちょうど電車がきた。その電車に二駅乗ってすぐにおり、階段をのぼって構内に入り、ホームに出るためにまた階段をくだる。ふだんならなんてことはないこの移動も、きょうはちょっとした運動に感じてしまう。ホームには電車が昼寝をしている歳をとった大型犬のようにとまっていた。車内はすいているのだけど、座席はほとんど埋まっている。あいている席を見つけたと思ってもバッグや荷物が置かれていて、座ることはできない。

「ここらへんにしよっか」

 イトウさんはかかとをかるく浮かせて網棚にバッグをのせた。わたしは背伸びをしてリュックをのせようとしたけれど、リュックは網棚のポールにひっかかってしまった。となりからイトウさんの腕が伸び、リュックはなんとか網棚におさまった。

「むだにあるこの身長もたまには役にたつものね」とイトウさんは楽しそうに言った。

「むだじゃないよ」

「そうね。いまになってやっとそう思えるようになってきた。でもむかしはそう思ってた。ずっとそう思ってきたからクセで言葉になっちゃった」

 電車はのそりと起きてあくびをするようにエンジンを動かしだした。

「小学校の高学年や中学に入った頃は、とても太っていたの。にきびも顔中にあって、背が高いとよけいに目立つから嫌で仕方なかった。運動ができたらまだよかったのだけど、もう目をおおいたくなるくらいの壊滅的な運動神経で」、イトウさんはそこで話を切って苦笑いをした。「だからわたしはユウのことがうらやましく思うときがあるの。ちいさくてかわいくて、運動もできて」

 太ったにきびだらけのイトウさん?

「どうしたの? くちが貯金箱みたいにあいてるよ」、イトウさんはクスクス笑った。

「イトウさんがどんな子だったか、想像がつかなくて」

「じゃあ、そのときのわたしを見てみる?」

 イトウさんはバッグを引きよせて、なかからデジタル・カメラをとり出した。ディスプレイをみつめるイトウさんのひとみは、なつかしい思い出にひたり潤んで見える。

「はい、これ」

 カメラのディスプレイには卒業式のあとなのか、制服姿で丸い筒を持って、桜の花びらみたいなくちびるをかすかにほころばせた、白く肌理のこまかそうな肌をした女の子と、そのよこで肩をすぼませて立つ、にきびで赤くなった顔を髪で少しでも隠そうとしている太った女の子がうつっていた。 

「その太っているのがわたし。となりがお姉ちゃん。お姉ちゃんきれいでしょ」

 わたしはうなずいた。たしかにイトウさんが憧れると言うほど美しくととのった顔立ちをしている。わたしだったら一緒の写真に入るのだって気おくれしてしまう。肩をすぼめるイトウさんの気持ちを考えると胸が苦しくなった。それからイトウさんは何枚も写真を見せてくれた。お姉さんと撮ったもの、友だちと撮ったもの、カレンダーの日付けがあたらしくなっていくごとに、身体はしまり、しずみがちだった表情も明るくなっていく。いままでにきびと脂肪の影で目立たなかった通った鼻筋に小ぶりな鼻のあたま。ナイフをあてたようなくっきりとしたふたえのまぶたが魅力をたたえはじめていた。

「これが高二の夏。やっと見られるようになってきたかな。ここからさきはあまり変わりばえはしないから」、イトウさんはカメラの電源を切った。「わたしが太っていたってこと信じてくれた?」

「うん……」

心なしか最後の方はお姉さんの写った写真が少ない気がした。

「自分ではあまり信じたくないんだけどね」、イトウさんは決まりがわるそうに笑った。

「じゃあなんで写真を残してるの?」

「だらけそうになったらむかしの自分を見るの。そうすると誘惑に負けず、踏みとどまることができる。それと、あとから気づいたのだけれども、そうやって写真を見返しているといいことばかり思い出すの。ふしぎね。当時はいいことなんかほとんどなくて嫌なことの方が多かったのに」、イトウさんのくちもとに、あまく苦いものを食べたときのような表情が浮かんだ。「ごめん。こんな話をしちゃって。おもしろくもなんともないのにね。ユウが相手だと話しすぎていけないな」

「いいの、話したいことを話したいだけ話して。たぶん、それがイトウさんにとってもわたしにとってもいいことだと思うから」

 イトウさんのひとみに驚きの色が差したかと思うと、つややかなくちびるがほのかにうえをむいた。「いつも妹みたいって思ってたけど、ユウはお姉ちゃんでもあるんだよね」

電車は鉄橋をわたり、ひときわ大きな金属音が耳にひびく。川は雨と薄暗くよどんだ雲の色を映し重く流れている。

「イトウさんのお姉さんのように立派ではないけど、一応は」

「立派だよ。そうだ。呼び捨ての代わりに、もうすぐわたしの方が年上になるから、お姉ちゃんって呼んでもらおうかな」とイトウさんは冗談めかして言った。

「そっちの方が恥ずかしいよ」とわたしは微笑んで言った。

「でも誕生日って、大きくなってくると素直に喜んでいいのかわからなくなってくる」

「喜んでいいんだよ。だって生きているしるしなんだから」

「そうね。そうだよね」

 イトウさんはその言葉を自分に言い聞かせるようにうなずいた。

「誕生日はどうするの?」

「当日は地元の友だちとオールする予定。あとその週はサークルのみんなが誕生日会をひらいてくれるから楽しみ」

「いいね」

「でもユウがいないからサークルの誕生日会は思いっきり楽しめないな」

「イトウさんどこかの先輩みたい」とわたしは言った。「それとは別にお祝いさせてほしいな。好きなものとか行きたい場所とか――」

「気にしないで。気持ちだけで十分だから」

「お願い」とわたしは強く言った。

「うーん、わかった。ちょっと待ってね」とイトウさんは言って考えこんだ。「なんだろう? 一緒にいたいと思うひとと一緒にいれたら、どんなものでもどんな場所でもいいと思ってたから、深く考えたことなかった」

「アクセサリーや小物は?」

 イトウさんはあたまのなかの言葉をくちにしようかどうか迷っているように見えたけど、やがてくちをひらいた。「そういったものは自分で選んでお金を払ったものを身につけたいの。もらったものは、くれたひとと会ったときにつけていたりしないと、わるい気がして」

「やっぱりこだわりがあるよね。ごめん。無神経なこと言っちゃって」

「あやまることないよ。わたしが変にこだわってるだけだから」

 イトウさんは視線を窓に向けた。わたしは会話をつづけようとしたけれど、言葉は見つからず、イトウさんにならって窓を眺めた。水滴がななめに走っている。雨はさっきよりも強くなっている。アナウンスがイトウさんのおりる駅名を告げた。流れるアナウンスのなか、はな、とイトウさんがつぶやいた。

「はな?」

「うん。花がほしい。思えば最後にもらったのは卒業式だ。なんだかさびしい女」

「よくもらってそうなのに」

「それが残念なことに」

 ブレーキがかかり徐々にスピードが落ちる。うしろに過ぎゆく景色が遅くなりだしたかと思うと、電車はホームに吸いこまれた。

「ユウ明日は時間ある?」

「バイトまでなら」

「じゃあ体調がよくなってたらランチしない?」

 電車がとまり、車内がゆれた。バランスをくずしイトウさんにぶつかりそうになってしまった。

「いいよ。行こう」とわたしは言った。

「また明日」

 イトウさんはちいさく手をふって電車をおり、ひとの波にのまれていった。

 かかとを思い切りあげてリュックのお尻をつかんで引きずりおろし、背負った。肩のベルトのあたる部分に汗をかいていてひんやりとした。背中がずっしりと重い。それと同時に腰のあたりも重くなった。なんだか天候につられてわたしの調子もわるくなっていくみたいだ。



   6

 玄関でスニーカーの汚れを乾いた布で拭い、新聞紙を丸めて入れた。それからぐっしょりとくたびれた靴下を洗濯機に放りこみ、上着を部屋に脱ぎ捨て、お風呂に入った。

こんなときばかりはドライヤーが必要になったこの髪が悩ましい。電源を切ったあとでもまだモーターのうなる音が耳の奥に残っている。

 ベッドにうつぶせになり、枕もとの目覚ましを手にとった。ヒロが帰ってくるまでたっぷり時間はある。夕方まで寝てそのあと夕飯の支度をしても余裕があった。わたしは布団にもぐり、枕に顔をうずめた。シャワーで帯びた熱がつめたい枕カバーとシーツで冷やされて心地よい。あしたには熱も身体のだるさもよくなってくれていたらいいのだけれど。

 耳の奥で鳴っていたドライヤーの音は次第に遠のいていき、静寂がおとずれた。くるまった布団に体温が移りなまあたたかい。やがて意識は指のあいだをすべり落ちる砂のようにわたしから離れていった。


 地震? ちがう――だれかがわたしの肩をゆすっている。意識はスローモーションで巻き戻された映像のようにわたしの手のひらに戻ってくる。聞こえる音はだんだんと輪郭を持ちはじめる。汗とデオドラント・スプレーの混じったにおいがした。

「夕飯は?」

 まぶたをひらくと白いひかりが飛びこんできて、一瞬目がくらんだ。

「つくってない」

 くちのなかがねばつき、かすれた声がもれた。わたしはゆっくりと身体を起こした。あたまはまだはっきりとせずにまどろんでいる。

 ヒロは仕方ないな、といった顔をして髪をかきあげた。

「コンビニでなにか買ってくる。なにがいい?」

「……おなじの」

 わかった、とヒロは言って部屋を出ていった。時計は八時をまわっていた。ちょっとだけ眠るつもりだったのにぐっすり眠ってしまった。あくびが出た。いくらでも眠れそうだ。わたしはふたたび身体をよこにした。

 さっきより乱暴にゆすられて目をさまし、おぼつかない足どりでテーブルについた。ヒロはビニール袋からカルボナーラ・スパゲティとフライド・チキンを取り出して自分の前に置き、わたしにはかに雑炊を買ってきた、と言った。わたしはなにか言うのも面倒なので、だまって雑炊を食べた。

ヒロは冷凍ごはんをレンジで解凍してどんぶりに山盛りにした。それからそのうえにスパゲティとフライド・チキンをのせて名前のわからないどんぶりをつくった。それをほおばるヒロを見ていたら、なんだかお腹がふくれてしまった。半分ほど食べたところでスプーンがとまった。残った雑炊を眺めるのにあきると、器のへりについたごはんつぶを一ヵ所にあつめた。

「残す?」

「朝にするよ」

「そうか」とヒロは物足りなそうに言った。

「よく食べられるね」

「これでもすくない方、食べるのもトレーニング。身体づくりの基本。姉ちゃんも言ってたじゃん」

「それはね……部活やめたらわたしより太りそう」

「まだ気にする段階ではないんじゃない?」

「うるさい」

「まあおれは大丈夫だよ。太らない体質だと思うから。それでいまも苦労してるし」

「わたしだってそう思ってたけど、最近はそうは思えなくなってきちゃった。ほら引退したスポーツ選手も太るひとが多いし」とわたしはうんざりして言った。

「おれはそのスポーツ選手でも姉ちゃんでもない。おれはおれだよ」

「ふうん……なにかつくろうか?」

「いいよ、勝手にやるから」

「ちゃんと片付けもね」

「わかってる」

 雑炊を器にあけ、ラップをして冷蔵庫にしまった。ヒロはうしろを通り換気扇のスイッチを押した。わたしがシンクの蛇口に手をかけると、「あとで洗うからいいよ。それより早く寝て体調を整えな」と言った。

「なんでわかるの?」間の抜けた声が出てしまった。

「何年弟やってると思ってるんだよ。ほら早く寝なよ」

 知らないうちに身体も心も大きく成長している。わたしの方こそ何年姉をやっているのだろうか。


 どこかでなにかが鳴っている。金属音が鋭く空気をふるわせている。グラスの底からゆれてのぼる炭酸のつぶのように意識が浮かんできた。わたしはその金属音が枕もとの目覚まし時計が出している音だということに気づく。目覚ましをとめようと身体をひねり手をのばそうとした瞬間、タオル・ケットが腕にからみついた。身をよじりタオル・ケットから逃れ、やっと目覚ましをとめた。久しぶりに目覚ましに起こされた。なんだかつむじからつま先まで、ぬるいお湯につかったみたいにぼやけた感覚につつまれている。でも、きのうの痛みやだるさは大分よくなっていた。約束は守れそうだ、とわたしは心のなかでつぶやいた。


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