二部
3
うしろの席がさわがしい。ひそめた声で話していてもひとグループ、ふたグループと増えていくとその声は耳につく。この講義はレジュメも配らなければ出席もとらない。話しがしたいのなら学生ホールにでも行けばいいのに。あのひとたちはなにをしに来ているのだろう。
きょうは少しうるさく感じる。それにもかかわらず先生はたんたんとした口調で講義をつづけていた。いつもおだやかな物腰で細身のぱりっとしたワイシャツを着て、なすみたいなフレームの眼鏡をかけている。先生にはわるいけれどどこか頼りなく見える。このひとは怒ったことがあるのだろうか? 教壇のそばでは先輩が黒板を見ながらノートを取っていた。バスケットをしているときと一緒の真面目な表情だ。普段もこういう表情をしていたら――
気がつくと先生の声が途切れていた。顔をあげると先生は教壇をおりてうしろに向かって歩いている。張りつめた空気のなか先生の革靴の硬い音がこつこつとひびく。教室の視線が先生にそそがれる。やがて足音が止んだ。
先生が注意をしてから教室は静かになり、集中して講義を受けることができた。教科書と筆箱をリュックにしまい終えると先輩が机のそばに来た。
「このあと時間ある?」
「ありますけど……」
「よし。昼食べに行こう」
「えっ」、わたしは言葉につまった。
「だれかと食べる予定だった?」
「いいえ」
先輩は満足そうに笑った。「さあ行こう」
外は灰色の雲が一面に広がり、道のわきに並んだ葉桜やおしろい花の植え込みはくすんで色あせて見える。
「ふつうに講義を受けていれば怒られないのに」と先輩はあきれて言った。
「そうですね」
「あの先生が怒るなんて、なにがあっても怒らない人かと思ったよ」
「ええ、びっくりしました」
「怒鳴るわけじゃないのに迫力があったな」
わたしはうなずいた。
「来週から静かになればいいんだけど。ところでスズキは好き嫌いある?」
「とくにないです。なんでも食べます」
「わかった」
校舎の裏通りに建つ白いペンキのはがれかけた天ぷら屋、そのさきには真新しい赤い看板が目をひくカラオケ・ボックス、五差路のかどのパンジーやマーガレット、季節の花のプランターで店先をかざったレストラン。まだわたしはどこにも入ったことはない。わたしは通り過ぎる風景に想いを馳せ、先輩について歩いた。
「ここにしよう」
わたしたちが立ちどまったのは落ちついた趣のお店の前だった。古茶けた竹をしきつめた装い、くもりガラスを差しこんだ引き戸にくたびれていない藍の暖簾。品台に留められた和紙には筆で本日の献立が書かれている。わたしは持ち合わせが不安になった。先輩はそんなわたしの様子に気づいたのか、大丈夫、と言って暖簾をくぐった。桧木のかおりがした瞬間、いらっしゃいませ、と女性の明るい声がした。若いひとだったけれど調理服と前掛けが似合っていた。そのひとは、お好きな席へどうぞ、と言ってカウンターに行きおぼんをとった。
先輩はテーブル席の奥にわたしが座るように促し、自分は通路側の椅子を引いた。ひと息つくとさっきの女性がやってきて、てきぱきとグラスとおしぼりを並べた。テーブルの木目はゆるやかに波をえがくように幾重にも入っている。表面をなでた。さらりとなじむ感触と温度だった。
「このあたりの店にはいろいろ行ってみた?」
「コンビニや喫茶店くらいです」
「せっかくあたらしい環境にいるのにもったいない」
「知らないお店はちょっと気後れがしてしまって」
わたしはおしぼりで爪のあいだまでていねいにふいた。
「なんとなく、スズキの気持ちはわかるかも」と先輩はなにかを考えながら言った。「これがなにかのきっかけになればいい。さて、おれは焼き魚定食にするけど、スズキはどうする?」
天ぷらに刺身に焼き魚、どれもおいしそうだ。わたしはひとしきり悩んでから、おなじものでお願いします、と答えた。先輩は短くうなずいて、あたらしそうな作務衣を着た男のひとに注文をした。男性は歯切れよく注文を確認して調理場に向かった。
カウンター席のゆったりとしたスーツを着た白髪の目立つサラリーマン、となりのテーブルでなごやかに会話を楽しんでいる身なりのきれいなおばさんたち。調理場では板前のおじさんが迷いのない手つきで包丁をあつかい、そのよこでは女将さんが洗いものをしている。
「いつもこういったお店で食べてるんですか?」
「いや、学食が多いよ。安いし量も多いから。たまにだね。最初は先生に連れてきてもらったんだよ。きみたちもこういう店の一軒は知っておいたほうがいいだろう、ってさ。ほんとうはもっと来たいんだけど」と先輩は言ってグラスにくちをつけた。
テレビも音楽もない。換気扇がまわり魚のあぶらが網から落ちて火にはじける音、おさえた笑い声が聞こえるゆっくりした時間。
おぼんが目の前に置かれた。湯気にのったさわらのにおいが鼻をくすぐる。先輩はかるく手をあわせてから箸に手をのばした。わたしもつられて手をあわせた。
小鉢にもりつけられたきんぴらごぼうを食べると、ほのかな甘みと土のかおりがくちのなかに広がった。
「おいしい」、思わず声がもれた。「ありがとうございます。こんないいお店を教えて下さって」
「先生の受け売りだよ。それにひとりよりふたりで食べたほうがおいしいからな。こっちこそノート貸してくれてありがとう。助かった。それにしても見やすかった。補足もあってわかりやすかったよ」
「役にたてたのならよかったです」とわたしは言ってご飯をくちにした。
「そんなにあわてなくても」
「あわててないです」とわたしは言ってみそ汁をすすった。
先輩は肩をすくめてにんじんの漬け物をくちに運んだ。ぽりぽりと小気味よい音がする。わたしも漬け物に箸を下ろした。
「うさぎみたいなやつだな」
「先輩こそ」
「まいったな」
わたしはさわらの骨をとりはじめた。さわらは身がしっかりとしていて骨は取りやすかった。目を移すと先輩もさわらにとりかかっていた。それからわたしたちは黙々と箸を動かしつづけた。
白く透明な骨を魚皿のすみによせて箸を置くと、作務衣の男性があたたかいお茶を持ってきた。それから男性は、どうぞくつろいでいって下さい、と言った。身体の前でかさねた手に指輪が見えた。あの女性と夫婦なのだろうか。わたしは両手で湯のみをつつみ、店内のふたりの姿を目で追った。
「どうした?」、先輩はわたしの視線をたどった。「ああ、結婚してるからだめだよ」
「そんなんじゃないです」
わたしはむくれてお茶をすすった。
「冗談だよ。店を継ぐために会社をやめて帰ってきたんだって。家業を継ぐ……か」
「先輩はご実家の事務所継がれるんですか?」
「直接は言われないけど……ひとりっ子だからね。そのために勉強もしてる。でもそれが本当にやりたいことかと聞かれたらすぐには答えられない」、先輩は髪をかきあげ、眼鏡のブリッジをおさえた。「とは言っても本当にやりたいこともない。いつからだろう将来の夢がバスケの選手って言えなくなったのは」
さびしそうにくちびるが曲がったかと思うと先輩は勢いよくお茶を飲みほした。
「そろそろ行くか」
「はい」、先輩の言葉は針のようにちくりとわたしの胸をさした。
レジでリュックから財布を取り出そうとファスナーをひらいたとき、一緒でお願いします、と先輩が言った。
「自分の分は払わせてください」、わたしはリュックのなかで行方不明になった財布を探しながら言った。
「ノートのお礼」
「でも――」
「ほら、もう終わったから」、先輩はわたしの肩越しに、すみません、とあたまをさげた。
うしろでお腹の立派なサラリーマンが笑っていた。わたしも、すみません、とあわてて言ってあたまを下げた。
にごった石灰水みたいな雲の向こうに、かがやく太陽の影が見えた。パーカーをつかんだわたしの選択は裏目に出てしまった。歩いているとお茶を飲んであたたまった身体はなかなか冷めず、ひたいにうっすら汗が滲んだ。
先輩はまぶしそうに目を細め、何回かまばたきをしてから腕をまくった。
「やっと気温もあがってきたな」
「やっぱりわるいですよ」
「気にしないでいい。昼はちょうどだれかと食べたいと思ったし、あの店もそろそろ行きたいと考えてたからさ」
「サークルも別にわたしじゃなくてもいいんじゃないですか? バスケやってた女の子なんてほかにもたくさんいると思いますよ」
先輩はふりかえって眉をあげた。「どうしてそういう話になるかな? おれはスズキに入ってほしいんだ。でも……入ってくれなくてもいいのかもしれない」
「どういう意味ですか?」
「バスケやっていたらウチのサークルでなくてもいいってこと。会ってから難しそうな顔ばかりしてるからさ。中学の頃、朝練や居残り練習でおれにつっかかってきてたときなんか生き生きしてたのに。考え事ばかりしてないで身体を動かすのも大切だ」と先輩は言った。「そういや、ちょっと前に駅であの子……タカハシさんに会った。ユウ先輩に指導しにきて欲しいって言ってた」
「サキちゃん元気でしたか?」
「おお、元気だったよ。顔だけでも出してみたら? きっとよろこぶ」
「ええ、でも……」
風がそよぎ汗が冷えた。電線にとまっていたカラスが羽を広げ、わたしに影を落としすべるように飛んでゆく。前をゆく女性のワンピースがひらめいた。
「どうした?」、先輩はかがんでわたしをみつめた。
「なんでもないです」とわたしは言って視線をはずした。
「へんなやつ」
「先輩のほうがへんですよ。いつもふらふらしてるのに急にまじめなこと言い出すし、ほんとつかみどころがないというか――」
ふいに差しだされた右手はつかもうとしたらかんたんにつかめる距離にあった。そしてわたしになにかを語りかけているように見える。でもわたしにはそのメッセージが読み取れない。次第にその距離はひらいていき、とても遠くにあるように感じられてしまう――
「ま、一服しよう」、先輩はその右手で胸ポケットのたばこをたたいた。
さっきまで目の前にあった右手はなにも語りかけず、チノパンツのよこでゆれている。もし先輩がもう少し手をあのままにしていたら、わたしはどうしていただろうか?
「また難しい顔をして。力を抜いてないと、いざってときに動けないぞ」、先輩はわたしの背中をおした。足もとがよろめきつまずきそうになった。
「わりい」と先輩はあわてて言った。
「大丈夫です」わたしは先輩に置いていかれないよう強くアスファルトを踏みだした。
校舎と駅のちょうど真ん中あたりにある、顔のしわにもどこか品のあるおじさんが店頭に座るたばこ屋。そこのわきに置かれたスタンドの灰皿を求めて、この時間は多くのひとがやってくる。いちばんはサラリーマン、それにOL、学生もちらほら。わたしたちはその近くによってたばこに火をつけた。深く吸いこみ、深くはきだす。けむりは糸がほつれるように宙に広がり消えていった。
「それ、うまい?」
灰皿に灰を落としながら先輩が訊ねた。
「これしか吸ったことないのでよくわからないです。正直たばこだったらなんでもいい気もします」
「ふうん。そんなもんかね」
たばこを片手にけむりのゆくえを眺める先輩はいつにも増してくつろいでみえる。こずえで羽を休める鳥のよう。まわりからランチや飲み会の話、それに合コンの打ち合わせ。仕事とは関係のない会話が聞こえてくる。あと四年もしたらわたしもスーツを着てあの環に入るのか? それともちがうどこかで……
わたしもいつから将来の夢がバスケットの選手と言えなくなったのだろう。身長がとまったときから? ヒロにワン・オン・ワンで勝てなくなったときから? ベンチ・スタートが増えたときから? 夢もやりたいこともないわたしには、このさき自分がどこにいるのかわからない。これからバスケット以上に好きになれるものが見つかるのだろうか? わたしは吸殻を灰皿に入れた。
ふと、灰皿のかげにある雑草に、てんとう虫がとまっているのが見えた。てんとう虫は葉先へ移動したのだけれど、自分の体重で葉が垂れ下がり、またもとの場所へ戻ってしまった。
「ためす?」、先輩はケースから一本つまんだ。わたしはそれを受けとってくわえた。火をかざしたけれど、くすぶってすぐに消えてしまいそうになる。
「気持ち強めに吸って」
先輩に言われたとおりにした途端、わたしはむせ返ってしまった。
「これは苦手かもしれません」。わたしはかすれる声で言った。「銘柄が変わると味もずいぶん変わるんですね」
「わるかった。このあとは?」
「あとひとコマ、そのあとバイトです」
「バイトしてるんだ」
「バイトといっても親戚の手伝いって感じですけど」
「なんの手伝い?」
「居酒屋とレストランとバーのあいだ……みたいなお店です」
「おもしろそうだな。どこの?」
「ひみつです」
「それは残念」と先輩は本当にそう思っているのかどうかわからない口調で言った。「飲み会の店がきまらないからそこにしようと思ったのに」
「学校から遠いのでやめた方がいいと思います。あと、ちいさめなお店なので貸切にしてもらえないと大人数はむりですよ。ビールとウイスキーに力を入れてるからか、学生もあまり来ないお店なんです。それに値段が少し高めですし……」
「地元の方でそういった店か。たしかにそれじゃ遠いな」と先輩はおかしそうに笑いをこらえながら言った。
先輩の言葉で自分がお店について話し過ぎていることに気づいた。「そのうち教えますから探さないでくださいよ。まだ慣れてないんです」
「わかった。楽しみにしてる。でもほんと決まらなくて、イトウってどんなところが好みなんだろう」
「イトウさんですか?」
「ああ、今月誕生日だからさ、サークル恒例の誕生日飲み。せっかくだからめいっぱい楽しんでほしいんだよ」
「そうだったんですか」、わたしはたばこを灰皿のふちでころがしながら火を消した。「ごめんなさい。わからないです。でもイトウさんだったらどこでもよろこんでくれると思いますよ」
先輩はほとんどフィルターだけになったたばこをかるく放った。フィルターは灰皿の十字の枠にあたることなく入った。そしてケースから二本目をとり、指のあいだでまわした。「だから迷う」
「イトウさん、サークルではどんな感じなんですか?」
「いい子だよ。よく気がつくし、率先して仕事をしてくれる。テーピング、捻挫や突き指といったかるい怪我の対応もできるのには驚いた。名ばかりのマネージャーとはえらいちがいだ。ラッキーだよ、あんな子がきてくれて」
先輩は息をひとつついた。わたしは話が終わったのかつづくのかわからず、先輩をみつめた。先輩はなにか言おうとくちびるをひらこうとしたけれど、そのくちびるは言葉をつむぐ前にとじられた。ポケットに手が伸び、携帯電話のディスプレイをちらりと見た。
「チカからだ。ちょっとすまない」
先輩は明るい声でひと言ふた言話すと電話を切った。
「チカ先輩お元気ですか?」
「元気だよ」
「よろしくお伝えください」
「わかった。そろそろ行かないと」
「お昼ありがとうございました」
「いいってなんども。じゃ講義ちゃんと受けろよ」、先輩は手をひらひらふって駅の方へ向かい、わたしは校舎に戻った。
お昼前の講義と一緒の教室で一緒の席に座った。ちがうのは教壇に立つ先生と机につくひとの顔ぶれ。先輩がいた席にはよれたチェックのシャツを着た学生がいて、先生の話にあわせてうなずくたび、寝ぐせで立った髪をゆらしている。先生の声は張りがあって聴きやすいはずなのに、なぜか耳にのこらない。まるでデパートやスーパーでかかっているタイトルのわからない音楽みたいだ。あたまがぼおっとして気を抜くとまぶたがするするとさがってくる。身体もなんだかほてってだるい。ほおづえをついた左肘がしびれてきた。わたしは眠気をはらうようにあたまをふり、椅子を引いて座りなおした。
駅の階段をおり、バスのロータリーを横目に信号を待つ。昼とも夕方とも言えない時間帯。スカートの短い女子高生や、すそのすりきれたズボンの男子高生を見かけだす時間帯。横断歩道の向こう側ではしゃぐかれらには悩みなんてなさそうに見える。でもそうではない。わたしも二ヶ月前までは制服を着ておなじように学校へ通っていたのだから。信号が変わりすれちがう。かれらはかれらの場所へわたしはわたしの場所へ歩みをすすめる。
靴屋に眼鏡屋、携帯電話のショップ。軒を連ねるお店を通り過ぎるとアーケードが途切れ明るくなる。わたしはそこを左に曲がった。営業前のバーや居酒屋はひっそりとしている。路地裏がにぎわうのはナイト・ゲームのラッキーセブンの頃。
オープンに向けて店先を掃いているバーの奥さんと目があった。かたちのよい薄いくちびるが自然と伸び、目尻がさがった。白くほそい手をほうきから離し、みだれた髪を耳にかけた。
「はっきりしない天気ね」、奥さんは困ったような笑みを浮かべた。
「そうですね」
「もう仕事には慣れた?」
「まだまだです」とわたしは首を傾げた。
「はやく慣れるといいわね」
「がんばります」
会釈をして奥さんと別れようとしたとき、わきのフェンスからシロとクロがひょっこり姿をあらわした。二匹とも野良ねこなのにひとに慣れている。ひなたぼっこをしているところを撫でられたり、写真を撮られたりしていて、路地裏のちょっとしたアイドルだ。シロはちいさくしなやかな体つきをしているのに、クロはむっくりと大きく、壁やフェンスに飛びうつるのにも苦労しそうな体をしている。いつも一緒にいるのにどうしてこうも対照的なのだろうか? そんなことを考えているうちに二匹は悠然とわたしの前を横切っていった。
4
FMラジオのDJの軽快な声が店内に流れている。営業時間より暗くしたオレンジ色の照明が落ちるテーブルや椅子は親密なひかりをたたえている。カウンターの向こうから中華鍋にお玉のあたる調子のいい音が聞こえてきた。
「おはようございます」
おじさんはふりむいて、「おお、ユウ。きょうは炒飯だよ」と低くよく通る声で言った。
「ごめんなさい。お弁当があるから大丈夫です」
「じゃあ、あとでタッパに詰めるからヒロに食べさせてやってくれ」
「あの子おじさんの炒飯好きだからよろこぶと思います」
「うれしいこと言ってくれるね。さ、時間まで奥でゆっくりしてな」
わたしは店の奥にすすみ細長い戸を引いた。控え室は真っ暗で手さぐりでスイッチを押した。蛍光灯はちかちかとまたたいてからあかりを灯した。ロッカー、ソファにガラス製のテーブル、そのうえの灰皿。そんな控え室にあるすべてのものがまぶしく、少し目がくらんだ。
ソファに腰をおろしリュックを開けようとしたとき、テーブルの交差した脚にのせられたマタニティ雑誌が目にとまった。おじさんもこういう雑誌を読んであたらしい命を迎える準備をしていると思うと笑みがこぼれた。
お弁当を食べ終え、ていねいに歯をみがいた。それから手ぐしで髪をととのえた。クリーニングにだしたばかりのワイシャツにそでを通し、きちんとアイロンをかけたスラックスをはく。歩くたびに床を鳴らすヒールにはまだなじめない。念入りにせっけんで手を洗い、仕上げにアルコールで消毒をした。時計を見るとちょうどいい時間になっていた。
閉店時間まで仲むつまじくグラスを傾けていたカップルを送りだし、メモを片手にクローズの作業をすませた。ふくらはぎが張って足の裏が痛む。おじさんはシンクをふきんで拭いている。ふいに顔があがった。
「待ってなくていいって。ほら着替えた着替えた」
おじさんにせかされわたしは控え室に戻った。
蛇口をひねり顔を洗う。水が顔にふれ、ほてりがしずめられていく。シャツのボタンをはずし、パーカーをあたまからかぶった。数時間ぶりのスニーカーは底がやわらかく、床がゆがんでしまったかのような感覚におそわれる。でも一歩二歩とふみしめ、戸を引く頃には足にしっかりとなじんでいた。
おじさんはカウンターのスツールに腰掛け、ウーロン茶を飲んでいた。
「おつかれさま。これでいい?」
お願いします、と言ってわたしはとなりのスツールに座った。氷の入ったグラスにウーロン茶がつがれ、こはく色の影がコースターに差した。
「はい、これも」、おじさんはたばこをグラスのそばに置いた。
「いつも申し訳ないです」
「おこづかいみたいなもんだ。お父さんには内緒だよ。かわいい娘にこんなものわたしているなんて知られたら怒られる。だけどユウがたばこ欲しいって言ったときは驚いたな。これとは縁のない子だと思っていたから」
わたしはなにも言えず、うつむいた。
「気にしないでくれ。気に病まなくてはいけないのは俺の方だ。お父さんに隠し事をして、ユウの身体を駄目にする片棒をかついでいる。でもかわいい姪の頼み事だ。断れない俺はわるいおじだな」
「そんなことないです」
「それは彼氏とおなじやつなの?」
「やっぱりわるいおじさんです」
おじさんは笑ってウーロン茶をくちにした。浅黒い目尻のしわがいっそう深く、やさしく見えた。
「もう吸わなくても平気なんですか?」
「そうだね」
「まだ新鮮な感じがします。おじさんが禁煙だなんて」
「まあずっと吸っていたからな」
わたしはおじさんの指輪に視線を移した。
「結婚っていいものですか?」
「いいこともそうではないこともある。でも……いいことのほうが多いな、俺にとっては。どうしたんだい? 急に」
「結婚してからおじさんいろいろ変わった気がして、それに赤ちゃんができてからも」、わたしはグラスに手を伸ばした。汗をかいたグラスはとてもつめたく、ウーロン茶は静かに渇きを潤していった。
「変わるさ。好む、好まないにかかわらず。それを言うのならあいつの方が変わったよ。最近、ほんとうに母親らしい顔つきになった。姉貴が妊娠したときを思い出してドキッとしたよ。恋に落ちたとき、ウエディング・ドレスを着たとき、あたらしい命を身に宿したとき、女は変わるもんだな」
グラスをまわした。氷がからからとすずしい音をたてる。「自分もそんな瞬間に変われるのでしょうか?」
おじさんはむかし、わたしたちをあやしていたときの表情になった。「考える必要はない。そのときがきたら変わっているのだから。いまはいまのことだけを考えていればいい」
夕方には絡まったイヤホンのコードみたいな渋滞がおこるこの道も、この時間はひっそりとした夜の空気につつまれている。道沿いの営業を終えたドラッグ・ストアは、青白い光を灯しさびしげに佇んでいる。ハンドルをにぎるおじさんを街灯がほのかに照らしだす。わたしは助手席のシートに身体をしずめ、車のなかを流れるピアノのメロディにぼんやりと耳をかたむけていた。
「ちいさい頃、枕もとでおとぎ話を読んでもらっていたことを思い出すような音ですね」
「この作品はピアニストにこどもができたときのものなんだ。だからそういうふうに感じるのかもしれない」
前を見据えて話すおじさんのくちもとがやわらいだ。
あくびがひとつでた。「ねむいです」
「そろそろだ。眠らないでくれよ。赤ちゃんの頃のようにはおぶれないんだから」
「わかってます。でも疲れました」、わたしはくちびるをすぼめた。
「立ち仕事は運動とは別の疲れ方をするからな。慣れてきたら少しは楽になるさ。脚が張ってきたら、片足を楽にしたり歩いたりして体重を移動させるんだ。ずっとおなじ姿勢だと疲れやすくなる。考え方も一緒かもな。ひとつの考えに固執するとだんだん駄目になっていく。そこには自分なりに取捨選択をする動きがないといけない」
「身体のことはなんとなくわかりますけど、考え方の方はなんだかピンときません」
「悩め若者。揺れて戸惑うんだ。それが自然で当たり前のことなんだよ。そのうち、ちょうどいい具合にバランスがとれるようになる」
わたしは考えこんだ。「難しいです。きょうはおじさん意地わるです」
おじさんは笑ってごまかしてハンドルを左にきった。
それからわたしたちは言葉なく音楽に身をゆだねていた。やがておじさんはゆるやかにスピードを落とし、家の前に車をとめた。
「学校、遅刻するなよ」
「しませんよ。ユキコさんによろしくお伝えください」、わたしは微笑みドアを閉めた。
家に入るとつけっぱなしの電気と脱ぎすてられたままの大きなローファーがわたしを迎えてくれた。くたびれて帰ってきたのだろう。わたしはそのローファーと自分のスニーカーをそろえて玄関をあがり、廊下の床がきしまないように気をつけてリビングに向かった。
電話のよこのメモ用紙とペンをとり、ひとこと書いてテーブルに置き、炒飯を冷蔵庫に入れた。椅子に座って足をのばし、背もたれによりかかる。身体が重い。一試合走り終わったあとみたいだ。洗濯も洗い物もぜんぶあしたにしたい。壁にかけた時計の針が時を刻むごとに意識がしずんでいく。なんとなくサイドボードの家族の写真が目に入った。すぐに洗わないから汚れが落ちにくくなる、という母の言葉が胸をかすめた。わたしは背もたれをつきはなすように立ちあがった。
思い入れのある5番と12番のビブスはつい時間をかけて洗ってしまう。5番がアイちゃんで12番がわたし。練習中にはいつもその番号を選んで着ていた。
「そういえばユウはなんでいつも12を選ぶの?」
休憩中、わたしがタオルで汗を拭いていると、ボトルの水を飲みながらアイちゃんが言った。
「ジョーダンの半分が目標なの」
アイちゃんは大きく目を見ひらいた。「なるほど、ほんと好きだね」
「アイちゃんこそ」
「まあね。でもプレイ・スタイルはちがう」
「わたしには彼みたいに翼がないから……」、わたしは腰を曲げて脚のストレッチをした。
「なんであんなかんたんそうにプレイをするんだろう」
顔をあげるとアイちゃんはとなりのコートでゲームをしている男子を眺めていた。エースの先輩が空中でディフェンスをひらりとかわし、シュートを決めた。
「わたしもあれくらい高く跳べたら……」
「アイちゃんでもそう思うの?」
「それはね、思うよ。というよりアメリカ人の男に生まれたかった、って考えることもある」。アイちゃんはゴムをとり、髪を結びなおした。「こういうのって変かな?」
わたしは首をふった。「わたしもおなじようなこと考えたことある。弟もバスケやってるんだけど、もう勝てない。この前なんて、むこうはかるく身体をあてただけのつもりだったのかもしれないけど、尻もちついちゃったし。男だったこんなのなんともなかったのかなあって」
「納得できないよね。女は一番になれないなんて。でも惚れた弱みってところかな」
休憩の終わりを知らせるブザーが鳴った。
「さあ、あとワン・ゲーム、頑張っていこう」
アイちゃんの顔にはやわらかな笑みが広がっていた。
どうしてだろう? わたしだったらあんなふうには笑えない。外で鳴く虫のジーッ、という低い声が枕もとにかすかにとどく。その声は気にすればするほど耳のなかで大きくなっていく。疲れているのになかなか寝つけない。身体の真ん中が熱くてだるい。わたしは布団をかぶって身体を丸め、まぶたをかたくとじた。




