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一部

  1

 透明なプラスチックの壁と茶色くなった金属のフレームで区切られた、虫かごみたいな喫煙所。なかには灰皿と空気清浄機が備え付けられたテーブルが四つあり、それぞれ大きな音をたててけむりを吸いこんでいる。どこへ行くあてもなく時間をつぶしているひとびとは灰皿にへばりついて動かない。なんとなく樹液をすする虫みたい。でもわたしもそんな仲間のいっぴきだ。

 たばこに火をつけて顔をあげた瞬間、学生ホールからやってくるタナカ先輩と視線がぶつかった。わたしは気づいていないふりをして、けむりをはくついでに顔をそむけた。喫煙所のとびらがひらき、外で話し合うひとたちの楽しそうな声が聞こえてくる。それからわたしのいるテーブルに、スニーカーとヒールの足音がだんだん近づいてきた。

「無視するなんてひどいな」と先輩はおどけて言った。

「してません。それとサークルには入りませんよ」

 先輩はわたしを見かけると、サークルに勧誘してくるのでつい身構えてしまう。

「目が合ったと思ったんだけどな。まあ警戒しないで、一服しにきただけだから」、先輩はバスケット・ボールの入ったバッグを背中にまわし、ワイシャツのポケットからたばこを出した。手のひらが大きく長い指。わたしとはちがって、あの手だったらかんたんにボールをつかめそう。

「ユウは無視なんてしませんよ。でもどうして嫌なの? バスケずっとやってたんでしょ」とイトウさんはふしぎそうに言った。

「高校までって決めたの……」

「もったいない」と先輩は言った。

「ただの補欠ですよ」

「補欠というよりは、もうひとりのガードの子とふたりでひとりの選手って感じだったな。おれの印象としては。大抵の学校ではスタメンだよ」

「すごいね、ユウ」

 イトウさんが話すたび、かわいらしいくちびるがつやめきながら形を変えていく。

「ぜんぜんすごくないよ」

「あとひとり女の子がいたら女の子だけでチームが組めるのに」

 わたしはむっとして先輩を見あげた。

「ただのひとりごと。べつに勧誘しているわけじゃないよ」

 いたずらが成功したこどものように、先輩のひとみがきらめいた。わたしは耳が熱くなり、うつむいた。勝手に意識しすぎてばかみたいだ。短くなったたばこのけむりがゆらめく。わたしは吸殻を灰皿に落とした。

「そろそろ講義なので行きます」

「四限終わりに屋上のコートで適当に集まってるから気が向いたらおいで」

 わたしはあいまいな返事をしてテーブルから離れた。


 大学ではクラスというものがなく、講義ごとに教室が変わり、座る席が自由なのでありがたかった。背の低いわたしは前に背の高いひとが座ると、黒板を読むために身体を右にずらしたり、左にずらしたりするので集中して授業が受けられない。大学に入るまではそうやってわたしが忙しく動くせいで、うしろに迷惑をかけることはときどきあり、謝ったあとは申し訳ない気持ちがこみあげ、授業どころではなくなってしまっていた。席替えの時期になると、今度こそ前の席にしてもらおうと先生に頼もうとするけれど、目の悪いひとやまじめに授業を受けたいひとのことを考えると言いだせず、毎回わたしは運を天にまかせて席替えのくじを引いていた。

 きっとこんな性格だからアイちゃんからレギュラーを奪えなかったのだろう。先輩がふたりでひとりの選手、と言っていたのは買いかぶりだ。たしかにわたしとアイちゃんはプレイのスタイルがちがって、お互いの足りない部分をおぎなう関係にあったと思う。得点が欲しく試合の展開を速めたいときはアイちゃん。落ちつかせてリードを守りたい時間帯のときにはわたし。でも試合に出ている時間はアイちゃんの方が長く、最後にコートにいるのもアイちゃんだった。プレッシャーのかからない練習や点差のついた試合でならわたしはうまくプレイできた。アイちゃんにだって負けてはなかったはずだ。

 しかし競った試合になればなるほど、わたしとアイちゃんとの差を感じられずにはいられなかった。決断の速さ、チームを励ます大きな声、リングを見据える力強い眼差し。とくに第四クォーターの勝負強さは圧巻だった。ディフェンスの意表をつくパスにキレのあるクロス・オーバー、男子みたいなワンハンドのジャンプ・シュート。何度アイちゃんのシュートで逆転勝ちしたかわからない。ブザーと同時にボールがリングに吸いこまれ、コート上で喜ぶみんなの姿をわたしはいつもベンチからみつめていた。

 

 夏の大会が終わって引退が決まったとき、大学でもバスケをつづけると言ったのはアイちゃんだけだった。試合に負けたあと、みんな悔しがって泣きながら帰りの支度をしていたのに、電車のシートに座る頃には、やっと引退だね、とか、もうつらい練習はたくさんとかそういった声が耳に入ってきた。

 あの涙はいったいなんだったのだろうか。彼女たちの感情は、まるでオセロみたいに白から黒へ黒から白へと簡単にころころ変わるもののように思えてしまって、わたしはやるせない気持ちでいっぱいになった。

 思えば、バッシュ事件が起きたときも彼女たちはそうだった。

 以前は、おなじメーカーのおなじモデルのバッシュを履くことが部員同士の決まりごとになっていたのに、アイちゃんはひとりナイキのズームフライトⅤを履きつづけていた。いまの先生はそんなことを言っていないし、自分にはこのバッシュがいちばん合っている、というのがアイちゃんの主張だった。その態度にキャプテンのカトウ先輩は我慢できなかったようで、再三の注意をアイちゃんにしていた。そしていつしか注意はアイちゃんを孤立させる動きへと変わっていった。先生のいる場所や練習中はそういった素振りはみじんも見せないのだけれど、部室や先生のいない場所ではアイちゃんに近づく子がいないよう、常にだれかしらの目があった。

 動けば絡みつくクモの巣みたいな監視網。その巣にひっかかると今度は自分も無視をされ、アイちゃんへの風あたりはますます強くなる。なかには先輩たちの盾をいいことに、モップがけやボール磨きをさぼって、おもしろ半分にアイちゃんに押しつける子もいた。わたしはこの状況をどうにかしたいと考えながらも、決まりを守らず勝手に振る舞うアイちゃんにも、納得がいかないところがないわけではなかった。けっきょくいい案は浮かばず、わたしは問題を解決できないままでいた。

 

 あの日、朝練の時間より早く体育館につくと、アイちゃんがひとりでシューティングをしていた。リングにはじかれたボールがわたしのそばにころがり、アイちゃんがボールをとりにきた。わたしは思いきって声をかけた。

「いつもごめん」

 アイちゃんはきょとんとしてボールを受け取った。

「フロアとか……」

「いいよ。わたしが最初に来て最後に帰るんだから。それにわたしも使うんだし」とアイちゃんは言った。「バスケができなくなるのと、これが履けなくなることにくらべたらたいしたことじゃないから」

「スズキさん、ずっとズームフライト?」

「長いね。あなたはそのバッシュ好き?」

「わりと」

「わりと?」アイちゃんは眉をよせた。

「いちばん好きなやつは足に合わなくて」とわたしはちいさく言った。

「わたしはそれだめなんだ。なかで足がすべるし靴ずれになるし」

「履いたことあるんだ」

「一度ね」

「どうしてズームフライトなの?」

「憧れてる選手が履いてて。ひとめぼれ。それでショップで試しに足を入れたらぴったりきたんだ。わたしにはこれしかないってひらめいた。それから一筋」

「憧れの選手ってジェイソン・キッド?」

 アイちゃんの顔がぱっと明るくなった。「よく知ってるね。NBAの話ができる女の子にはじめて会ったかも」

「わたしも」

「きっかけは?」

「兄がミニバスをやっていて、それでバスケに興味を持ったの。ちょうどそのときジョーダンの復帰のニュースが流れていて、ブルズ時代のプレイのハイライトを見た瞬間好きになったんだ」

「みんな本場のバスケを見ないでいったいなにを見てるんだろう。ところであなたの好きなバッシュは?」

「ジョーダン12。わたしの足は幅が広いから小指があたって……あれを履いたらプレイどころじゃないの」

「あれは神様の足に合わせてつくられたものだから」

 やわらかな印象がまぶたに漂い、赤みがさしたほほにえくぼがあらわれた。こんなふうに笑うひとなんだ。出会ってから機嫌の悪そうな表情しか知らなかったわたしは、それだけでアイちゃんの人柄を決めつけていた自分が恥ずかしくなった。

「そう考えるとわたしはラッキーなんだね、好きなバッシュが履けて」、アイちゃんはTシャツの袖で顔の汗を拭った。「キャプテンの言ってることはさ、わかるんだ。けどわたしもここは譲れない。きょうキャプテンと話すよ。いつまでもこんな状況のまま迷惑かけるわけにはいかないし」

「迷惑だなんて」

「わたしがそのバッシュを履けたらこんな状況にはならなかった。そうでしょ? さあそろそろひとが来る。また割を食う必要はないから」

 アイちゃんはかろやかにドリブルをついてわたしから離れていった。左右にゆれるポニー・テイルが凛々しく見えた。

「あいつとなに話してたの?」、うしろからカトウ先輩の声がした。

「ボールを渡しただけです」とわたしは言った。


 つぎの日からカトウ先輩は練習に来なくなった。部室ではいろんな噂が飛び交っていた。噂の切れはしを繋いでいくと、どうやらきのうカトウ先輩とアイちゃんのあいだで、ワン・オン・ワンをして負けた方が部活をやめるという条件の勝負があった、ということだった。

 その日わたしは本当のことを聞くために、アイちゃんとふたりきりになるまで居残り練習をしていた。

「なにか用でもあるの?」とシュートを打ちながらアイちゃんが言った。 

 わたしは手のなかでまわしていたボールをとめた。「ワン・オン・ワンの話ってほんとなの?」

 がしゃんという鈍い音がしてボールがリングに跳ねた。

「むこうが言いだして……断わりきれなかった。なにもやめることなんてないのに」

 カトウ先輩がやめてしばらくのあいだ部の雰囲気はごたごたしていた。わたしはこれでさらにアイちゃんの立場が悪くなるのではと心配したけれど、意外になにも起こらなかった。そんななかだれかが、あのひとがいなくなってよかった、とこぼした。その言葉は波紋のように広がり、カトウ先輩の悪口やこれで好きなバッシュが履ける、といった会話が部室のあちこちから聞こえてきた。それから次第にアイちゃんへの風あたりは弱まり、みんなから一目置かれる存在となった。

 ある日の練習の休憩中、アイちゃんは練習再開まではみんなとわけ隔てなく話していたけれど、ひとりになった瞬間この状況の変わりぶりにか、なんだかなあ、とやりきれないように小さく首をふっていたっけ。


 そんなことを思い出していたら、となりに座ったアイちゃんが突然、つづけるよね? と言った。それがわたしに向けられたものだと気がつくのにちょっと時間がかかった。アイちゃんは真剣なひとみをしていた。

「たぶん……つづけない」

「どうして?」

 夕暮れに電車はゆれ、アイちゃんの顔がはちみつ色に染まる。

「わたしはここまでで、これから先にすすめる自信がないから」

「すすめばいいじゃない。なんであきらめるの?」

「わたしには背もパワーもスピードもない。大学ではアイちゃんみたいなひとがやっていけるのだと思う」

 わたしは運動量やパスとシュートの精度といった手持ちのカードで勝負するのも、持っていないものを持っているふりをして勝負をするのにも限界を感じていた。

 アイちゃんはさびしそうに微笑んだ。わたしはいままで見たことのない表情にはっとしてとっさに謝った。

「気にしないで、わたしが勝手にユウはつづけるものだと思ってただけだから。でも、これだけは言っとくね。わたしが全力でプレイできたのはユウがいたからなんだよ」

 目じりが涙でほのかに濡れた。

「バスケ、好き?」

「好き。ずっと片思い」わたしはふるえる声で言った。

「まったく女泣かせなやつだなお前は」、アイちゃんは膝の上のボール・バッグを手のひらでたたいた。

「なにそれ」わたしは思わず笑ってしまった。

「だって試合中は十人の女がこいつを追うんだよ。立派なプレイ・ボーイだよ」

「じゃあラグビー・ボールはもっと女泣かせだね」

「たしかに。それに手から離れたらどこへ行くか見当がつかない。浮気性の男だ」

 ひとしきり冗談を言い合ったあとで、「わたしもバスケが好き。何回生まれ変わっても好きになる。わたしはやるよ」とアイちゃんはリングを見据えたときとおなじ力強い眼差しで言った。わたしは憧れとも嫉妬ともわからない気持ちを抱きながら、そんなアイちゃんに見とれてしまった。


 チャイムが鳴った。わたしが思い出にひたっているあいだに講義は終わってしまった。先生の、ここまで、という声を合図に教室は席を立つひとや友だち同士で話す声でさわがしくなる。ほとんどノートをとれていない。わたしは黒板に書かれた字を見ながら急いでペンを動かした。徐々にざわめきが退けていく。手をとめてノートに目をやると、ほかのひとには読めない字が書きなぐられていた。それを消して書き直し終わる頃には、もうつぎの講義のひとたちが席に座りだしていた。わたしは荷物をまとめ、リュックを背負うひまもなく教室を出た。

 一本吸ってから講義に行こうなんて思わなければよかった。まっすぐ行っていたら先輩に会わずにすんだのに。でも後悔してもあとの祭りだ。そういえばこの学校で先輩と出会ったのはあそこの喫煙所だった。

 先輩はイトウさんと一服しているところにふらりと来て、火を貸してくれませんか、と言い、わたしがライターを差し出すとまじまじと顔を見て、わたしの名前をぽつりともらした。わたしはすぐには先輩と気づけず、出身校を聞いてようやくタナカ先輩だとわかった。中学生のときとくらべて背がずいぶん高くなっていたし、髪も染めて眼鏡をかけていたので本当にだれだかわからなかった。それから久しぶりです、とか元気でしたか、とかありきたりな会話のやり取りをしたあとで、わたしたちはサークルに誘われた。わたしは断ったのだけれど、イトウさんはマネージャーでも大丈夫ですか? と先輩に訊ねた。わたしはイトウさんの指先を彩る長いつめを見て心配になった。

「つめ、割れちゃうかもよ?」

「これチップだからとっちゃうよ」

 友だちとネイルケアの方法や、どこのショップの店員の腕がいいとかそういった話をよくしていて、ネイルにこだわりがあると思っていたわたしは、あっさり取ると言ったその言葉に驚いた。

 イトウさんはサークルに入ってからネイルをやめただけではなく、ファッションも変わっていった。胸元まであったくるみ色の髪を黒く染めなおし、うなじが覗くまでばっさり切った。スカートを目にすることはほとんどなくなり、化粧もどこか薄くなった気がした。入学後のガイダンスでとなり合わせたときとはまるで別人。ふしぎだ、どちらもおなじイトウさんなのに。イトウさんとは逆に髪を伸ばして化粧をしたら、わたしは女の子らしい別のわたしになれるのだろうか。

 一階のホールは多くの学生がテーブルを囲みにぎわっている。でもゴールデン・ウイークまでの光景を思うと、そのにぎわいは落ちついたみたいだ。きょうの講義はもうおしまい。時間割が自分で組めるのも新鮮な感覚だ。

 外の空気はあたたかく、空の青に木々の緑が色濃くはえる。陽が高いうちに帰れるなんて、部活が忙しかった高校時代では考えられないことだ。


 

  2

 アパートのうす暗い階段をのぼり陽だまりの踊り場へ出る。ふと買い物袋を両手に、エレベーターがあれば楽なのに、とこぼしていた母の姿があたまをよぎった。わたしが、疲れるのはそのヒールの高い靴のせいもあるんじゃないの、と言うと、そんなことないわ、と母はよく返していた。最後の段をあがり、ドアに視線をうつすと回覧板が立てかけられていた。

 「お帰りなさい。なんだかユウちゃんがこんな時間に帰ってくるなんて変な感じね」とユキコさんは言った。

「ただいま帰りました」、わたしは回覧板をテーブルに置いた。「たぶんこれからずっとこんな感じですよ。それよりいつもありがとうございます」

「いいのよ。わたしの方こそお店ありがとう」

「アルバイトを探していたのでちょうどよかったです。お腹大きくなりましたね」

「ええ、わたしはまだ大丈夫なのにあのひとが心配性でこまるわ」、ユキコさんは愛しむようにエプロンのうえからお腹をさすった。「ユウちゃん今晩はなにが食べたい?」

「ユキコさんの料理ならなんでもいいですよ」

「嬉しいけど悩ましい答えね。いいわ、お腹へらして待ってて」

 机に向かい講義の復習をしようとしたけれどまったく身が入らない。わたしはノートにペンをころがし、ほおづえをついた。

 母が亡くなってから、ユキコさんは時間を見つけては家事を手伝いにきてくれている。それまで料理や洗濯をまともにしてこなかったわたしに、いろいろ教えてくれるユキコさんにはいくらお礼を言っても足りないくらいだ。でもその反面、母のいた場所にほかのひとがいる違和感や、自分よりなんでも上手にこなすユキコさんへのあせりと自分へのいら立ちの感情がもつれあって、いまだにわたしはユキコさんとうまく接することができないでいる。

 その点、兄とヒロはうまくやっているように見える。一人暮らしをしている兄はまれに帰って来たときに居合わせてもそつなく対応するし、ヒロもわたしみたいにぎこちなくユキコさんとは話さない。わたしも早く自然にユキコさんと話せるようにならないと。

「ユウちゃんお弁当箱は?」

 ふいにユキコさんの声がした。うっかりしていた。わたしはその声に応えて椅子を立ち、リュックのファスナーをひらいた。

 ユキコさんは台所で夕飯の支度をしていた。まな板に包丁があたる音が気持ちよくひびく。シンクの三角コーナーにはじゃがいもとにんじん、玉ねぎの皮が入っていた。鍋から漂うカレーのにおいが香ばしい。

「あとでまとめて洗っちゃうからそのへんに置いといて」

「いいにおいですね」

 ユキコさんは包丁を動かす手をとめた。「お母さんの味は出せないけど」

 それはわたしが出せなければいけないものなのに。料理をつくりに来てくれた初日、ユキコさんに母の下ごしらえや味つけを聞かれ、わかりませんとしか言えなかった自分が情けない。 

「ユキコさんのカレー好きですよ」

「そう言ってもらえるとつくりがいがあるってものね」、ユキコさんはサラダのキウリを切る作業に戻った。

 テーブルに置かれた回覧板が目に入った。回覧板をひらくと町内会や小中学校のPTAの活動報告と、なにもそんなことまで知らせなくても、と言いたくなってしまうような町内会長からのお知らせが挟まれていた。きょうは、度が合わなくなった眼鏡を買い替えたら掃除の見落としやすい場所に気づきました、と書かれていた。この前は、新しい靴を履いて散歩がてら近所の公園に行くと、花壇のひなげしがきれいに咲いていました、というお知らせだった。

「眼鏡、替えられたんですね」

「そうね」

「わざわざ書くほどのことじゃない気がしますけど」と言ってわたしは苦笑いをした。

「そうね」とユキコさんも笑った。「でもこうしてお知らせが来たからひとつ会話ができたわ。会長さんに会ったときにはスムーズにお話しできるでしょ」

 たしかにユキコさんの言うとおりだ。

「ときにはこういった些細な、あるいはどうでもいいと思うようなことが大切なのよ」


 踊り場の柵越しに見える空はすそが赤く燃えている。そのうえに熟れたアケビのような色が滲み、高くのぼるにつれて色は深まり、夜の気配を漂わせている。わたしはサンダルを鳴らして階段を駆けあがり、回覧板をドアノブにさげた。引っ越してきてからだいぶ経つのに表札にはまだ名前がない。若い夫婦ということは聞いているけれど、どんな夫婦なのだろう。わかっているのは、前にいたアオキさん一家より静かなひとたちということだけだ。

 アオキさんのところにはちいさい男の子が三人いて、部屋を走り回る音や笑い声、奥さんの怒る声が天井を通してよく聞こえてにぎやかだった。朝、ランニングをしに外へ出ると、ごみを出しに来た奥さんに困ったような頬笑みで、いつもうるさくしてごめんなさい、とよく言われたっけ。

 階段をおりるとカレーのにおいがした。そろそろほかの家からも夕飯のにおいが空気にとけだす頃だ。


「それじゃ、ヒロくんによろしくね」

「ええ、伝えておきます」

「お父さんの帰りは三日後だっけ?」

「そう聞いています」

「気をつけてね」

 

 母とはちがう味だけれどユキコさんの料理はおいしい。つい食べ過ぎてしまう。もう運動をしていないのだから食べる量は減らさなければいけないのに。背がちいさいうえに太ってしまったら目もあてられない。お腹をつまんだ。少し肉がついたかもしれない。ダイエット――部活をしていたときには考えもしなかったことだ。

 イトウさんからもらったファッション雑誌には、ダイエット方法やダイエット食品がたくさん載っている。でもこれだと思えるものはない。運動をして食べるものをきちんと選ぶ。それが自然なやせ方だとわたしは思う。またランニングをすれば――だめだ。ランニングをしたらこんどは全力で走りたくなる。全力で走ったらボールをつきたくなる。ボールをついたら……。わたしはあたまを抱えた。選手としての生命線だった運動量をなくすためにランニングをやめて、たばこも吸って、もうバスケはあきらめたはずなのに。

 カメラが好きだった母は家族の写真を撮ってはフレームに入れて、電話台のとなりのサイドボードのうえに飾っていた。旅行の写真や入学式や卒業式の写真――それに部活の写真も以前はあった。そう、部活のものはわたしが高校に入って、ベンチをあたためる時間が長くなったとき、恥ずかしいから来ないで、と母に言って以来兄のものもヒロのものも並ばなくなってしまった。そしていまサイドボードにあたらしい写真は並ばない。

 小さい頃、母はわたしにフリルのワンピースを着せたり、長い髪を三つ編みにしたり、ぬいぐるみや着せ替え人形を買ってくれたりしていた。だけどわたしはそういったものには興味を持てず、兄にくっついて外でボール遊びやおにごっこをする方が楽しくてしかたなかった。スカートだけではなく、下着まで泥まみれにして怒られたことは数えきれない。

 バスケをしたい、と言ったときも母はあまりいい顔をしなかった。大きくなるにつれて母はうるさく言うことは少なくなった。ただ、ときどきむかしの写真を手にしては、この頃はかわいかったね、と言い、なつかしむような目でわたしを眺めることがあり、そのたびにわたしはうしろめたさから言葉をにごして逃げていた。

 ページをめくると、漫画とバスケットの雑誌くらいしか見たことのないわたしには、知らない世界が広がっている。化粧の手順や化粧品にアパレルのブランド名。洋服や靴の横に書かれた値段はひとつひとつは手のとどかないものではないけれど、それらを身にまとうモデルのコーディネイトを見るとそれなりの金額になっている。もう一冊の大人っぽい雰囲気のモデルが表紙を飾る雑誌に目を通すと、化粧品だけでわたしの口座はからっぽになってしまいそうだ。

 メイクをして服を変えたらもっとかわいくなるのに、とイトウさんにすすめられて雑誌をもらったけど、わたしには自分がどう変わっていくのか想像がつかない。机の引き出しから買ったばかりの鏡を出し、化粧道具を並べた。化粧をしたらわたしはどうなるのだろうか。ためしたい気持ちと恥ずかしい気持ちがあたまのなかで渦まいていく。

 髪をなでる。伸ばしているのにまだ男子みたいな長さだ。母のなじみの美容室でずっと短くしてもらっていたので、どんな髪型が自分に似合うのかわからない。伸ばしつづけて小さい頃とおなじようにするか、アイちゃんみたいに染めてうしろで結んでみようか……。なんだかこの頃はバスケをやっていたときよりも悩みが多い気がする。


 がちゃがちゃと音をたてて鍵が入りドアがひらいた。玄関に近い脱衣所にいるとその音は大きく聞こえる。

「姉ちゃんごはんは」と疲れきった声がした。

たっぷりしごかれてきたのだろう。わたしがメニューを告げると同時に喜びの声があがった。身体が大きくなってもこういうところは変わらない。

わたしは脱ぎかけた服を戻した。脱衣所の戸が引かれ、鏡にヒロの驚いた表情がうつった。

「びっくりしたな」

「おかえり」

「ああ、ただいま」

 ヒロはエナメルバッグを床に置き、練習着が入ったビニール袋をとりだした。Tシャツとバスケット・パンツは汗でぐっしょりと濡れて絡みあっている。

「それくらい自分でやりなさいよ」

「疲れてるの。じゃよろしく」

「もう……」

 ヒロは汗まみれのかたまりを洗濯かごに放り込み、するりとわたしの横を抜けていった。疲れていてもこういうときの身のこなしは速い。わたしはため息をついてかごから洗濯物をつまみ、ほぐしてからネットに入れた。

 湯船にしずくが垂れ両手でお湯をすくった。わたしはあたたまってきた指先をじっとみつめた。わたしはヒロにあんなことを言える立場ではないのに。料理や洗い物、掃除に洗濯――みんな母がいなくなってからその大変さが身に染みたことだ。三人分でも大変なのに兄が一人暮らしをするまでは五人分を毎日毎日やっていたなんて……母に甘えきっていたことを痛感する。

 わたしは母を亡くしてから母のやさしさをわかりだした物わかりのわるい人間だ。生きているときにもっと感謝の気持ちを伝えておきたかった。もっといっぱい話がしたかった。もっとたくさん……ヒロはわたしよりも母と過ごしてきた時間が短い。母にしか言えなかったり頼れなかったりすることはわたしよりあるはずだ。わたしがもっとしっかりしないと。 

 

 湯船からあがりシャワーを出した。シャワーは身体をつたい床に流れる。せっけんをあわだて、腕にすべらせた。筋肉が落ちてきている。もどすほど食べてプロテインを飲んでトレーニングをしてつけた筋肉もすぐに衰える。そのかわり、やわらかく丸みをおびた身体つきになっていく。胸を洗うとふくらみが大きく自己主張をしている。わたしはこの胸が好きになれない。なにをするにも邪魔になるし、わたしがくちにしたものはこんなものを大きくするためではなくて、背を伸ばし強い身体をつくるためのものだったのに。このさきこの胸はなにかの役にたつのだろうか?

 バスケをやっていた頃は、目の前に身長はいらないけれど胸を欲しがっているひとがいて、もしお互いの胸と背を交換することができたなら、わたしはふくらみがなくなるまで交換をお願いしたい、とそんなことばかり考えていた。


 バスタオルで髪を乾かしながらリビングに行くと、ヒロがプロテインを飲んでいた。

「それ、わたしのシェイカー」

「いいじゃん、もう使ってないんだし」とヒロは横目でわたしを見てあっさりと言った。

「それはそうだけど」、わたしは食器棚からグラスをとった。「練習……どうだった?」背中越しにヒロに訊ねた。

「べつにふつうだよ。いつもどおり。風呂入ってくる」

「そう……」

 ウーロン茶をグラスに注いだ。流しにはシェイカーとよごれたスプーンとお皿が置かれていた。わたしはスポンジを手にとり、グラスと一緒に洗って棚にしまった。母だったら、ユキコさんだったら、うまく話をつなげることができたのだろうか。

 洗濯物を干してベッドにもぐりこんだ。それから目覚まし時計のアラームをセットした。あしたは一限を入れてないのでゆっくりできる。わたしは暗闇のなか眠りが訪れるのを待った。なんだかあたたまった身体の熱がひいていくのが遅い気がする。わたしはまぶたをとじ、寝返りをうった。


 アラームが鳴る前に目が覚めた。習慣はなかなか変わらない。廊下からヒロのウインドブレイカーのこすれ合う音と床板のきしむ音が聞こえる。もういちど眠りにつこうと思ったけれど、その音に急きたてられているみたいでそわそわする。わたしは背中を伸ばし、目をひらいた。

 顔を洗い蛇口をしめた。わたしは目を閉じたままタオルに手を伸ばした。でも置いたはずの場所にタオルはなく、わたしの手は宙をつかんだ。ふいにあたまにふわりとしたものがのった。

「走らないの?」

 わたしはあたまにのったタオルをつかみ、顔をふいた。

「終わったならちょっとどいてよ」

 うえから間延びした眠そうな声が落ちてきた。鏡にうつったヒロはあくびをして、はねた髪をなおしていた。

「そうそう。この前会長さんに話かけられたよ」

「会長さんに? あいさつだけじゃなくて?」

「うん」

「どんなこと話したの?」

「ん、最近妹さんは走らないんだね、って。あれ姉なんです、って言ったら驚いてた」とヒロはおもしろそうに言った。

「はやく走ってきなさいよ」わたしはヒロにタオルを投げつけた。


 やりかけの復習を済ませコーヒーを淹れていると、ヒロがランニングから帰ってきた。ヒロはドアから顔をのぞかせて、「くもってるから上着あったほうがいいかも」と言って顔をひっこめた。

 制服に着替えたヒロを待ってテーブルについた。わたしはコーヒーとバナナとヨーグルト、ヒロはきのうの残りを食べた。

「それでよくもつね。おれだったら学校着くまでに腹がへるよ」

「もたせるの。わたしバイトだから、ユキコさんに迷惑かけないでね。お弁当もった?」

「もった」、ヒロは席を立ちエナメルバッグに手をかけた。

「いってらっしゃい」

 クローゼットにぶら下がったジャージや何年前に買ったか忘れた服をかきわけ、パーカーをひっぱり出した。すみっこに積み上げたバスケット・シューズの箱たち。ほこりがうっすらかぶっている。小中高と履き潰したシューズ。もう履けないのに捨てられない。

 どのシューズにも思い出がつまっている。はじめて試合に出たときの激しい鼓動、下着をしぼれるくらい汗を流した夏の合宿、アイちゃんからレギュラーを奪おうと頑張った日々。それは星の数をかぞえる方がかんたんに思えてしまうほど。いつまでも思い出のなかで生きてゆくことができたなら……、ふとそんなあてもないことが思い浮かんだ。


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