泊めてください
「――痛い……痛い」
どうして自分だけが、と女は思う。
女には何一つ失態など無かった。
ただ、単に他に好きな人が出来た、と言う相手の男の都合一つで裏切られたのだ。
女友達――だったのだろうか――に話しても唯の失恋だと笑われ、最後には「また次にいけばいいじゃん」なんて薄っぺらな励ましで終わる。
女がいくら悔しくても、どんなに男を憎んでも、その憎しみは男には届かず宙に霧散し、風化する。
――そうして、女は死を選んだ。
せめて、男の記憶に一生消えない傷跡を残してやるために。
だが、この有様は何だ。
飛び降りたにもかかわらず、体はギリギリのところで生を保ち続け、今なお女に苦痛を供給し続ける。
「痛い、どうして、痛い、どうして――」
せめて楽に死なせて欲しかったのに、最期の最期まで女の思い通りにはいかなかった。
女は死の間際まで男のせいで苦しめられ続けるのだった。
「痛い、許さない、痛い……許さない、許さない」
――しばらくすると、飛び降りたマンションの住人が女を見つけ、悲鳴を上げる。
――うるさい。黙れ。
女は苦しみの中、最期に看取る人間にさえ、嫌悪の感情を向けられるのだった。
「お前らも……くるしめ……しあわせ、なんか……ゆるさない」
女は男を呪い、そしてやり場の無い怒りをぶつける先を求め、最期にこの世の全てを呪って息絶えた。
「久しぶりー! ■■! 近くに来たから寄ってみたぜー。……というか、トイレ貸して!」
インターフォンの映像を見るとそこには懐かしい顔があった。
2年ぶりだろうか。
ゼミの時代の同級生の▲%#$である。
こんな夜更けに来客とは珍しいと思ったが、覗かせた顔もこれまた懐かしい。
■■は快諾してマンション1階のオートロックを開ける。
暫くして玄関のチャイムの音が鳴り、■■が鍵を開けるや否や、▲%#$が部屋に飛び込んできた。
「わりぃ! 漏れそう! まずトイレ貸して!」
ドタドタとトイレに駆け込んで行った。
「いやー助かった! サンキューな!」
▲%#$はカラカラと笑って言う。
なんでも▲%#$は出張でこの近くまで来ていたらしく、丁度トイレに行きたくなったときに■■の家のことを思い出したらしい。
コンビニにでも行けばよかったんじゃないのかと訊くと、せっかく近くまで来たんだから■■のお邪魔でもしてやろうと思ったと言った。
「最近、どうよ?」
▲%#$が何の前触れも無く「どう」と訊いてくるのは学生時代から変わらず、色恋沙汰のことだった。
「特に何も無し。きっかけも無し。……あ、でも明日半年ぶりの合コンだったわ」
「何だよ。いいじゃんか」
「そっちは?」
「彼女と別れて1年くらいずっと何も無し。なんかもう、しばらく良いかなって」
久しぶりの再会にもかかわらず、話す内容なんて学生時代と何にも変わらない。
まあ、男の会話なんてこんなものだ。
とりとめも無く、中身の無い会話をしばらくした後、
「じゃあ、またな!」
▲%#$は学生時代と変わらぬ風な挨拶で帰っていく。
「お前んちも完全に覚えたし、また近く来たら寄るわ」
「その前に連絡ぐらいしてこいよ」
帰り支度を整えた▲%#$は笑いながら玄関のドアを開ける。
――同時に隣の家のドアが閉まる音がした。
そう言えばここに住んでからだいぶ経つけどまだ隣人と顔を合わしたことも無かったっけ、などと■■がぼんやりと考えていると、
▲%#$はニヤッと笑いゆっくりとこちらを振り向いた。
「なんだよ――」
そう声を上げたとき、■■は玄関前に見慣れない女性の姿を認めた。
▲%#$の目は完全に「案外隅に置けないなお前は」と言っていた。
じゃあな~と、▲%#$はそそくさとその場を立ち去っていく。
――玄関前に立つその女性は美形、と言える顔立ちの小柄な人だった。
静かに、じっと■■を見据えて玄関前に立っている。
――だが、この女性は誰だ。
■■には見覚えの無い女性だった。
厳密に言えば会ったことがあるような、そんな気がするが確証の持てない、そんな感覚。
だが、少なくともいつどこで出会ったかなんて覚えていないし、名前なんて当然知るはずも無かった。
職場にいる女性は顔と名前が全員一致するほどには少ないので、仕事関係の人ではないことは明白だ。
――で、あればいつか行った合コンで出会った女性だろうか。
入社当時は先輩に付き合わされてよく行ったものだ。
だが、そういった場で出会った人間関係というものはどうにも苦手で、いつも途中で連絡を途絶えさせてしまっていた。
心当たり、と言うよりも可能性があるとすれば、この女性もその時に出会った一人なのかも知れない。
そんなふうに考えあぐね、それでもやっぱり心当たりが無く、仕方なく失礼を承知で本人に尋ねようかと口を開いたとき――。
「今日、泊めてくれませんか?」
「……え?」
女性が先に口を開いた。
「今日、泊めてくれませんか?」
再び尋ねてくる。
心なしか、少し怒っているように見える。
そしてどういう訳か、女性は■■のことを完全に知っているふうだった。
その上で、自らを思い出せないでいる■■のことを非難するような視線を投げかけていた。
「電車がなくなっちゃったんです。泊めてください」
女性はそう言うとドアの隙間から部屋の中の様子を覗いてくる。
この女性が■■のことを知っていても、■■はこの女性のことを知らない。
少なくとも、覚えは無い。
そんな人間に急に泊めてくれ、と言われても土台無理な話だ。
だが、この女性の本気の視線に、■■は少し恐怖を覚える。
一旦■■も外に出て、ドアを閉める。
そして改めて女性に向き直り問いかける。
「電車が、無くなった? ――帰らなかったの?」
■■の混乱する頭ではついて出てくる質問も要領を得ない。
「いいから、泊めてください」
女性はあくまで表情を変えず、ただそれだけを要求する。
――恐らく合コンで出会った子なのだろう。
その場では盛り上がり、また連絡するね、などと煙に巻いてそのまま連絡をしなかった子の一人。
そうに違いない。
だが、それでこんなところまで押しかけてくるなんて、少々度が過ぎるのではないか。
――そもそも、俺は住所を教えたのか?
「住所、よく分かったね。伝えてたんだっけ」
「あなたがそんなことするはずありません」
「え?」
「調べたんです。泥棒さんみたいに」
女性は初めて、表情を変える。
気味の悪い、薄ら笑いへと。
「調べたって……。自分で調べてここまで来たの?」
「そうです」
何だよ。どこで知り合った子だろうが、この子単なるストーカーじゃないか。
「駄目だ、帰ってくれ」
「嫌です。泊めてください」
――埒が明かない。
■■はぐっと女の肩を掴み、エレベータのほうまでズイズイと押していく。
「帰ってくれ」
「嫌――だ」
女はあくまでも抵抗するが、何とかエレベータの前まで押しやって、ボタンを突く。
「あんまりしつこいと警察呼ぶぞ」
それでも女は玄関へ向かおうと抵抗する。
――エレベータを待つ時間がいつもの何倍にも感じる。
ようやく来たエレベータに女を押し込み、1階を押して閉じるボタンを押す。
しかし女も、すぐさま直下の階を押して抵抗を試みる。
■■は連打でそれを取り消し、再び閉じるボタンを押し、エレベータのドアを閉める。
――どうせ扉が閉まった後、またこいつは直ぐ下の階のボタンを押して上がってくるだろうが、その間に部屋に入って扉を閉めてしまおう。
チャイムが鳴っても無視だ。
あまりにしつこかったら警察を呼べば良い。
そんなふうに考えながら■■はエレベータの扉が完全に閉まるのを確認する。
エレベータが下に下り始め、女の顔が下の階へとスッと消え――
「な、なん、で――」
それは同時だった。
エレベータが下へと下がり、地面とエレベータの窓の隙間から女の顔が見えなくなる瞬間、隣の非常口の扉が開き、人が現れた。
――そこに現れた顔は紛れも無く、今エレベータで下に追いやった女だった。
エレベータは途中の階で止まることなく下へと降り続けている。
「泊めてください」
変わらぬ声のトーンで女は要求を続ける。
絶句した■■は一瞬の逡巡の後、再び女の肩を抑え、非常口へと押し戻す。
それに抵抗する力はあくまで生身の女と変わらない。
しかし、先ほどの現象はどう考えても普通じゃない。
女はズイズイと■■の部屋に向かおうとする。
だめだ、こいつを家に入れては――。
警察――、警察を呼ぼう。
思ったが、とっさの来訪者への対応だったため、当然携帯は家に置きっぱなしだ。
――チャイムを鳴らそう。
近くの部屋のチャイムを鳴らすんだ。
■■は女を自分の部屋の前に向かわせないよう気を配りながら、一番近くの部屋のチャイムを鳴らす。
「すみません! 助けてください! ――すみません!」
――早く、出てくれ!
幾度と無くチャイムを鳴らすが、一向にドアは開かない。
隣の家のチャイムを鳴らす。
それでも、出ない。
夜更けとはいえ、流石に、おかしい。
■■は狂ったように片っ端からチャイムを鳴らし回る。
しかし、どの部屋からも応答一つ返っては来なかった。
――■■は半ば泣き出しそうな気持ちになったが、気づけば2人組の警官が駆けつけていた。
良かった、誰もチャイムには出てくれなかったが、人知れず通報はしてくれていたようだ。
「すみません! この女、追い返してください」
声を張り上げるも、警官は2人を無視してバタバタと■■の隣人の部屋へと駆けつけていき、鬼気迫った顔で大丈夫ですか、と玄関のドアを叩きだした。
■■がいくら助けを乞うても、どうやらその声は警官には届いていないようだった。
「――何なんだよ……」
■■は再び絶望へと引き戻される。
警官はドアノブに手をかけ、鍵が掛かっていないことを確認する。
「入りますよ!」
そう言ってから、警官は玄関のドアを全開にする。
――と、同時に中から人がもたれ掛かるように倒れてきて、警官の1人に体を預けた。
上がる警官の短い悲鳴。
その住人、――■■の隣人は死んでいた。
唖然とする■■を尻目に女は薄ら笑いを浮かべて呟く。
「つぎは、あなた」
■■は悟った。
怪異はこのマンション全体で起こっている――。
そこで修一は目を覚ました。
夏も過ぎ、すっかり秋へと移り変わって涼しくなったというのに、修一は全身びっしょりと汗をかいていた。
「――くそ、何だったんだ」
先ほどまで見ていた悪夢のせいで目覚めは最悪だった。
時計に目をやると夜の23時を少し回ったところ。
夜勤から帰って、軽く仮眠をとるだけのつもりが寝すぎてしまったようだ。
まあいい、もう1度シャワーでも浴びてからまた寝よう。
そう思い、ベッドから起き上がったところでインターフォンが鳴った。
――この時間に誰かが来るなんて。
宅急便の来る時間でもないし。
訝しがりながらインターフォンの受話器をとりつつモニターを確認する。
その瞬間、修一は凍りつく。
そして、受話器からは2年ぶり、――いや先ほどぶりに聞いた真吾の声が流れてきた。
「久しぶりー! 修一! 近くに来たから寄ってみたぜー。……というか、トイレ貸して!」