西の水妖、大蛇の恋
待っててくださった奇特な方へ。そっと出す。
『みさき、未咲に会いたい』
ぽろりと涙が落ちるたび、拘束が強くなった。愛しいものを思うことさえ罪深いとでも言うつもりか。
下手に身じろぐと、賀茂川どころか、地中の水系まで操作してしまいそうで、動くことさえままならない。穢れに侵されるたび、清流を呼び寄せ、清めるがそれも、後手にしかならない。
足元からにじり寄る穢れはもう胸元まで届き、涼やかな青い衣を黒く汚していた。
いたちごっこの駆け引きに時折、視界さえ歪んで見える。
『この穢れがすべてを呑み込んでしまったら、我は、我のままでいられるのだろうか……』
……って、言うか。
ちらっと胸の先を見てしまった自分は、まさに浮世絵の中の春画と呼ばれる扇情的な絵画に勝るとも劣らぬ姿である。
西の水妖、賀茂は、背筋を震え上がらせた。
『こ、こっ……ころっとされてしまうのではあるまいか……? こ、こんな扇情的な縛られ方しておる我を、み、未咲が見てしまった日には…』
この事態を招いた橋姫はもちろん、思うが儘の我でさえ。
脳裏に、在りし日の未咲の雄姿が浮かんだ。
おんどりゃああ、うちの亭主に何さらすんじゃああああっと叫びながら、人ならざるろくろ首にケンカを売った勇ましくも愛おしいあの姿を。
『そうそう、あの時は、横恋慕してきたろくろ首の首根っこ引っ掴んで、降りまわして、泣き言こぼすまで離さなかったっけ……』
伸びに伸びた首を、もやい結びに、本結び、巻き結びに二重8字むすびと、とりどりのロープ結びを披露したあの震えるほどの雄姿。
ぽっと青白い顔に紅がさした。
あのつんつんの未咲が、顔を真っ赤にしてろくろ首と対峙してくれたものだから、うれしいやら、くすぐったいやら、感情の波が激しく動いて、危うく賀茂川どころか高野川まで氾濫する一歩手前まで行ったものだった。
元より惚れぬいていたが、さらに惚れ直してしまった。嫉妬の炎に身を焦がす未咲のなんと美しいこと。
ろくろ首を成敗した後、わきが甘いのだ、ガードが緩いのだとしこたま怒られたのもいい思い出だ。
一週間の正座で水ごりなんて、罰らしくもないやさしい罰で許してくれた、かわゆくて優しい女房なのだ。
そしてあの時の御籠りで、真人ができたんだっけ、と目を閉じてむふむふと笑みをこぼす。
なんだか、あの時の未咲の雄姿に勝るとも劣らない、惚れ直してそのまま、我が巣穴へこもりきりにしてしまおうか、などと思えるかわゆい未咲にまた会えるかもしれないって思ったら、またぎゅうううううっと締め上げられたが。
『これも未咲との恋の刺激というものか』
なぜか息を吹き返し、わくわくしだす水妖だった。
※※※
「わらしさま、烏天狗の許可ももらったし……『さっそく殴り込みに参ろうぞっ!』時雨、先走らないの」
右腕が勝手にぐるぐると振り回される。いうことを聞かない右腕に困りながら、わらしさまの隣に立った。
わらしさまの白い手がそっと右腕に添えられると、こんどは勝手に右手のひらがぐーぱーする。
時雨のやつが功を急ぐのか、ただでさえ暑苦しいやつなのに、輪をかけてせわしない。
『腕が鳴るのぅっ! 真人のご尊父殿の一大事じゃもん、わし、頑張るっ』
(この駄剣が。なぞらねばならない手順がまだあるのですぞ。ぬしさまを困らせるというのなら、わたくしの全霊でもって貴様をぬしさまの身体より引き剥がそうぞ)
『あ、わし、おとなしゅうする!』
……本当かよ。
(さて京都の神域へはいるための魂鎮めの儀を執り行います)
「魂鎮め?」
(上賀茂神社へ参ります。ご尊父さまに近いご神域で、西の大妖、烏天狗の許しがあることと、これより京を騒がせることへのお詫び、東の蛮勇の力を借りてでもなさねばならぬ事があると表明しにいくのです。)
「……わらしさまは蛮勇なんかじゃないじゃん」
(ありがたきこと。されどぬしさま、妖にも格というものがありますれば、東の童神など、吹けば飛ぶような塵芥。京の都の妖は、そろいもそろって格も霊域も段ちがい。ですから、許しを得に行くのでございます。さいわい、難関であった烏天狗の許可を得たので、すこぅし、楽になりますぞ)
「……うん。俺は何をすればいいのかな。教えてくれる?」
(父御が恋しいと泣いてくだされば、最上かと)
「うん、それ無理なやつだね」
ほほほと笑うわらしさまと歩を合わせる。
迷いなど、消え失せていた。
上賀茂神社は荘厳のことばに尽きた。圧倒される場の空気。二葉葵の御紋が刻まれた金具で社殿が飾られている。
あの文様は、神と人を結ぶ印なのですよと、わらしさまが教えてくれた。
ここを守っているのは賀茂別雷大神っていう、とってもえらい神様だというんだけど。
『おお、それがしが賀茂の子か! 賀茂めが実に良い子を持ったものよ。最近姿を見せなんだは、なるほど宇治の橋姫の仕業だったのか。さもあらん、あれも実に哀れな娘よのお』
気さくなおじさんって感じだった。
『うむ、これを持っていけ』
そういって一つうなずいた後に、一本の丹塗りの矢を下げ渡してくれた。
まよいがに戻って、また別のところへ移動する。
次に訪れたのは城南宮という優美なお社だった。おれの語彙力が不自由すぎてすまん。荘厳ででかくて綺麗で、すごく神聖な空気がビンビン伝わってくるんだ。
方除の大社として有名なところで、八千矛神という神様が守っている、神域なのですよと、わらしさまが教えてくれた。
神々しいお姿を想像してたら、本殿の屋根の上から気さくに手を振ってくれてて、面食らった。
まあ、バチなんか当たらないか……自分家だもんなあ。
『ふうん、まさか東の童神の背の君が、西の水妖に連なるものとは思わなんだ。遅くなったが祝いじゃ。童神、これを授けよう』
わらしさまの目の前に、ゆっくりと、黄金の鈴? 巫女さんなんかが手にもってしゃらしゃら振る鈴、神楽鈴が下りてきた。
(これはなによりの御助力にございます。謹んで賜ります)
『なになに。良き酒をもらったお返しじゃ』
(おくち汚しに過ぎないものでございますが、寛大なるお心に感謝いたします)
また寄るがよい、と言い残して、御姿が消える。
「京都の神様って、みんな難しい名前だねえ」
なんていうのか息をするのさえ憚られる荘厳な空気に、止めていた息をはーっとついた。
(八千鉾神とははるか昔の神おろしの頃の御名にございますれば。たしか、またの御神名を大国主命と……)
すっごい有名人いやいや、有名神だった。
そしてまたまよいがへ戻り、また別の神域へ向かう。
まよいがから出た先には、剣神社と記された石柱があり、その奥に赤い鳥居が見えた。
てっきりこのまま進むのかと思っていたら、わらしさまはすたすたと歩きだした。
「わらしさま? どこいくの?」
(こちらでも、もちろんよろしいのですが、今回ばかりは土地の力をも味方につけとうございますゆえ、本来建立されていた場所へ参ります)
五条通りと書いてある標識を横目に、わらしさまについていく。
(昔々、国の中心を定めたとき、このあたりは鳥辺野と呼ばれる葬送の地でありました。その際王城鎮護のために巽の方角に剣を埋め神殿を築いたのです。しかし二度ほど焼失しておりますゆえ、元の造営場所より少しずれているのですよ)
へえーと思いながら、わらしさまの後を追う。
「わらしさま、京都に詳しいね」
(ここは、この土地は、妖の故郷のようなものですから)
古より、妖怪奇譚が尽きぬ土地にございますれば、とわらしさまがつぶやいた。
剣神社の神様は、邇邇芸命が顔を出してくれた。
『なんだ、東の童神か……去ね去ね。表に行けば国生みの神であられる伊邪那岐も伊邪那美も、おばあさま(天照)だって顔を出すというのに、なにゆえ此処まで来た』
(生まれたばかりの赤子の剣に、霊力を賜りたく、ご無礼承知でお願いに上がりましてございます)
『わしは眠い、……さっさと出さんか、まったく』
ふふふとわらしさまが嬉しそうに笑った。
(ほんに、わらべにやさしいお方様ですこと。ぬしさま。時雨をこれに)
右手を差し出し、顕現と唱える前に、時雨から泣きつかれた。
「神々しくて、一介の刀風情ではお目汚しではないかと迷っているみたいです」
『たわけ!』
くわっと、神様から大目玉を食らった。身がすくむ。
そうしたら目の前を小さな嵐が吹き去る。ちょっと、呼んでもないのに……。
『すいません! お目汚しですいません! 御神刀だなんてうぬぼれててすいません!』
神様の真ん前でジャンピング土下座をしている時雨の背中だ。
『ふむ。わかいな。だがまあ良くぞ、邪を祓えるまで成長したな、わっぱよ。この時代刀として生まれてきてくれただけでも嬉しいぞ。さあ、顔をよく見せてみよ。うむ、いい面構えだ』
『え……、わ、わしが妖刀であったことをご存じなのですか……?』
うおっほんっと咳ばらいをすると、邇邇芸命が少し目を泳がせた。
『わ、わしはすべての剣の神でもあるからな!』
なんか、とーっても偉くて、とーっても神々しい背中に、可愛いつんでれ属性委員長の幻影が見えた気がした。
『ちこうよれ』
つんで……げふんげふん。邇邇芸命が厳かに右手をかざすと、時雨の身体が淡く光りだす。
嬉しそうな時雨には、霊験新たな力を授けてもらったらしい。らしいというのは、まるで外見が変わってないからだ。
でもわらしさまは嬉しそうに笑っている。
邇邇芸命も、孫や小動物を見守るように微笑んでいる。
(願が叶いましたら、東北六県の清酒を樽で)
『おお、樽でか!』
(もちろん地場産品もお付けして)
『米は一等米じゃぞ!』
(この童神が承りましてございます)
ふかぶかとお辞儀をした。
まよいがへ戻り、わらしさまが河童や小豆洗いに、ご神饌の準備をさせている間、時雨と話してみると『強くなった!……気がする』と実にあいまいな返事が返ってきた。
でもわらしさまがまとう空気が柔らかいから、ごく自然に大丈夫なんだって思ったんだ。




